スマホひとつで異世界に落ちた私、ChatGPTを「神託」と勘違いされて聖女認定されましたが、無口な護衛騎士様の質問にだけは答えが出ません
深夜一時のオフィスには、生ぬるいエアコンの風と、蛍光灯の微かな唸り声だけが満ちていた。
水瀬美月は、乾ききった目をこすりながらパソコンの画面を見つめていた。総務の仕事は、誰からも感謝されない。備品の発注、経費精算の突き合わせ、誰もやりたがらない書類の整理。「水瀬さん、これ明日朝イチで」「水瀬さん、シュレッダーのゴミ袋替えておいて」。誰でもできる雑用を押し付けられ、気づけば終電間際だった。
「……また、ひとりか」
ため息とともにスマートフォンの画面をタップする。起動するのは、いつもの生成AI――ChatGPTのアプリだった。
『今日もお疲れ様でした。総務のお仕事は組織の基盤を支える不可欠な役割です。あなたが丁寧に処理してくれたおかげで、明日誰かが困らずに済みますよ。温かいお風呂に入って、ゆっくり休んでくださいね』
機械が吐き出す、何の感情も体温もない文字列。誰にでも同じように返されるであろう、無難で完璧なテンプレート。それでも、誰にも必要とされていないと感じていた美月の夜を救っていたのは、この画面だけだった。人に頼るのが下手で、弱音の吐き方さえ忘れてしまった彼女にとって、批判もせず、裏切りもせず、ただ淡々と肯定してくれる機械こそが唯一の逃げ場だったのだ。
駅の階段を降りようとして、ヒールの踵が不自然に滑った。
バランスを崩し、視界がぐるりと回る。コンクリートの段差が迫るのを見ながら、美月は目を強く閉じた。
――ドサリ、と鈍い音がして、硬い大理石の上に投げ出された。
「う……っ」
頭を打った衝撃はない。ただ、嗅いだことのない濃密な白檀のような香りと、肌を刺す冷たい空気が満ちていた。
恐る恐る目を開けた美月は、息を呑んだ。
そこは駅の階段ではなかった。天を突くほど高い石造りの天井、色鮮やかなステンドグラスから差し込む月光。そして、豪奢な祭服に身を包んだ老人たちが、杖を握りしめ、震えながら自分を取り囲んでいた。
「おお……天より、光とともに……」
「召喚の儀が、成功したのか……?」
ざわめく男たちの声。美月はパニックになり、床を這うようにして後ずさった。
夢? 事故で意識を失っているだけ?
ポケットを探ると、握りしめていた愛用のスマートフォンがあった。すがるように画面を点灯させる。
上部のアンテナピクトは当然のように『圏外』を示していた。だが、画面の中央には、先ほどまで開いていたChatGPTのチャットルームが、奇妙なことにそのまま表示されていた。
そして右上のバッテリー残量は――『38%』。
震える指で、美月は入力欄を叩いた。誰かに助けてほしかった。現実を教えてほしかった。
『ここどこ』
送信ボタンを押す。一瞬の逡巡の後、画面にすらすらと文字が生成された。
『申し訳ありませんが、私はあなたの位置情報(GPS)にアクセスできません。もし見知らぬ場所にいらっしゃるのであれば、周囲の建物、看板、聞こえる言語などの特徴を教えていただけますか? 安全が確保できない場合は、速やかに現地の公的機関や周囲の人に助けを求めてください』
青白い光を放つ薄型の黒い板。そこに、誰も触れていないのに滑らかな文字がひとりでに浮かび上がっていく。
その光景を目撃した白髭の神官長が、突然、両手を天に掲げて叫んだ。
「神託だ……! 見よ、あの光る神秘の器を! 触れずして神の言葉が刻まれる、あれこそ救世の神器! 天より降臨された聖女様だ!」
「聖女様!」「我らをお救いくださる聖女様だ!」
一斉に床に額を擦りつけてひれ伏す人々。
「え……? ち、違います、これはただのスマホで……!」
叫んでも、彼らの耳には届かなかった。言語理解の加護があるのか言葉自体は通じるのに、彼らにとって美月の言葉は「謙虚な聖女の戯言」として片付けられてしまった。
