【23】こころの扉
その身体はキミのものになりそうだね。俺はこのまま長い眠りに着く事にしたよ。
「あなたは、あたしの男の心なの?」
まぁ、そんなもんかな。俺にもよくは解からないけど……
「この身体、あたしに返してくれるの?」
あはははっ…… 返す……か…。そうだな、その身体は元々キミのものだったのかもしれないな。無くした記憶を欲しいかい?
「記憶が戻ったら、あなたも戻るんじゃないの?」
そんな事はないさ。
記憶は頭の中、俺は心の中だからね。
「どっちでもいい。でも、友達との想い出は欲しいな」
少しずつ思い出すさ。
「ほんと?」
ああ、少しずつだろうけどね。じゃあな、その身体大切にしろよ。
「うん。ありがとう」
それから、その身体はもう……
「なに?」
いや。和弥はそんな事にこだわらないな。
………………………………………
…………………
突然、槍を投げ込まれたような電子音。それが目覚し時計だと気付くのにしばらくかかって、真夕はベッドの上にムクッと上体を起こした。
「夢……」
彼女は思い出したように鳴り続ける目覚し時計を止めると、布団を跳ね除けてベッドから出た。
彼女は以前にも似たような夢を見たことを思い出した。「俺」と呼ぶ真夕に話し掛けられた夢を。
あの時は、それが何なのか判らなかったが、今は何となく判るような気がする。
自分の心の奥、その扉の向こう側には、きっと性同一性障害に苦しんでいた自分がいるのだ。
あたしの中の、夢でしか逢えないあたしのMemory…
真夕は白いブラウスに着替えてスカートを履くと、箪笥から取り出したハイソックスをベッドにひっくり返って履いた。
キッチンへ下りると、食パンをトースターに入れて、サーバーに残っているコーヒーをカップに注いだ。
朝食を終えると、洗面所で髪にムースをつけながら
「少し、髪切ろうかな……」
真夕は昨晩、香織にメールを送った。
秀雄とはなんでもなく、友達だと言う事。そして、自分が記憶を無くすまで性同一性障害だった事。
真夕が家の門を出てマウンテンバイクを走らせて行くと、和弥がちょうど家から出てきた。
和弥の顔を見た真夕は心臓が途端にドキドキと高鳴るのを感じたが、それが顔に出ないように必死で堪えた。
目が合った瞬間、和弥の視線も一瞬宙を泳いだ。
「あれ?和弥、朝連は?」
先に話し掛けることで、彼女の鼓動の高鳴りは次第に収まっていった。
「えっ、あ、ああ。寝坊したよ」
和弥はそう言いながら、自転車のスピードを早めて真夕の前に出た。
彼は昨晩、なかなか寝付く事が出来なかった。長年の思いを遂げたおかしな戸惑いと高揚感で興奮した気持ちは、何時までも続いていた。
完全に諦めていたことだ。
真夕と唇を重ねる日が来ようとは、夢にも、いや夢でしか味わえない事だと思っていた。
和弥の夢には何度か真夕が出てきた事がある。まるで今を予知していたようなまるっきり女性の真夕だった。ただそれは、和弥が無意識に作り出した幻想だと彼も知っていた。
だから、本物の彼女とは、ただのキスだけでこんなにも心が高鳴って、見るもの全てが鮮やかな彩りに見えるのだ。この先の事に対する不安を感じる余裕すら彼には無かった。
2人は並んで住宅街を駆け抜けると農道へ出て、自然にスピードが上がった。
空が蒼かった。空を見上げても、それが蒼いと感じた事は無い。空は青くて当り前だから…… 晴れてるとか曇ってるとか、そんな認識しかした事は無かった。それなのに、今朝空を見上げた時和弥は、こんなに蒼い空があることを初めて知った気がした。
「学校まで最短記録で行くぞ!」
和弥が大声で言った。彼も、彼女と会話をすることで、鼓動の高鳴りが何時しかペダルをこぐ動悸へと変っていった。
「どうせ、部活は間に合わないんでしょ」
彼女の言葉に和弥は笑って「それでもいいんだよ」
「もう… 運動バカなんだから」
真夕は小さく肩をすくめて呟いた
朝の冷たい風が、真夕にはとても心地よくて、少し火照った頬にはちょうどよかった。
「マユ、あんまりスピードだすと、風でパンツ見えるぞ」
斜め後ろを走る彼女に、和弥が振り返って言った。
真夕はそれでもギヤを上げて「和弥ヤラシィ!」
違う答えが帰って来ても、それが真夕の言葉に変りは無い。
青い空が何処までも続く彼方には、大奥山脈が霞みに聳え、薄っすらと白い化粧が浮かんでいた。
和弥も、心地よい風に打たれながら、真夕に抜かれないように自転車のスピードを上げた。
次回より、第2章です。引き続きお付き合いいただければ幸いです。