喋る犬 ③
次の日、僕は朝のお散歩を終え、朝食も食べ、ちょっとした休息を楽しんでいるところだった。僕は食卓の上にうつ伏せになって、少しばかり怒っていた。麦茶の入っているグラスをはじいてみる。ピンと涼しい音がした。
でも、僕の心はとてもムカムカしていた。外が暑いからじゃない。コルーパのせいだ。あー、思い出すだけでむかついてくる。僕は汗ばんだグラスを掴み、ごくりと麦茶を飲んだ。冷たいのが喉からお腹の方へ通っていくのが分かる。――朝の事だ。
コルーパは昨日と同じように散歩を要求し、僕とコルーパは昨日と同じように散歩に出かけた。公園に着き、やっと喋り始めた。奴は最初に夏休みの宿題の事を話題にした。僕が、そんなのは七月中に終わってしまったと言うと、奴はちっと舌打ちしたのを覚えている。――そういえば、犬って舌打ちできるのか?
とにかく、僕は気にも留めなかったのだが、その後、奴は期末テストの事を話題にした。結果はどうだった?と聞かれて、僕は学年で二十五位だったと答えた。そのときから、奴が少しうろたえているのが僕には分かった。
何か隠しているな、と僕は思い、「何か隠している事は無いか?」と訊ねた。奴はすました顔で、別に無いよと答えたが、表情が微妙に変わった。僕は、ふうんと返したが、そのときに唐突に思い出した。昨日、奴は僕のところに来た理由を教えると言った。そのことを奴に言うと、「何の事かな?」ととぼけて僕を家まで引っ張ってきた。
家に帰って、朝食の前に僕の部屋で「とぼけるな」と怒りを込めた声で言うと、「そんな事言った覚えは無い」とあくまでも強気だった。奴がどうして来たのかが分からないと、なかなか落ち着かない。さつがに、朝食のときに下には来なかったが、二階に行くとやはり、お腹をすかして待っていた。まったく、のんきな奴だ。
さて――。どうしたものか。
気づいたらもう、十二時半だった。そろそろ、お昼時だな――。今日一日中、ああやってとぼける気なのだろうか。そう思うと、余計にムカムカしてくる。僕は両手を握りしめ、ドンと机を叩いた。別に、質問は他にもたくさんする事ができる。あの、質問だけにこだわらなくてもいい。変な事をして、質問を全く受け付けないようになってはかえって大損だ。ここは辛抱する事にしよう。
僕は階段を上って、自分の部屋へ。ドアを開けると、犬が一匹ちょこんと部屋の中央に座っていた。まるで、僕が今まさにここに来る事が分かっていたかのように。コルーパはニッと笑い、「別の質問をしに来たんだな。ちゃんと、分かっていたぞ」と言った。
僕は、ああ、そうだと言い、コルーパの前にあぐらをかいて座った。
「あの質問は、もうしない。だから……聞いていいか?」コルーパは頷いた。
「――お前はどこから来た?」僕は返事を待ったが、コルーパはなかなか答えない。答えられないのだろうか?「これも、だめなのか?」
どれくらいの時間が立ったのだろうか。それでも、コルーパはまだ答えない。核心を突いてしまったのだろうか。窓辺にかけてある風鈴がちりんと鳴ったとき、僕ははっとした。奴はさっきから、喋る事も無ければ、動きもしない。鼻の前に手を当てても、息もしている気配はない。どうしたんだろう?窓辺の風鈴を見ても、斜めに傾いたまま、動かない。「えっ?」
僕は思わず声を上げた。窓のところに駆け寄ると、下の方を覗いてみた。サラリーマン風の男が足をあげたまま動かない。まるで、さっきの風鈴が引き金に鳴ったかのように時が止まってしまったようだ。
僕は階段を転げ落ちるように駆け下りて、キッチンを覗いた。そこにはお母さんがいた。ふう、とほっとすると、どこか様子がおかしかった。お母さんが昼食のチャーハンを作っている。別にそんなに不思議な光景じゃない。僕はお母さんをよく見てみる。何でおかしいと思ったのか、今分かった。チャーハンが空中で止まっている。お母さんもにこやかな表情で固まっている。僕はその場に崩れるように座り込んだ。??何てこった。お母さんまでもが固まってしまった。
しばらくして、僕は二階によろよろと上がっていった。部屋のドアを開けると、さっきまでそこにいたはずのコルーパの姿が無かった。一体コルーパはどこへ行ってしまったんだ……。深いため息とともに僕は心の中で呟いた。泣きたいのを堪えながら、窓から外をのぞいて見る。何の音もしない。風も吹かない。それはとても異様な光景だった。ふと、下を覗くと、何かがシャッ!と言う音を立ててサラリーマン風の男のそばを横切った。何だ?
