【2】消失
「やはり、かなりの頻度でここ数ヶ月の記憶が消失しているようですね」
真夕の担当医師は言った。
母親である小夜子は、和弥と共に真夕の意識が快復して3日後、別室で検査の結果を聞いていた。
記憶の検査に使う質問は、和弥にも協力してもらって作った。交友関係などは、小夜子にはわからない事もある。
そして、医師は続けた。
「それと、GIDの症状は今の段階では、見られません。専門の詳しい検査も、念のために必要だとは思いますが」
それを聞いた小夜子は、何だか頭の中が漠然として、その事に喜んでいいのか悲しんでいいのか判らなかった。
今まで長い間、女性の身体を持った男の子として育ててきて、いきなり純粋な女の子になったのだ。
いや、これは喜ぶべきなのか。何より、身体と心が同調したのだから。
どちらの性別であっても、身体と心が一致している方がいいに決まっている。いやまて、しかし、それと同時に真夕は記憶の欠損を起こしている…… 小夜子の中で、沢山の思いが一気に湧きあがって絡みあった。
「昔の記憶があるのに、GIDだと言う記憶がないんですか?」
「そのようです。しっかりと女性の性自認をしています」
小夜子の問いかけに、医師は応えた後
「人の脳は、時に苦痛や苦悩の記憶を消して、その周囲の記憶を都合よく組替えてしまう事があるんです」
そう付け加えた。
「逃避…ですか?」
小夜子が言うと医師は小さく頷いて
「今回の事故が、その引き金になったのでしょう」
和弥は、ただ無言のまま二人の会話を聞いていた。
小夜子に比べ、彼の気持ちはもっと複雑だった。
一度は好きでたまらなくて、真夕の女らしい身体に惹かれ、しかし結局は、男同士としての友情を和弥は選んだのだ。
それは、自分の心を押し殺して、真夕という一人の人間を尊重した結果だった。
それが、いまさら完全な女性になったと言われても、はいそうですかと言うわけにはいかない。
それじゃあ、男同士の友情はどこへ……
「記憶が戻ると、GIDの症状も戻ってしまうんでしょうか?」
和弥が医師に訊いた。
母親の小夜子はハッとして和弥を見た。
記憶の一部と引き換えに真夕のGIDの症状は消えたのだ。
「それはなんとも……」
医師は、検査結果の書類のページをめくりながら「今までにこう言ったケースの事例もないし、もどって見ないことには全く判りません」
そう言った後、二人の不安げな表情を察して
「とにかく、日常の生活にはあまり支障はないはずですので……」
「もしもし、チカさんですか」
和弥はその夜、千夏に電話をかけた。真夕の意識が戻って直ぐに連絡しようと思ったが、彼女の様子を見て、それをためらっていたのだ。
天野千夏は、真夕が通っていたカート場で働いている。彼女は真夕が記憶を失う以前、FtM−GIDである真夕を受け入れて、男女としての付き合いをしていたのだ。
ほんの束の間の甘い関係。それがいかに果かない関係であるかは、きっと二人が一番よく理解していた事だろう。しかし、そんな事には関係なく二人の心と身体が引き合ったのは事実なのだ。
そして今回の場合、二人を引き離す状況はまったく思いもよらない所からやって来た。
本人の思いとは関係なく、二人の関係は突然誰も意図しないまま、一方的にリセットされてしまったのだ。まるで、ゲームの途中で、間違ってリセットボタンを押してしまったかのように……
千夏に今の真夕の状況を話していいものか、和弥は迷った。
しかし、彼女が直接真夕に会って、いきなり自分を知らないと言われたら大きなショックを受けるだろうと思った。
だから、事前に千夏に話を伝え、その上で彼女がどう行動するかを自分で判断すべきだと思ったのだ。
「マユの事なんですが……」
和弥は余計な話はせず、早々に切り出した。
「マユの容態はどうなの? まさか……」
千夏は心配そうに訊いた。
「いや、3日前に、意識が快復しました」
「本当に……よかった。よかったわ。じゃあ、お見舞いに行かなくちゃね」
電話の向こうで千夏の声が急に弾んで、大きな喜びと安堵が伝わって来た。
真夕が病院に運ばれた時、当然千夏も一緒に救急車に乗った。その後も数回見舞いに行ったが、なかなか真夕は目覚めなかった。
元気な姿にもう会えないかもしれない。千夏の心の中で、そんな恐怖と不安が広がって、右も左も判らない暗闇に一人佇んでいるような気持ちだった。
この10日余りの日々が、彼女にとってどれだけ長い時間に感じた事だろう。
和弥は、彼女の喜びに満ちた声を聞いて、その先を切り出すのに躊躇した。
でも…… しかし、言わなければならない。
「ただ……」
「どうしたの?」
「記憶が、一部無いんです」
「事故の記憶?」
「いえ。ええ、事故もそうなんですが……」
「ひどいの?」
「ここ数ヶ月の記憶が曖昧らしくて……」
和弥は言葉を濁した。
「どう言う事………?」
「チカさんの事も…… 名前に聞き覚えはあるそうなんですが…」
「うそ……」
「……すみません…… 本当なんです」
「そんな……」
彼女は息を呑んで「そんな事って……」
それでも千夏は
「身体は、身体は大丈夫なの?」
「ええ、意外と元気です」
和弥が明るい声でそう応えると「じゃあ、よかった……」
千夏の言葉が途切れて、息が漏れてくる。
沈黙が続いた。いや、咽ぶ声…… 涙に息を殺しているのが和弥には伝わってきた。
「もしもし、大丈夫でですか?チカさん?」
少しの間があった。和弥は携帯を握り締めたまま、咽ぶ声が止むのを静かに待った。
心苦しく、悲哀に満ちた心の奥底から染み出るようなその音を、和弥は出来るだけ頭の中を素通りさせた。その嗟嘆が自分の心に積もらないように、部屋のカーテンを開けて、無心で星の瞬きを見つめていた。
和弥はその後で、秀雄と香織にも真夕の容態を伝えなければならない。
もちろん、以前のバイト仲間と言う記憶しか、今の真夕には無いのだ。
※一口メモ:GIDとはGender Identity Disorderの略で、性同一性障害の事です。FtMはFemale to Maleの略でFtM−GIDは女性の身体で男性の性自認をするケースです。反対のケースをMale to Female MtFーGIDと言います。