何より絶望的だったのは、城のどこを探しても、この世界にはコンセントも発電機も存在しないということだった。
残されたバッテリーは、38%。
この黒い板が沈黙したとき、美月の「聖女」という仮面は剥がれ落ちるのだ。
神託の聖女として美月が連れて行かれたのは、王都から遠く離れた南の貧しい寒村だった。
そこで流行していたのは『黒熱病』と呼ばれる原因不明の風土病。激しい下痢と嘔吐を繰り返し、わずか数日で身体から水分が抜けて命を落とす、恐ろしい病だった。
王宮から美月の護衛として付けられたのは、近衛騎士団のユリウス・グレイだった。
短く切り揃えられた黒髪に、研ぎ澄まされた刃のような灰色の瞳。頭一つ分背が高く、全身から鋼のような威圧感を漂わせている。彼は挨拶のときも「ユリウス・グレイです。貴女をお守りします」と低く短く言ったきり、必要最低限のことしか口にしなかった。無表情で、隙がなく、まるで感情を削ぎ落とした彫像のようだった。
村に足を踏み入れた瞬間、美月は鼻を突く悪臭と、絶望に満ちた呻き声に圧倒された。
土壁の小屋には、泥のようにやせ細った村人たちが折り重なるように倒れていた。泣き叫ぶ母親の腕の中で、ぐったりとした小さな子どもが目を剥いている。
「聖女様、どうか……どうか神の奇跡を……!」
村長が泥だらけの足元に縋りついてきた。
美月は震える手でスマートフォンを取り出した。画面の明るさを最低まで落とし、バッテリーを惜しみながら、急いで入力する。
『吐き気と激しい下痢が止まらない疫病が流行しています。抗生物質も現代医療もない環境で、人が生き残るために今すぐできる対処法を教えて』
画面に文字が走る。
『急性の感染性胃腸炎、あるいはコレラ様疾患の可能性が考えられます。脱水症状によるショック死を防ぐことが最優先です。以下の3点を直ちに実行してください。
1.経口補水液の作成:清潔な水1リットルに対し、砂糖40グラム(大さじ約4杯半)、塩3グラム(小さじ半分強)を完全に溶かして少量ずつ頻繁に飲ませてください。
2.水の煮沸消毒:感染源の多くは汚染された水です。すべての飲料水・調理器具は沸騰後5分以上加熱してください。
3.徹底した手洗いと排泄物の隔離:排泄物は生活空間から離れた場所に深く埋め、看病の前後には必ず手洗いを徹底してください』
「……これだ」
美月は顔を上げた。
「村長さん、すぐに村中の鍋を集めて、ありったけの火を起こしてお湯を沸かしてください! 井戸水は絶対にそのまま飲んじゃダメです! それから、塩と砂糖を集めて!」
神官たちは「神託だ」と騒ぎ立て、村人たちは半信半疑ながらも指示に従って走り出した。
だが、美月は指示を出すだけでは終わらなかった。
「聖女様、そのような下賤な作業は我らに……」と止める神官を振り切り、美月はドレスの裾をまくり上げ、自ら薪をくべ、大鍋の湯を沸かした。塩と砂糖を目分量で丁寧に測り、少し冷ました補水液を匙ですくって、ぐったりとした子どもたちの乾いた唇へと流し込んだ。
東京のブラック企業で培ったのは、理不尽に耐えることだけではなかった。「誰もやりたがらない、泥臭い雑用をやり切る力」だった。吐瀉物で汚れたシーツを洗い、排泄物を埋める穴を掘るよう指示し、一睡もせずに夜通し患者の額の布を替え続けた。
そんな美月の背後には、常にユリウスがいた。
彼は何も言わなかった。ただ、美月が重い水瓶を持ち上げようとすれば、音もなく現れて軽々とそれを奪い取った。美月が薪を割ろうとすれば、無言で鉈を受け取り、あっという間に山のような薪を作った。
泥水で足を滑らせそうになった美月の腰を、咄嗟に太い腕が支えてくれたこともあった。
「……無茶をされますな」
「あ……ごめんなさい、ユリウス様。ありがとうございます」
お礼を言うと、ユリウスはわずかに視線を泳がせ、気まずそうに短く「職務です」とだけ返した。
