【22】恋人
夕暮れまでにはまだまだ間があるのに、晩秋の陽射しは2人を薄っすらと黄昏色に染めていた。
「ちょっと出かけただけだったんだろ。誘って来たのは秀雄の方なんだし」
和弥はこの公園に唯一ある遊具の、古びたブランコに腰掛けて言った。
香織に呼び出されてここへ来た経緯を真夕から聞いたのだ。
「ううん。あたしが悪いんだよ。もっと、香織の身になって考えるべきだったんだよ」
「香織だって、今のマユに気分転換が必要だって知っているだろうに……」
和弥が呟いた。
真夕は和弥の隣のブランコに腰掛けると
「でも、あたしと香織は、そんなに親しくなってたの?」
「マユは、彼女が妊娠して悩んでた時、唯一力になってあげたのさ」
「香織、妊娠したの?」
「彼氏が逃げちゃってさ、それで、彼女はそうとう追い詰められてたんだ」
「子供はどうしたの?」
「降ろしたよ。今の彼女にはそうするしかなかったし……マユは彼女の病院にも付き添って行ったんだ」
真夕は薄っすらと黄昏色に霞む空を仰いだ。
「あたし…… 男の時の方が優しかったんだね」
真夕の呟いた言葉に、和弥は息を呑んだ。
「マユ…… 思い出してたのか?」
真夕は静かに首を横に振って「昨日、秀雄に聞いた」
「秀雄の奴、喋ったのか?」
「怒らないでね。あたしは感謝してるし、和弥だって、何れは話そうと思ってたんじゃない?」
和弥は真夕に言われてハッとした。
彼もまた、何時までも真夕に黙っているよりも、彼女自身の事全てを話すべきではないかと考える事があったのだ。
「大丈夫、あたしはあたし。変らないよ」
真夕は俯いて「ただ、人の痛みがわからなくなっただけ……」
和弥は自分のブランコを降りて真夕の腰掛けたブランコの椅子に足を掛けると、大きく反動をつけて立ち乗りした。
「ちょっと……… 和弥?」
和弥は真夕を座らせたまま二人乗りのブランコをグングンこいで、大きく揺らした。
地面を遠く離れた身体は、揺り返しの瞬間浮遊感に包まれる。
真夕は突然の和弥の行動に、鎖を掴んだ両手に、ただ力を込めるだけだった。
「マユは、人の痛みを忘れてなんかいないよ」
和弥は全身を使って、ブランコに大きな反動をつけながら
「きっと、誰よりも人の痛みを知ってる。心が男とか、身体が女とか、そんな事は関係なく、マユは、マユ。だろう」
真夕は、その言葉をどこかで聞いたような気がした。
和弥はさらにブランコを大きく揺らした。
住宅の屋根の向こうに傾いた夕日が眩しくて、なぜだか真夕は笑いが込み上げて来た。
「ちょっと、怖いでしょ。そんなに揺らしたら危ないってば」
「大丈夫だよ。昔はこのぐらい揺らして跳んだぜ」
このブランコは、小さい頃に真夕と和弥が、大きく揺すったブランコから何処まで遠くに跳べるか競った場所だ。
この辺にはまだ住宅は少なく、空き地に挟まれたこの公園がポツリと在った。
夕方の紅い陽射しを浴びながら、和弥と何時までも遊んでいたあの頃が懐かしかった。
その時、和弥は慌ててブランコを止めた。
気がつくと、真夕の肩が大きく震えていた。
「ご、ごめん。怖かったか?」
彼女は首を横に振ったが、咽ぶ声が止まらない。
和弥は少なからず動揺していた。真夕が泣くのを見たのは、おそらくこれが初めてだった。
足を骨折しても強がっていた彼女の涙に、彼は戸惑った。
真夕自身も、何がどうしてこんなに涙が出るのか判らなかった。堪えようとすればするほど、子供のように嗚咽が止まらなかった。
和弥は、彼女の小さな身体を後ろからそっと抱きしめた。何も考えなかった。彼の身体が自然にそう動いたのだ。
柔らかい髪の毛から、そして首筋から香る真夕の甘い香りが、和弥にはとても懐かしく感じた。
小学6年生の時、守ってやると約束したあの時から変らない。和弥にとっての「恋する人」は刑部真夕なのだ。
今でもその思いは、あまりにも不自然なくらいに不変なものだった。
少し距離を置いた場所から見続けてきたからこそ、その思いは変らないのかもしれない。
彼女の心が男だとか、女だとか…… きっと、和弥が真夕を思う気持ちには関係ないのだろう。例え、こうして抱きしめる事が、一生できなかったとしても……
和弥の手を握った真夕は、いつか繋いだその手の温かさを思いだした。それが何時かは判らないが、彼とは手を繋いだ事がある。そう確信した。
夕陽は民家の屋根に陰り、辺りはつるべ落としに暗がりを増して2人を呑みこんだ。
小さな街灯に照らされながら、和弥はそっと真夕に唇を重ねた。
真夕は心地よい安らかな気持ちになって、頬を伝う涙は止まっていた。
震える魂の全てを包んでくれるような、彼の温もりを感じながら。