【14】予兆
「うう…」
「どうしたの?加奈」
朝教室へ入ると、加奈が自分の席で唸り声を上げているのを見て、真夕が声をかけた。
「加奈、今日旗日でさ」
スグ横にいた晴香が言った。
加奈はお腹を抱えて弱々しく「今日、しんどいんだよね」
「薬は?」
「今朝飲んだんだけど、あたし効かないのよ」
「あたしのあげようか?」
真夕はそう言いながら、加奈に近寄って、妙な臭いに気がついた。
「加奈……薬って、何飲んだ?」
真夕は、嗅いだ覚えのある微かな臭いに怪訝そうに尋ねた。
「えっ、お腹痛の薬だよ」
「まさか、それって……」
「正露丸」と、加奈が言った。
真夕と一緒に、横にいた晴香も思わず口を開けた。
「あんた… 生理痛に正露丸は効かないんじゃ……」
晴香が言った。
「えぇっ、だって、お腹痛には正露丸でしょ」
加奈は当り前のように言う。
それを聞いた真夕と晴香は、一瞬言葉が出なかった。
「ねぇ、もしかしていつも正露丸を飲んでたわけ?」
「うん…」
加奈は相変わらす苦しい表情で、それでも平然と頷いた。
「あのねぇ、加奈。同じお腹痛でも、原因が全然違うから、正露丸じゃ生理痛は止まらないんだよ」
「えぇぇぇっ?じゃあ、何を飲むの?」
「普通は頭痛薬でしょ」
「お腹痛いのに頭痛薬飲むの?」
真夕の言葉に、加奈は目を丸くしている。どうやら本気で驚いているらしい……
隣で晴香が大きなため息をついて、思わず笑いながら
「バカねぇ。頭痛薬って言うけど、鎮痛剤なのよ。正露丸は整腸剤なの。だから、生理痛はお腹をこわして痛いわけじゃないんだから、鎮痛剤を飲むのよ」
「だってあたし、お腹が下る時もあるよ」
「それは……」
晴香が言葉に詰まった。
「それは、体調を崩してるからで、痛いのは鎮痛剤で止めるの」
晴香に代わって真夕がそう言いながら「ほら」
と、自分のポーチから鎮痛剤を差し出した。
加奈はポカンと口をあけてそれを眺めていたが、やがて薬を手にとると、いそいそと洗面所へ向かった。
30分もすると、加奈はケロリとして、次の休み時間には
「勉強になっちゃった」と、笑っていた。
真夕と晴香は、顔を見合わせてほのぼのと笑った。
秋の澄んだ空に夕映えが広がり、連なるウロコ雲が焼けるように茜かった。紅い陽光が沈みきると、辺りは一時の夕間暮れに包まれて周囲で動く人影はみんな黒い塊になる。
「ねぇ、今日あたしん家に来ない?」
部活が終わった金曜日の夕方、朋子に誘われるまま、和弥は彼女の家にいた。庭には青い芝が敷かれ、家の壁は地中海の建物のように白かった。
日が暮れると、あちこちに小さな光が灯って植木や壁面をライトアップする。
「日曜まで両親は旅行なんだ」
朋子はそう言いながら、あどけない笑顔で和弥に紅茶を出すと
「ちょっと、着替えてくる」
そう言って、和弥をリビングに残したまま、部屋を出て行った。
和弥が朋子の家に来たのは、何度目かになるが、ここへ入るのは初めてだった。
彼はよその家のリビングに一人取り残され、あまり居心地がいいとは感じなくて、深く沈む革張りのソファに腰掛けたまま、やたらと大きな液晶テレビの横に置かれたブロンズ像をなんとなく眺めていた。
朋子は淡いブルーのミニスカートに白いモールのセーターに着替えてリビングに戻ると
「なんか、リビングに一緒にいると夫婦みたいだね」
そう言って、和弥の横に腰を沈めて、わざと身体を触れさせた。
朋子は、和弥が最近少しずつ自分と距離を置きたがっている事に気付いていた。だから、余計に積極的になってしまうのだ。
抱き合ったのは一度きりではない。何度も身体を寄せ合い、彼女が彼の身体に触れることは全く自然な事だった。
「こんな所じゃ、まずいだろ」
腕を掴んで身体をスリ寄せる彼女に、和弥が言った。
「あら、今日は誰も帰って来ないわよ」
「妹さんは?」
朋子には2つ歳の離れた妹がいる。
「祖母の家に泊まりに行ったわ」
そう言って、朋子は和弥の顔に唇を近づけた。
「でも、ほら。ここは、キミら家族の場所だから」
和弥はスルリと朋子から逃れるようにソファから抜け出して
「この液晶テレビでかいよなぁ」
朋子は小さく肩をすくめて「液晶じゃなく、プラズマだってさ」
「ねぇ、じゃあ、あたしの部屋行こう」
彼女は和弥の手を引っ張った。
朋子の部屋は壁に大きなディズニーキャラクターのジグソウパズルが飾ってあったり、ピンクのベッドカバーだったりと、一見していかにも女の子らしかった。
部屋に入ると直ぐに、朋子は和弥にキスをした。しかし、彼の気持ちはここには無かった。
何処か遠い場所を見つめるような和弥の心が、朋子の身体に直接伝わってきた。それはあまりにも空虚なもので、彼女は突然大きな不安に押し潰されそうになり、それを振り払うかのように強引に和弥をベッドへ押し倒した。
押し倒された彼の身体がベッドの上で弾んで、その上に朋子は覆い被さった。
身体を繋げる事で、彼の心を繋ぎ止めたかったのだ。
「ごめん…… ちょっと、練習で疲れててさ」
和弥の優しい声に、朋子はそれ以上強引には出来なかった。それほど経験もなければ傲慢でもない。
「ううん、いいよ。あたしの方こそごめんなさい……」
そう言って起き上がろうとした朋子を和弥は抱きしめた。ただ、抱きしめただけだった。それが、彼女への償いでもあるかのように、強く朋子の身体に腕を回していた。
朋子はその腕の中で、静かに、しかし確実に何かが瓦解していく予兆を感じていた。