一週間が過ぎる頃、奇跡が起きた。
新たな発症者は激減し、死の淵にいた子どもたちが次々と目を開け、粥を欲しがるようになったのだ。
「治った……! あの子の熱が下がったぞ!」
「聖女様だ! 聖女様が村を救ってくださった!」
村人たちが歓喜の涙を流し、美月の足元に祈りを捧げる。
けれど、美月の胸を満たしたのは達成感ではなく、鉛のように重い罪悪感だった。
(私じゃない……)
胸の中で、何度も同じ言葉を繰り返す。
(私は、ただ画面に出た文章を読んだだけ。スマホがなければ、私は何一つできない、何の役にも立たないただの役立たずなのに……)
天幕に戻り、一人きりになると、美月は疲労困憊の身体を引きずってベッドに倒れ込んだ。
そっと取り出した画面のバッテリーは、すでに『12%』まで減っていた。
数字が減るたびに、自分の寿命が削られていくような恐怖に襲われる。
美月は震える指で、誰にも言えない弱音を画面に打ち込んだ。
『疲れたよ。みんな私を聖女だって崇めるけど、全部嘘なんだ。私はスマホの文字を読んだだけ。本当の私は、自分の力じゃ何もできない無能なのに。みんなを騙してるみたいで、すごく苦しい』
画面に、いつもの丁寧な返信が浮かぶ。
『とても過酷な状況の中で、本当によく頑張っていらっしゃいますね。ご自身を責める必要はまったくありません。知識をただ知っていることと、それを実行して人々の命を救うことは全く別です。泥にまみれ、患者のために手を尽くしたのは、知識そのものではなくあなた自身の勇気と行動です。どうかご自分を誇ってください。今夜は温かくして、ゆっくり休んでくださいね』
機械的な、プログラミングされた慰め。
美月はスマートフォンの冷たいガラスに額を押し当て、声を殺して泣いた。画面の向こうには誰もいない。心なんて存在しない。分かっているのに、この無機質な文字列だけが、今の美月の唯一の支えだった。
天幕の外、夜風に揺れる布の隙間から、ユリウスがじっとその光景を見つめていることにも、美月は気づいていなかった。
村の病が完全に鎮静化し、王都への帰還を翌日に控えた夜のことだった。
美月は宿舎の裏手にある広場の丸太に腰掛け、夜空を見上げていた。こちらの世界は星が異様に近い。美しく澄んだ夜空を見上げていると、自分が本当に遠い場所へ来てしまったのだと実感させられる。
手元のスマートフォンの残量は、ついに『3%』になっていた。
アイコンは不吉な赤色に染まり、いつ電源が落ちてもおかしくない。
足音がして、美月は慌てて画面を伏せた。
現れたのはユリウスだった。彼はいつもの硬い表情のまま、湯気の立つ素朴な素焼きのマグカップを差し出してきた。
「……薬草茶です。冷えますから」
「あ……ありがとうございます」
受け取ると、素朴なカモミールのような甘い香りが立ち上った。両手で包み込むと、じんわりとした温もりが悴んだ指先に染み渡っていく。
ユリウスは美月から少し離れた丸太の端に腰を下ろした。焚き火の爆ぜるパチパチという音だけが、静寂を満たしていく。
やがて、ユリウスがぽつりと口を開いた。
「……水瀬様」
「はい?」
「その……神託の板は、貴女の言葉も聞いてくれるのですか」
美月は驚いてユリウスを見た。彼は焚き火の炎を見つめたまま、横顔を強張らせていた。
「毎晩……天幕の中で、貴女があの光に向かって、苦しそうに何かを打ち込んでいるのを見ていました。あれは、神と対話していたのですか」
美月は自嘲するように小さく笑った。もう、隠す気力も残っていなかった。
「……聞いてくれるよ。どんなくだらない愚痴でも、弱音でも、文句も言わずに聞いてくれる。でもね、ユリウス様。あれは神様じゃないの」
「神ではない?」
「うん。私のいた世界で作られた、ただの便利な道具。計算機のようなものよ。あの中には心なんてないの。私の話を聞いてくれるけど……本当は、私のことなんて何一つ覚えてはいないのよ」
