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【2】こころの行方

 冷たい潮の香りが、開けた窓から入り込んで香織の頬を撫で付けていた。

 雲の多い空から時折覗かせる直射日光が海面に強く反射して、穏やかに揺らめく波が砕けたガラスのようにきらめいていた。

「寒くない?」

「大丈夫。海の匂いが気持ちいい」

 香織を乗せた千夏の車は、国道から産業道路を抜けて、海岸通りを走っていた。

 海浜公園の小さな駐車場に車を止めると、フロントガラス越しには、防波堤の向こうに広がる薄汚れた砂浜と、そこへ打ち寄せて白いしぶきをあげる海が見えた。

 少しの間、二人は黙ったままその寒々と荒涼な景色を眺めていた。

 引き潮で海面に突き出た岩場に、カモメの群れが集まって、黒い固まりになってうごめいている。

「最近元気が無いって、秀雄くん気にしてたわよ」

 千夏は水平線に浮かぶ小さな貨物船を見つめながら言った。

「マユは性同一性障害だったって、本当ですか?」

 香織がポツリと千夏に訊いた。

「誰に聞いたの?」

 千夏は驚いた表情で香織を見た。

「マユがメールで……」

「そう」

 千夏は少しためらいはしたが「本当よ。でも、事故の後遺症でその記憶そのものが消えたらしいの」

 チラリと香織を覗いながら千夏は

「きっと、誰かに聞いたのね。お母さんか、和弥君か……秀雄君かも」

「秀雄も知ってたの?」

「確か、知っていたと思ったけど」

「でも、あたしは知らなかった。あたしには言ってくれなかったのね」

 香織は少し俯いて、呟くように言った。

 千夏は香織の顔を再び見つめると

「誰かにそれを言う事が、どれだけ勇気のいる事かわかる?自分の身体が女性なのに心が男だなんて…… あなただったら、身近な人に言える?友達に言える?」

 顔を上げて千夏を見つめる香織に、彼女はささやかに微笑んで

「誰が見ても女の容姿で、同性、異性に関わらず、みんなは当然女だと思って近づいてくるのよ」

 香織は以前、真夕に援交デートのアルバイトを勧め、実際に自分と一緒にそれをこなした彼女を思い出した。

 その彼女の心は男だった…… 最後まで気乗りしない様子で、何人かの相手をしただけで早々と足を洗った真夕は、ただ真面目な女子高生なだけだと思っていた。

 理由は他にあったのだ。だってそれは、いくら身体の関係は無しでお金になると言っても、男性に男と付き合えと言っていたようなものなのだから。

 その時の真夕にとっては、男同士で手を繋いで街を歩くようなものなのだから。

 彼女の心を犯していたのは、あたしの方だった……

 香織は、ただ黙って正面に見える水平線を見つめていた。

「マユは…… 辛い思いをいっぱいしたのかなぁ」

「たぶん…… あたしたちには想像が出来ないほど……」

 千夏もあえて香織を見ずに、正面の海だけを眺めて言った。

「秀雄君も和弥君も、女性として付き合えないマユの心を、男同士として少しずつ支えてあげていたんじゃないかな」

 千夏は少し開いていた窓を全開にすると、メンソールのタバコを取り出して火を着けた。

「あたしって、心が狭いのかなぁ」

 香織は肩をすくめて目を細めると、雲のひしめき合う中途半端に青い空を見上げた。

「ひとの心は見えないものね」

 千夏はそう言って笑うと、開けた窓から空に向かってタバコの煙を吹いた。

 その煙は、空の雲に溶けるように、風に舞ってあっという間に消えた。

「あたしは、カート場に来た時からしかマユを知らないけど、彼女は今でもあの時のマユよ。元気で、明るくて……小さいのに逞しくて、負けず嫌いで……そして、ちょっと怒りっぽいけど思いやりだってちゃんとある。彼女はそんな娘だと思うな」

 千夏はそう言って、運転席の窓から外を眺めて

「あたしたちとの、この夏の記憶はほとんど消えてしまったけど…… いえ、きっと彼女の心の何処かには残ってるわ。あたしはそう思ってる」

 香織の頬から涙が伝って、すすり泣く声が聞こえた。

「あたし、マユをぶった。彼女の苦しみを何も知らないくせに……」

 その涙は、悔しさと後悔が入り混じった複雑なものだった。

 知らなかったとは言え、一方的に彼女を傷付けていた自分が、真夕に対してかざした「親友」という言葉…… それが急に遠くに霞んで、身勝手な自分の愚かな行為が恥ずかしかった。

「大丈夫よ。彼女はきっとあなたの事を怒ったり、恨んだりしないわ」

「でも、マユはあたしとの事ほとんど覚えてないから、あたしを親友だとは思ってないかもしれない」

「そんなことないわよ。あなたが彼女を思えばそれは通じるし、マユはそれに応えてくれるわ」

「そうかな……」

「そうじゃなかったら、わざわざ性同一性障害の事を話すかしら」

 千夏は優しい笑顔で香織を見つめ

「あたしなら、どうでもいい友達にそんな事はいちいち話さないな」

「チカさんは、いつから知ってたの?」

「8月末頃かな」

 千夏はシートを後ろにリクライニングさせると

「あたしね…… 男のマユに惚れちゃってたんだ」

 香織は驚きの顔を隠せなかった。

 いくら心が男だと言っても、真夕も外見は完全な女性なのだから。

「変だと思うでしょ。あたし自身がそう思ったもの。でも、あの瞳の奥にある男らしくて、どこか中性的な不思議な光に惹かれてしまったのね」

「じゃぁ、今は……?」

「もうそれは感じないわ。だって今の彼女は正真証明女性だもの」

 千夏は再びタバコを一本取り出して咥えると

「あたしの好きになった人は、遠くへ行ってしまったんだって思った」

 彼女はパッとライターに火を点して「だから決めたの。あたしは彼女のお姉さんになろうって」

 香織は自分のシートも倒して、千夏に並べた。

「みんな、それぞれにいろんな思いで生きてるんだね」

 千夏は香織の言葉に微笑んで

「そうよ。見える部分だけがその人の全てじゃないから」

「あたしもチカさんみたいに大人の女になろう」

 香織の顔にようやく笑顔が零れた頃、太陽は西の空に大きく傾いて、波間に光の帯を作っていた。



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