プロローグ ― 第一章【1】目覚め
〈前回まで〉心と身体の性の不一致。それによって引き起こる恋愛感の相違…思春期を迎えたマユの苦悩は一層つのるばかり…それでもマユは人との関わりを拒まずに自分に正直に歩んでゆく。お待たせいたしました。Dear Girl続編です。といっても、前作とはかなり違った趣向で描いているので「続編的」と受け止めて下されば幸いです。ここから読んでもそれなりに楽しめるとは思いますが、主な登場人物の詳細は是非Dear Girlにてご覧下さい。
【プロローグ】
スタートで出遅れた。
やっぱりうまい奴はスタートから違う。
10月中旬の日曜日。見上げれば蒼い虚空が果てしなく広がり、雲など何処にも見つからない。太陽の陽射しが熱く白く、眩しいほどに降り注いでいた。
ギャラリー台に群がる人の山。低い柵越しに飛ぶ歓声。何時もは雑草しか無い殺風景な1コーナーの先の敷地にも、金網越しに人の頭がごろごろと見える。
それはまるで、スモールワールドのアトラクション内を早回しで過ぎるような感覚で、スモークシールドで遮られた僕の視界に入り込んで来た。
カートレース100CC一般の部。午前中の予選で決まった僕のスタートグリッドは5番目だった。参加者30名ほどのレースは、二組に分かれて予選、決勝が行われ、決勝に進めるのは予選タイム上位12名ずつとなる。そしてその後、双方3位までの者が本当の決勝ファイナルラウンドへと進む方式だ。
しかし午後の予選ラウンド決勝スタート直後、1コーナーを抜けて、僕の前には3、4、5、………7、8台いる。12台中9番手だ。
ローリングスタートは、フォーメーションラップとしてコースを1周した後、そのままスタートが切られる為、加速するタイミングのコツがあるようだ。バカ正直にスタートライン手前から加速した僕は、大きく出遅れてしまった。
「マユ、アクセル踏んで!」
最終コーナーの立ち上がりで、千夏の声が聞こえた時にはもう既に遅かった……
それでも、オープニングラップを終えて1コーナーを再び抜けた時、自分の前にいるのは4台。5番手まで上がって自分の位置を取り戻した。
コーナーでは負けていない。
しかし、あのトップを走るカートはストレートが異常に速いようだ。
2番以下が離される。
僕は少しだけ焦っていた。
前にいる車より、僕の方が速い。それは確かだ。しかし、なかなか抜けない。
技術的なものか、経験の差なのか……彼はコーナーの入り口で強かにイン側をブロックする。
全10週のうち半分を過ぎて、順位は変らなかった。
6週目の1コーナーで、トップの車がコースアウトしそうになって失速し、2位以下との差がグッと近づいた。
僕はどうしても前の車が抜けないでいたが、執拗にプッシュしていたプレッシャーが効いたのか、この周のヘアピンで外に膨らんだ前走車のインに、やっと滑り込む事ができた。僕の車のリヤタイヤと彼のフロントタイヤが一瞬フレンチキスをする。
2個目のヘアピンでインを絞めて完全に前に出る。
体重の軽さが役に立って、バックストレートの加速で更に3位の車に並べそうだった。
今日のバックストレートは、普段より10メートル長いロングコースにセットされている。100CCのエンジンのトップスピードが充分に生きる距離だ。
1位から5位までほとんど差が無く、数珠繋ぎになっていた。しかし、ストレートエンドで若干1位の車に、それ以下が引き離される。
僕は、ブレーキを遅らせて、3位の車に仕掛ける準備をしていた。コンマ数秒、遅れてブレーキを踏む。
左の茂みから、一片の落ち葉がヒラヒラと舞い落ちてくるのが視界の上方に映った。
風に舞って落ちてきたその木の葉は、僕たちが切り裂いた風に弾かれて、宙でバウンドするように跳ね上がって後ろへ飛んでいった。
その時ストレートエンドの右コーナーに進入した1位の車が、オーバースピードをカバーしようとテールが大きく流れて車が横を向くのが見えた。
道幅は充分在る。2位の車は簡単にかわすだろうと思った。しかし、2位の車は1位の車を避けきれずに接触して、2台ともスピンをした。
その時すでに、3位の車と4位の僕はコーナーの進入手前、横並びになっていた。
目の前で2台のカートがコースを塞いだ。行き場が無い………僕はイン側にいた為、よりインへ逃げるしかなかった。
大丈夫だ、かわせる。落ち着け。
前方の障害物の動きが、スローモーションで見えた。これから横切ろうとしている縁せきのゼブラ模様の、赤と白の境目に多少の滲みがあった。そんなもの見えた事も無いのに、その時の僕には見えたのだ。
ブレーキを小刻みにコントロールしながらダートを横切る。
パッと、弾けるように土煙があがり、縁せきをカットした車体が跳ね、ハンドルが取られて左右に小さく車が揺れた。
これで僕はトップに踊り出る事が出来た。僕はこの瞬間、自分はラッキーだと思った。
アウト側にいた3位の車は、前の2台をうまく避ける事ができずにまともに突っ込んだようだ。それは、ヘルメット越しに、視界の隅に僅かに捕らえていた。
反動で、3台のカートがビリヤードの玉のように大きく弾かれて、突っ込んだカートは車速があった為、勢い余って横っ飛びにジャンプした。
もちろん、その時、自分の目の前に何が降って来たのかなど、僕には全く判らなかった。
視界の上の方に大きな黒い影が見えたと思った瞬間、ガツンッという大きな衝撃と共に、僕は意識が飛んでしまったのだ。
衝突の反動で跳ね上がったカートが、その横を通り過ぎた僕の頭上へ、あまりにもタイミングよく降ってきたのだ。
意識は無いはずなのに、エンジンストールした静寂の中で、周囲の異常とも言える、ざわめきとどよめきが聞こえていた。
身体が揺れている。
何処だろう。凄い音だ。
サイレン…… サイレンの音がやたらと大きく聞こえる。
大きなサイレンの音が、耳の中で何重にも重なり合って響き渡っていた。
頭が重い…… 頭の中で暗闇がグルグルと回って、自分がどういう状態なのか全くわからない。
何処か近くで事故か?