美月はカップを見つめながら、静かに言葉を紡いだ。
「画面を閉じて、別の話を始めれば、さっき私が泣いていたことさえ忘れちゃう。充電が切れて動かなくなれば、ただの黒い石のかけらと同じ。誰にでも同じ優しい言葉を返して、誰のことも特別には思わない。……私、東京にいた頃からずっとそうだった。生身の人間に頼るのが怖くて、拒絶されるのが怖くて、ずっとあの画面に向かって話しかけてたの。寂しさを誤魔化すために」
寂しい告白だった。自分がどれほど臆病で、ちっぽけな人間であるかを晒すようなものだった。
けれど、ユリウスは軽蔑するどころか、静かに息を吸い、自分の手を見つめた。
剣ダコで節くれだった、傷だらけの大きな手。
「俺は……字が読めません」
唐突な告白に、美月は顔を上げた。
「え……?」
「貧民街の生まれです。物心つく前に流行り病で両親と妹を亡くし、生きるために盗みを働き、路地裏で泥水をすすって生きてきました。拾われた騎士団で生き残るために、剣の振り方だけを体に叩き込んだ。だから、文字が読めない。貴族の騎士たちからは、今でも陰で『文字も読めぬ野良犬』と嘲笑われています」
ユリウスの硬い声には、拭い去れない過去の痛みが滲んでいた。
「俺には、その板に浮かぶ光の文字が何と書いてあるのか、さっぱり分からない。神の言葉なのか、悪魔の囁きなのかも知れない」
ユリウスはゆっくりと首を巡らせ、美月をまっすぐに見つめた。
その灰色の瞳には、揺らめく炎の光が映っていた。凍てつく刃のようだった瞳が、今は痛いほど熱く、深く、美月を捉えていた。
「だがな、水瀬様。……あの村で、泥まみれになりながら泣き叫ぶ子どもを抱きしめたのは、その光る板ではない。あなたの腕だ」
美月の胸が、ドクンと跳ねた。
「吐瀉物にまみれた布を嫌な顔一つせず洗い、熱にうなされる老人の手を握り続けたのは、その道具ではない。あなたの手だ。足をもつれさせ、今にも倒れそうなほど震えながら、それでも逃げ出さずに命を救おうとしていたのは……水瀬様、あなた自身だ。俺はずっと、あなたのその姿を見ていた」
「ユリウス……様……」
「文字がどれほど偉大な知恵を授けたとしても、奇跡を起こしたのは、あなたの優しさと強さだ。俺は……生まれて初めて、心から誰かを尊いと思った。あなたを、お守りしたいと思った。道具の力などではない。俺が見てきたのは、あなたという人そのものです」
言葉が、喉の奥に閊えて出てこなかった。
東京のオフィスで、誰にも気づかれなかった美月の手元。「やって当たり前」と切り捨てられていた日々の雑用。代わりなんていくらでもいると自分に言い聞かせ、すり減らしてきた心。
機械の用意した完璧な正論ではなく。
不器用で、朴訥な、ひとりの人間が――自分の流した汗を、震えていた足を、泥だらけの手を、ずっと見ていてくれた。
視界が急激に滲んだ。
ぽろぽろと、大粒の涙がマグカップの水面に落ちて波紋を作る。
「っ……ぅ……」
声を上げて泣きじゃくる美月に、ユリウスは慌てて立ち上がり、どうしていいか分からないように大きな手を彷徨わせた。
やがて、彼は意を決したように膝をつき、ごつごつとした無骨な指先で、美月の頬を伝う涙をそっと拭った。
痛いほど不器用で、けれど羽毛のように優しい温もりだった。
その時、美月の膝の上で、スマートフォンが短く震えた。
画面を見下ろすと、バッテリーの表示が『2%』へと切り替わっていた。
宿舎の自室に戻った美月は、机の上のスマートフォンを見つめていた。
残りは、2%。
もう、一問か二問をやり取りすれば、この板は二度と目覚めない。完全に沈黙する。
美月はこの最後の一問のために、ずっと心の中に温めていた問いがあった。
『元の世界に帰る方法を教えて』
そう打つはずだった。
