【16】思い…
「秀ちゃん。また、真夕に会ってたでしょ」
秀雄は最近香織からの電話が時々鬱陶しくなる時がある。
真夕の事をいちいち訊かれる時がそれだ。
秀雄は頻繁に真夕の働くガソリンスタンドへ行った。もちろんその度に食事に誘い、真夕も、特に予定が無ければそれに応じた。
「別にいいだろ。スタンドにガソリン入れに行くだけだよ」
「スタンドなら他にも沢山あるでしょ」
香織の声は元々キンキンと響くので、大声を出されると、つい電話を遠ざけたくなる。
秀雄にとって、香織は確かに彼女だ。自分でもそう思っている。しかし、真夕は、彼女は以前の手の届かない存在ではない。
見たままの、女の子なのだ。
秀雄は香織とキスをしていても、時々真夕と交わした、あの一度きりのキスを思い出すことがある。
暖かくて柔らかい唇は、リップクリームの匂いがした。
実際それは、香織の唇も同じなのだが、秀雄の中の微かな記憶と幻想が、真夕だけに特別なものを抱かせるのだ。
香織は最近、秀雄との関係に不安を抱いていた。
秀雄の真夕を見つめる視線。
そう、何かに気付いたのはあの時。病院のベッドの上にいる彼女を見る秀雄の視線の違い。真夕本人にも気付かれないように、彼女の視線が逸れた隙に仔ねずみのように、小刻みに見つめるそれは、ただの友達を見る瞳ではなかった。
香織が彼と今のように親しくなったとき、秀雄は真夕をあんな目で見ていただろうか……
確かに、バイト時代、秀雄は真夕に気があった。それは、香織も知っていた。
しかし、何が原因かは判らないが、彼は真夕に対しての思いを吹っ切ったように思えた。それなのに、まるで燻っていた火の粉が再び燃え上がったかのように、その思いは復活してしまったかに見えるのだ。
思い違いであって欲しい。
いくら心の中でそう呟いても、少し冴えた女のカンがそれを否定するのだ。微かな危険信号を心の中に灯して、針金で引っ掻いたような、鋭い疼きを胸の奥に感じるのだ。
「あたしって、意外と嫉妬深いのかな……」
香織はそう呟いて、携帯電話を折り畳んだ。
「面白かったね」
「ああ、何度も心臓が止まりそうだった」
日曜日、真夕と和弥は隣町の大きな映画館へ来ていた。
「朋子ちゃん、大丈夫?」
「アイツはホラー映画なんて観ないから」
和弥はそう言って笑った。
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…………………
「ねぇ、和弥。映画行かない?」
「はぁ?このあいだ、影山先輩と行ったんだろ」
「あれは、ほら。日本の恋愛もの」
「ああ、あれかぁ。影山先輩も何考えてるんだか」
和弥が電話の向こうで軽く溜息をついたのを聞いて、真夕も思わず笑いながら
「意外と面白かったけどね」
真夕はもともと洋画の方が好きなのだ。その好みは、どうやら今でも同じらしい。
「まさか、ホラー映画が観たいなんて言えなくてさ……」
「しかたねぇな、付き合ってやるか」
「土曜と日曜どっちがイイ?」
「日曜日だな。部活が休みだから」
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「ねぇ、買い物していっていい?」
「ああ、ついでだから、何でも付き合うよ」
和弥の言葉に真夕は悪戯っぽく笑って「下着売り場も?」
映画館は最近よくある造りで、大きなショッピングモールと隣接いていた。
和弥は、レディースショップで衣類を物色する真夕の姿を、不思議な気持ちで見ていた。
少し前までシーンズしか履かなかった彼女が、今は私服でもスカートを履き、こうして女性用の衣類を物色しているのだ。
もしかしたら、真夕はこのまま、女性のままかもしれない。
元が女性なのだから、掻き消された男性の自認が再び蘇えらなくても不思議ではない。
それとも、ほんとうは男性だから、何れは自然に男性の自認が蘇えるのだろうか。
彼女はどの辺りまで記憶があって、どの部分がないのだろうか。
もし、また以前のように、真夕にFtM−GIDの症状が出れば、影山のアプローチなど何の意味もなくなる。男の真夕は、絶対に影山とは付き合わないだろうから。
和弥は、時折こんな事を何度も考えては、ノートを破り捨てるように、揉み消すのだった。
真夕の記憶が戻って欲しい反面、GIDだけは永遠に消えて欲しい。
ショッピングモールの高い天井からは、眩い照明が通路を照らしていた。
店舗の入り口で待つ和弥は、自分の姿を確認するように時々振り返って微笑む彼女を見つめて、ただ笑みを返すのだった。
2人が買い物を終えて外へ出ると、西の山並みに夕日が落ちかけて、空は山吹色に染まっていた。