違う、僕が揺られているコレがサイレンを発しているのだ。
人の声が聞こえる。風呂場で話しているような声。でも何を話しているのか理解出来なかった。
誰かが僕の腕をつかんで、何かをしている。身体中が軋むように痛い。
目が開かない。
口に当てられている、何かが苦しい……
身体が揺れる……………
何処へ、行くのかな………………
……………………………………………………
……………
第1章
【1】目覚め
小さな虹色の光の玉が幾つも集まって一つなると、大きな渦を造って目の前で弾けた。
暖かな空気が身体を柔らかく包んでいるような気がした。
風の匂いを、嗅覚ではなく全身の肌で感じて、車の行き交う微かな音が、何処か遠くから鳴り響く音楽のように心地よく聞こえて来た。
刑部真夕は細く目を開けて、白い天井を見上げていた。
見たことも無い天井。同じ白でも、自分の部屋ではない。
ここは何処だろう………
どうしてあたしは、こんな所に?
自分がベッドの上に寝ているのだという事は直ぐに判った。
ベッドの中に自分が溶け込んでしまったかのように、身体が重くてだるかった。左腕が何かで固定されて自由には動かない。
真夕は、辺りを見回した。頭をちょっと枕から持ち上げて動かすだけで、鈍い痛みが頭の芯から響いて、目に映る景色が微かに歪んだ。
右腕は、少し間接が痛いが、自由に動く。しかし、そこから伸びた透明の細いチューブ。それを頭上へ辿ると、液体の入ったパックが吊るされているのが見えた。
病室だ……
どうして怪我をしたんだろう…… 交通事故にでも遭ったのだろうか。
足元に突っ伏して眠っている人がいる。それが、自分の母親だと言う事は、真夕にもすぐに判ったが、どうして自分がここに寝ているのか、まったく思い出す事ができなかった。
「マユ…… 意識が戻ったのね」
真夕の気配に気付いて目を覚ました母親は、微笑みながら静かに涙ぐんでいた。
それは、とても疲れきった様子の中で歓喜に満ちていた。
「お母さん…… あたし……」
「カートのレースで、事故に遭ったのよ。覚えてる?」
母親は、そう言いながら立ち上がると「待ってて、看護婦さん呼ぶから」
かーとのれえす?って……… なんだろう。
れーす?あたしが何のレース?
今の真夕には、母の言った言葉の意味が判らなかった。
何だか、考えるのもおっくうで、ただ静かにゆっくりと、枕に頭を委ねた。
「よう、元気そうだな」
その日の夕方、病室に和弥が訪れた。
和弥は小さい頃から真夕の家の近所に住み、二人は共に育った仲だった。
幼稚園の頃は、真夕の方が少しだけ背が高くて、何時も和弥を先導していた。
小学校高学年になると、和弥の背は急激に伸び始めて、気が付くと真夕よりも20センチ以上高くなっていた。
真夕はベッドに上体を起こせるようになっていたが、立ち上がろうとしたり頭を大きく動かすと、脳が揺さぶられるように眩暈がして頭痛がした。
「びっくりしたぜ。事故の事覚えてないんだって?」
真夕は和弥の言葉に、小さく肯いた
「カートをやってたって、お母さんに聞いて、なんかびっくり」
真夕はそう言って笑った。
「じゃぁ、カートをやってた事自体、覚えてないのか?」
「うん。今、秋でしょ。夏の暑かった記憶は何となくあるけど、どう過ごしたのかはさっぱり」
真夕は人事のように、わざと明るく言った。
「お医者さんは、なんて?」
「一過性の、記憶の喪失だって。日常には支障が無いって言ってたわ」
そう言って、戸惑いの笑みを浮かべる真夕を見て、和弥は不に落ちなかった。
自分と二人きりで喋る時は、性自認している男性口調で喋っていた真夕が、あまりにも自然に女性の口調で喋っている。
表情がとても穏やかで、女性らしい。
確かに真夕の身体は女性そのものだが、所々に感じた男らしいと言うか、ヤンチャな部分が全く無いのだ。
もちろんそれは、付き合いの長い和弥だから気付く微かな変化なのだが、この時は事故の軽い後遺症だろうと思った。
母親の小夜子でさえそう思ったのだから、しかたない。
「じゃあ、秀雄やチカさんの事は覚えてる?」
「秀雄は判るよ」
真夕は笑ってから、「あれ?和弥、秀雄の事知ってたっけ?」
和弥は、顔を曇らせた。心の中で、不安だけが急激に膨らんだ。
「チカさんは?覚えてないのか?」
「なんとなく、名前は聞き覚えあるけど……」
和弥は言葉を失った。
記憶が無い。この夏の、記憶が……
彼は、背すじから腰を通して、身体の中心の力が一瞬で抜けていくのを感じていた。頭の中を白くて冷たい何かが通り過ぎたような気がして、こめかみが震えた。身体が揺らめくのを感じて、和弥は慌てて正気を取り戻した。
「どうしたの? あたし、そんなに大切な事忘れてる?」
和弥の反応に、真夕も不安げな表情を隠せなかった。
和弥は何時に無く、優しい笑顔で
「大丈夫、心配ないよ」と言った。