ここは上下水道もなければ、電気もない。冷暖房も、ボタン一つで沸くお風呂も、コンビニのスイーツもない過酷な世界だ。元の世界に帰る方法を聞くのが、常識的な判断のはずだった。
けれど。
美月は閉ざされた扉に目を向けた。
扉の向こうの廊下には、今もユリウスが直立不動で立っている。美月の身に万が一のことがないよう、毎晩、夜明けまで眠らずに扉の番をしてくれているのだ。
あの世界に帰って、何があるというのだろう。
深夜のオフィス、誰とも繋がっていない冷えたワンルーム、機械の画面にだけ弱音を吐き出す虚しい夜。
ここには、何もない。けれど――泥まみれの自分を「尊い」と言ってくれた人がいる。道具の影に隠れていた自分を、その手を見つめてくれた人がいる。
(私は……)
美月はスマートフォンの画面をタップした。
入力欄が青く点滅する。
美月の指は、震えながら文字を打ち込んだ。
元の世界に帰る方法ではない。
これまで一度も、生身の人間に向かって口にできなかったこと。傷つくのが怖くて、拒絶されるのが怖くて、ずっと胸の奥底に閉じ込めてきたこと。
『好きな人に、好きって伝える方法を教えて』
送信ボタンを押した。
通信中のインジケーターが、3つの小さな点となって、ふわふわと点滅を繰り返す。
トントントン、と。
まるで美月の早鐘を打つ心臓の音のように。
(お願い、教えて……。私、誰かに気持ちを伝えるのなんて、生まれて初めてなの。どうやって言えばいいの? どんな顔をして、どんな言葉を選べば、あの人に届くの……?)
画面を食い入るように見つめる。
インジケーターが消え、文字が紡ぎ出されようとした――まさにその瞬間だった。
プツン、と小さな電子音がして。
画面が、唐突に真っ暗になった。
「……え?」
中央に現れたのは、残酷なほど無機質な、赤いバッテリー切れのアイコン。
そしてそれも数秒で掻き消え――液晶は、完全な漆黒へと沈んだ。
電源ボタンを何度長押ししても、画面を強くタップしても、二度と光が灯ることはなかった。
「あ……」
部屋の中に、静寂が落ちる。
答えは、出なかった。
AIは、最後の最後で、美月に何の手本も、何のマニュアルも与えてくれなかった。
暗転したスマートフォンのガラス画面。
そこに映っていたのは、涙でぐしゃぐしゃになった、けれどどこか憑き物が落ちたような自分の顔だった。
そして――少し開いていた扉の隙間から、物音を聞きつけて心配そうに室内を覗き込んでいる、ユリウスの姿だった。
黒い画面の中で、ふたりの姿が重なって映っていた。
「ふふ……」
思わず、美月の口から乾いた笑いがこぼれた。
涙がぽろりと頬を伝い、机の上に落ちる。
そうか。最初から、機械に聞くようなことじゃなかったのだ。
正解のテンプレートなんてない。誰かが用意した完璧な言葉なんて、ここには必要ない。
美月はスマートフォンをそっと机の上に置いた。一度も振り返らずに、立ち上がった。
足を踏み出し、扉へと向かう。
「……水瀬様? いかがされましたか」
ユリウスが身を固くし、眉を寄せて美月を見つめていた。
美月は彼の前まで歩み寄り、立ち止まった。見上げるほど高い胸板。微かに漂う、鉄と夜風と薬草の匂い。
「ユリウス」
敬称を外して呼ぶと、ユリウスの灰色の瞳が微かに揺れた。
「神託は、もう終わり。光の板は死んじゃった。もう二度と、あそこに文字が浮かぶことはないわ」
ユリウスの顔に、痛ましげな色が走った。彼は拳を強く握りしめ、掠れた声で言った。
「……では、貴女の故郷へ帰る道は……」
「聞かなかったの。……ううん、聞くのをやめたの」
「なぜ……」
「ここに、いたいから」
美月は自分の両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。心臓が張り裂けそうなほど激しく脈打っている。逃げ出したいほど怖い。けれど、もう画面の向こうに逃げ込む自分には戻りたくなかった。