僕は急いでサラリーマン風の男のところへ駆けていく。でも、そこには何も動く物はなかった。僕は警戒しながら公園の方へ歩いていく。どうせ、家にいたって、何もする事が無いんだ。外に出た方が気が楽になるかもしれない。
公園に着くと、小さな子供達がブランコに乗って元気に遊んでいた。小学校一年生ぐらいだろうか。でも、その子達も固まっていた。前歯の抜けた口を大きく開き、ニカッと笑っている。普段なら微笑ましい光景なのだが、その状態のまま固まっているとなると、思わず目を背けたくなる。
ベンチに座って、固まった小さな子供達を見ていると、急に吐き気がこみ上げて来た。僕はなんとか堪えたが、気づけば、堪えようの無い嗚咽がこみ上げて来た。どうやら、僕は泣いてしまったようだ。涙が止まらない。この世界で今動いているのは、僕だけじゃないかと思うと心底不安になる。
一時間ぐらい泣いていたのだろうか。大の男が情けないと思いつつも、誰も見ていないんだと思うと、男のプライドはどこかへ飛んで行ってしまった。泣き止んで、顔を上げても、周りの光景は変わりなかった。もう帰ろうと思い、立ち上がると、どこからか子供の笑い声が聞こえてくる。驚いて、さっと後ろを振り向いてみると、何かがシャッ!という音を立てて、公園の前を横切った。僕は慌ててその『何か』の後を追った。
『何か』は僕とコルーパが出会った。場所に立っていた。子供のようだ。全身白い服で身を包み、僕に背を向けている。僕はその子に近づいて、肩をつかみ、後ろを向かせた。その子の顔を見たとたん、僕は「ワッ!」と言う声を上げて、飛び上がってしまった。真っ白な肌に、紺碧に光る目。白目は無く、目そのものが青色と言う感じだ。
その子は後ずさりする僕に近づいて来た。そして、僕の頭を掴むと、その奇妙な顔を近づけて「あははははは」と笑い声を上げた。
その瞬間、僕は体がふわりと浮いたような、ふわふわと無数の手が、僕を持ち上げているような不思議な感覚になった。だが、前の顔は消えない。僕は目をつぶると、数々の光景がまぶたの裏に映し出された。
地球がふくれあがる映像、無数のUFOが地球の上空を飛び交う映像。フワフワと浮く、クラゲのような機械が街を破壊する映像。黒い液体のような物が人の体の外から血管に入り込み、悲鳴を上げている映像。僕はそれらの映像を見る事ができなくなり、目を開けた。すると、目の前にはあの顔があった。
「ワッ!」
はじき飛ばされるようにして、僕はしりもちをついた。周りを見渡すとそこは僕の部屋だった。部屋を一通り見ると、おそるおそる前を見た。そこには、へっへっへと舌を出して息をしているコルーパの姿があった。
「一体どうしたんだい?いきなり叫び声なんかあげて」コルーパは目をぱちくりさせた。「黙っていたと思ったら急に叫ぶんだもん。びっくりしたよ。で、質問はなんだった?」
「ああ、それなら??」と僕は言いかけたが、よく考えてみた。
質問なら時が止まってしまう前にしたはずだ。あれから、時が戻った――?馬鹿な。そんな事ができるんなら神にだってなれる。それに、あの子供の事。コルーパに言った方がいいのだろうか。僕は慎重に言葉を選んだ。
「何故、時が止まってしまったんだ?」
コルーパは小首をかしげ、ハア?と言った。
「何の事かさっぱり」
「……本当に何も覚えてないのか?」
僕は身を乗り出して言った。
「あのときの事を全く覚えていないと言うのか?あのときお前は固まってしまって、その後どこかへ消えた。一体どこに――」
「覚えてるも何も、そんな状態にはならなかっただろう?俺がどこに行ったかなんて、知るはずが無い。だって本当に知らないんだ」
コルーパは僕の言葉を遮って言うと、後ろ足で耳をかき始めた。
「いいかい?君はさっきまで黙っていたんだ。しばらくしたら、いきなり叫び声を上げたんだ。分かったかい?時が止まるなんて事、あるはずが無いんだ。君は悪い夢を見ていたんだよ」
僕は納得がいかないので反論した。
「よし、いいか。僕は時が止まったとき、下に降りて昼食を確認した」
そういうとコルーパは、意地汚い奴だ。とぼそぼそと言った。僕はそれを無視して続ける。
「今から、確定している未来を話す。今日の昼食はチャーハンだ」
「君は何を行っているんだい?まあ、証拠になるかもしれないけど、匂いで分かるだろう?さっきから、プンプン匂ってくるぞ」奴は得意げに言う。
でも、僕は食い下がる。「お前は犬だろう?人間の何倍も鼻がよく利くだろうが。一緒にするんじゃない。もしも、これで昼食がチャーハンだったら、お前は本当の事を話せ。いいな」
コルーパは立ち上がると、僕の周りをぐるぐると回り始めた。
「じゃあ……もしも、チャーハンじゃなかったら――」奴は僕の真後ろのところで立ち止まる。「もう、これ以上、馬鹿なことを言わないでくれ。これから先、君が疑問に思っている事は自然と分かる……はずだ」
「『はずだ』ってことは、不確定だろ?そんな事を約束されても困る。だから、『もしも、昼食がチャーハンじゃなかったら、君は馬鹿な事を言わない。そして、君が疑問に思っている事はいずれ、僕から話す』っていう約束にしてくれ。それだったら、お前の言う事を信じ、もう馬鹿な事は言わない」
言い争っている方は真剣だけれど、聞いてる側にしてみれば、とてもじゃないけれど、聞いていられないだろう。言い争いを終えた後、僕の頬が恥ずかしくて少しだけ赤くなったのを覚えている。
読んでいただいてありがとうございます。
徐々に続きを載せていきます。
現在、2nd(よりよい表現に推敲しております)を執筆中です。