それぞれの心中
父王が治めていた王国の首都がヴォルテールからペテルスブルクに変わったのは、マリア・アンナが眠りについてすぐだったという。まあ、行政の要だったヴォルテール城は、マリア・アンナが眠りにつくと同時に茨で覆われてしまったので、首都の移行は当然といえば当然だが。
おかげでマリア・アンナはフランツとともに、ヴォルテールからペテルスブルクまで、小旅行をする羽目になった。
「薄情親父め。せめてもっと近くに遷都すればよかったものを」
馬上でおもわずマリア・アンナはつぶやいた。なにが楽しくてこんな好みではない男と旅行しなくてはならんのだ。その好みではない男、フランツは一人では馬を御せない彼女のために、馬の手綱を引いて歩いている。
頼りなさ気な外見にそぐわず、フランツはてきぱきと旅の準備を進め、マリア・アンナが目覚めた翌日にはヴォルテールを出発した。
今彼女が着ている木綿の平民服も、彼が調達してきたものだ。マリア・アンナが着ていた服は百年前の代物だけあって、良い意味では年代物、悪い意味では流行おくれになっていた。
一人では服すら着たことのない彼女のために、フランツは近場の村で村娘に着付けを依頼した。百年もの間、閉ざされていた城の眠り姫が目覚めたという事態に驚きつつも、村人たちはフランツの払った報酬分はきっちり働いた。
その日は村で一泊した後、早朝、鶏が鳴くのと同時に村を出たのだ。自分の連れてきた馬にマリア・アンナを乗せ、自分は馬の手綱を引いて。
そうして歩き始めていったい何時間経っただろう。太陽の位置からして、そんなに経ってはいないはずだが、馬に乗り慣れないマリア・アンナはそろそろお尻が痛くなってきた。
「姫、どうかなさいましたか?」
馬上で楽な姿勢を求めてもぞもぞ動くマリア・アンナを、フランツが振り返った。
「う、その・・・なんでもないっ」
とてもじゃないが、昨日知り合ったばかりの男に、お尻が痛くて座っていられないなどとは、口が裂けてもいえない。
マリア・アンナは姫としてのプライドと女の意地で、この苦行に耐え忍ぶことにした。
フランツはもう一度、訝しげにふりかえった後、思いついたようにいった。
「姫、よろしければ馬から下りていっしょに歩きませんか?・・・もうすぐ街ですし」
マリア・アンナがなぜもぞもぞしているか気づいたらしい。
まったく、鈍いのか鋭いのか、よくわからない男だ。
羞恥に顔を赤くしながらも、マリア・アンナは心中を悟られないよう、できるだけえらそうに、
「うん、そなたがそういうのなら、歩かないこともない」
といった。我ながら可愛げのない態度だとは思ったが。
フランツが手を貸して、マリア・アンナを馬から下ろす。こうして近くで見ると、フランツの茶色の髪は案外つやつやしているし、前髪に隠れた鼻梁はすっと通っている。
「・・・宝の持ち腐れだな。そなた、あの叔父上の孫の孫なら、そう見苦しい容姿ではないはずだぞ。もう少し、見てくれにかまったらどうだ」
じぃーっとフランツの顔を見てそういったマリア・アンナに、フランツはきょとんとする。
「はあ。・・・ところで姫、そろそろ手を離していただけませんか。それともこのままつないで歩きます?」
気がついてみれば確かに、フランツの手を思いっきり握ったままだった。馬から下りるのが怖くて、フランツの手をぎゅっと握り締めていたのだ。
「・・・。」
ひとしきり沈黙した後、マリア・アンナはなるべく自然に見えるようにフランツの手を離した。今さら自然もなにもなかったが。
よくよく考えてみれば、マリア・アンナは今まで、父や叔父以外の男と面と向かって会話したこともないのだ。
そもそも、こいつが自分の運命をかき乱さなければ、今頃こうやって手を引いてくれたのは、運命の王子だったはず。
生まれてこのかた、物事がうまくいったためしなど一度もないが、どうやら天におわす御方は、とことんマリア・アンナに冷たいらしい。
「何をしているフランツ!さっさと行かねば、あっという間に日が暮れるではないか。急ぐぞっ!」
運命の王子を求めて、マリア・アンナはずんずんずんと歩き始めた。
「あのー、姫」
「なんだ!」
振り返ったマリア・アンナにフランツが。
「そっちは逆方向なんですけど」
「っ!わかっている!」
何が何だかしどろもどろのマリア・アンナは、足元の石を思いっきり蹴っ飛ばした。
ふんっ、おまえなんか、城に着いたらお役ごめんだ!
だれかに、見られている。
そう感じて、フランツは周囲に視線を配った。
川原で足を洗っているマリア・アンナは、魚がいたといっては大騒ぎしている。次の街までまだ遠いこともあって、昼食を取るために休憩しているところだった。
無邪気な王女に視線を合わせ、小さく微笑む。すると、いつのまにか、だれかの気配は消えていた。
まさか・・・。
最悪の事態を考えて、フランツはそれを否定するように首を振った。
(いくらなんでも早すぎる・・・)
王国の後継者たるマリア・アンナを狙って、義母が刺客を差し向ける可能性は考えていないわけではなかったが、そう簡単に、所在を突き止められるはずがない。そのために、父はフランツを単身、王女の護衛につけたのだ。兵士を差し向ければ、その分、情報は漏れやすく、裏をかかれやすくなるゆえに。
「フランツ、どうかしたのか?」
肝心要の眠り姫は、心配そうにフランツの顔を覗き込んだ。さっきから話しかけてもフランツが上の空なのに気づいたらしい。
「・・・もしや、体の調子でも悪いのではないだろうな?」
旅を始めてはや三日。野宿をしなくてすむ安全なルートを求めて、フランツはだいぶん遠回りをしていた。
マリア・アンナが存外元気なのが唯一の救いだ。だがそろそろ旅の疲れが出てきてもおかしくないころだった。
それでもフランツのことを気づかえる彼女は、さんざんフランツを引っ張りまわしたとはいえ、根は優しいのだろう。
「いえ、少しぼーっとしていただけですよ」
「ならいいが・・・。あまり無理はするな」
「心配してくださるんですか?」
ちょっと意地悪をしてやろうとフランツがそういうと、予想通りマリア・アンナは赤くなって、慌てふためいた。
「べっ、別にそなたの心配をしているのではない!そなたが倒れて、わたくしが路頭に迷うのを心配しているのだからな!」
そういうなり、再び川へ飛び込んでいく。
マリア・アンナにフランツが懸念していることを話すつもりはなかった。話しても、無駄に神経をすり減らせることになるだけだ。この純粋無垢なお姫様に、そんな思いをさせることはない。
「姫、そろそろお昼にしますよ」
「わかった、今行く!」
緑の眼がうれしそうに輝く。
この緑の瞳がくせものだ。フランツはそう思う。
初めてあったときから、彼女の澄んだ瞳は、まっすぐにフランツを見つめる。嘘も偽りもない、彼女の心がそのまま透けて見える。そのなかに、自分への確かな信頼が見えて、なんだか柄にもなく、心がざわめく。
そして、そんな自分を、フランツはなかなか気に入っているのだ。