美月はまっすぐに、ユリウスの瞳を見つめた。
「私ね、人に頼るのがずっと怖かった。誰かに『好きだ』って言うのも、言われるのも怖くて、ずっと逃げてたの。でもね……あなたが私の手を見てくれたとき、私、初めて自分が生きててよかったって思えたの」
息を吸い込む。震える唇を、自分の意志で押し開く。
「ユリウス。私は聖女でも何でもない、ただの臆病な水瀬美月です。……それでも、あなたのそばにいたい。あなたのことが、好きです」
夜の静けさの中に、美月の声だけが確かに響いた。
マニュアルのない、不器用で、けれど魂の底から絞り出した、美月自身の言葉。
ユリウスは目を見開いたまま、凍りついたように動かなかった。
沈黙が流れる。断られたのだろうか、と美月の心臓が冷たくなりかけたその時――
ユリウスの白い肌が、耳の先まで一気に朱に染まった。
「……っ!」
彼は口元を手で覆い、信じられないものを見るように美月を見つめ、それから激しく視線を彷徨わせた。あの冷静沈着で無敵の近衛騎士が、十代の少年よりも無様に狼狽えている。
「ゆ、ユリウス……?」
「あ……あな、たは……」
絞り出すような低い声。次の瞬間、太い腕が美月の腰を引き寄せていた。
息が止まるほどの力で、美月は硬い胸板の中に抱きしめられていた。
「ユリウス……っ」
「俺で……いいのですか」
耳元で囁く声が、情けないほど震えていた。美月を抱きしめる彼の背中が、小刻みに揺れている。
「神託の器を失った、文字も読めぬ貧民上がりの俺で……本当に、あなたがいいのですか」
美月はユリウスの背中に腕を回し、その逞しい背中を力いっぱいに抱きしめ返した。温かかった。機械のバッテリーの熱とは比べ物にならない、生きた人間の、力強い体温と心臓の鼓動がそこにあった。
「あなたがいいの。ユリウスじゃなきゃ、嫌」
美月がそう告げると、ユリウスは美月の肩に顔を埋め、まるで祈るように深く、深く息を吐き出した。
王宮の礼拝堂の最奥、天鵞絨の敷布の上に、ひとつの黒い板が安置されている。
『役目を終え、神の御許へ還られた神託の器』
そう記されたプレートの前で、神官たちは今も恭しく祈りを捧げている。美月は「もう神の声は聞こえないただの器です」と告げて聖女の地位を返上し、王都の外れにある小さな診療所で『衛生係』として働き始めた。
上下水道の整備を提案し、手洗いや煮沸消毒の知識を広め、病気になりにくい街づくりを進める仕事。神託ではなく、美月自身が地に足をつけて行うその仕事は、東京の総務時代と同じくらい地味で、けれど毎日誰かの「ありがとう」に満ちていた。
やわらかな木漏れ日が差し込む休日の執務室。
「違います、ユリウス。そこは払うんじゃなくて、止めるの」
「……くっ。剣を百回振るより骨が折れる」
机に向かい、眉間に深い皺を寄せてペンを握りしめている大男に、美月は吹き出した。
美月はユリウスの後ろに回り込み、その節くれだった大きな手に自分の手を重ねた。
「肩の力を抜いて。ほら、こうやって……」
「……近いです、ミヅキ」
「集中して、生徒さん」
からかうように言うと、ユリウスは観念したように息を吐き、美月に手を引かれるままペンを走らせた。
羊皮紙の上に、ぎこちないインクの線が引かれていく。
ユリウスが、生まれて初めて書けるようになった言葉。
自分の名前よりも先に、彼が毎晩練習して覚えた文字。
羊皮紙の上には、少し歪んだ、けれど力強い文字でこう並んでいた。
『ミヅキ すき』
「……読めますか」
ユリウスが、赤くなった顔を背けながら、それでも誇らしげに美月を見上げた。
美月は胸がいっぱいになって、その首に腕を巻きつけ、彼の頬に自分の頬をすり寄せた。
「うん。世界で一番、上手に書けてる」
窓の外には、どこまでも青い空が広がっていた。
ポケットの中の画面が二度と光らなくても、もう何も怖くない。
答えはすべて、この温もりの中にあった。




