【10】高鳴り
真夕は何だか、日に日に悩みが増していくような気がしていた。それは、困惑と言う文字で埋もれた泥沼に、自分の身体がずぶずぶと落ちていくような気持ちだ。
「いったい、どうなってるの……」
影山巧。彼は、突然真夕の前に現れて、彼女に交際を申し込んできた
それは、近藤淳の手紙の比ではない。ハッキリと口頭で申し出されたのだから。
「あ、あの…… 大学受験とか控えてこれから大変なんじゃ」
真夕は勉強の邪魔になる事を理由に断ろうとした。しかし
「ああ、俺、推薦が決まってるんだ。気楽なもんだろ」
だ、だめだ……
告白の後の影山は、何かが吹っ切れたのかやたらと明るくて、爽やかな笑顔を真夕に向け続けた。
「三浦とは、幼なじみなんだって?」
「ええ、まぁ」
「でも、アイツには朋子ちゃんがいる」
真夕は影山の顔を見上げた。
「少しだけリサーチさせてもらったよ。ま、朋子ちゃんは、何時も練習や試合を見に来るしね」
影山は終始穏やかに、明るい声でハキハキと話す人だった。
笑うと目は途端に細くなって目尻に細いシワができ、左頬には小さなえくぼがでる。
真夕は彼の笑顔と会話を交わしてみて、何となく人気の理由が判ったような気がした。
正門を出て、最初の交差点まで彼と自転車を押しながら並んで歩いた。
真夕は何だか無性に心臓がドキドキしていた。誰かと一緒にいる事でこんなに胸が高鳴るのは初めてだった。
ただ並んで歩いているだけなのに、どうしてこんなに胸が高鳴るのか、真夕は焦りにも似た不思議な感覚で、手には薄っすらと汗をかいていた。
「マウンテンバイク……」
彼が、唐突に言った。
「えっ?」
「いや、スカートで乗り辛くないのかなって思って」
「でも、スピード出るし、坂道もラクだから」
影山の問いに、真夕は笑って応えた。
「三浦を見失わない為かと思った……」
「えっ?」
一瞬その意味は、彼女には判らなかった。
「いや、冗談だよ」
影山はそう言って、笑っていた。
「あの…… さっきの事、しばらく考えてもいいですか」
仕方なく、返事を待ってもらうことにして、彼女は彼と別れた。
「じゃあね」
そう言って、以前からの友達みたいに手を振って走り去る影山の姿を、真夕は少しの間眺めていた。
「もう…… どうすればいいの。こんな事が知れたら、きっと親衛隊に殺されるわ……」
真夕は、何だか無性に息苦しさを感じると同時に、並んで歩いただけで胸が高鳴る思いを初めて経験した余韻が、一度引いた波のように何度も押し寄せるのだった。
その夜、真夕の携帯電話が鳴った。
液晶表示は和弥だった。
「今日、影山先輩が行かなかった?」
「和弥知ってたの?」
「いや、今日部活に顔を出した先輩がさ、ちらっとそんな話をしていたんだ」
和弥は、少しの間を開けて真夕の反応を探ると「来たのか」
「帰りに昇降口で捕まった」
「何だって?」
「それが……」
真夕は少し迷っていたが、他に相談できる相手はいそうもない。大まかな経緯だけを話した。
「どおりでな」
「なによ、どおりで。って」
「俺、影山先輩に随分とお前の事訊かれたよ」
和弥は、以前から真夕の事を、影山に訊かれていたと言う。和弥も、あまり適当な事は言えないから、それなりに真夕の事を話していた。勿論、入院の時の経緯も含めて。
そもそも和弥は他の部員に比べても、1年の頃から影山に可愛がられていた。
真夕は再び大きな溜息を漏らした。
「そんな嫌なのか」
和弥が小さく笑いながら言った。
「嫌って言うのとは違うけど……」
「影山先輩って、スゲェ人気あるんだぜ」
「だから、困るのよ」
真夕は、まるで人事として楽しんでいる様子の和弥に、少し口を尖らせ
「それに、どんな人かも知らないのに、付き合うだなんて」
「影山先輩は、いい人だよ」
「人事だと思って」
しかし、電話を握る和弥の心情は穏やかではなかった。心の中を押し殺して、それを真夕に悟られないように、必死で芝居をした。
直接あ会ってこんな事を話せば、必ずボロがでる。動揺が隠し切れないだろうと思った。
だから、翌日の学校ではなく、電話をかけたのだ。
影山は、真面目に考えていい人だ。それが、和弥には怖かった。
運動神経、学力、ボキャブラリーのどれをとっても自分に勝ち目がないような気がした。
和弥とて、運動神経や学力には多少の自信がある。校内でも男として人気のある方だ。
しかし、高校へ入り今のサッカー部に入った時、影山の存在を知り上には上がいるものだと思い知らされたのだ。
影山巧が高校へ入学した年、サッカー部は問題を起こして2年間の休部からようやく復帰したばかりだった。
それを挽回するかのように、彼らの代である部員たちは、普通以上に頑張ったらしい。他の部に入った友人には、上級生がいなくて羨ましいとからかわれた。しかし、学校側や父兄のサッカー部を見る目は、常に風当たりの強いものだった。
影山は学年で10番以内の成績を維持し続けた。それに引っ張られるかのように、他の部員も無茶な事はせず、タバコすら吸う者はいなかった。そして、サッカー部イコール厄介者の集まり。と言う図式が次第に崩れたのだと言う。
もしも、影山の人柄に真夕が引かれたら…… キャプテンを勤め上げた彼に、包容力と男気ではとうてい勝てないだろうと、和弥は思った。
男の性自認をしていた真夕が女性と付き合いだした時は、素直に喜び、僅かながら応援する気持ちもあった。それは、あくまで真夕が男として誰かと付き合っていたからなのだ。
彼女の性自認が女性になった時に和弥が感じた不安の中には、おそらく今の状況も含まれていたのだ。それは、女性である真夕が他の男と自分以上の関係を持つ怖さなのだ。
そして、今の自分にそんな嫉妬めいた感情を彼女に持つ資格が無い事も充分に判っている。
和弥は朋子と付き合っている自分が、まるで鎖で繋がれた飼い犬のようで、とてつもない不自由さを感じた。
「で、どうするか決めたの?」
和弥が言った。
「そんなの判んないよ…… とりあえず、考えさせて。って言った」
真夕の言葉に、和弥はホッと息をつきたかったが、その感情が表に出ないように
「ま、ゆっくり考えるんだな」