コイに嫉妬した
ある夏の夏休み。気温は35度をとっくに超えていた。外に出るだけで背中からすぐにじんわりと汗が出る。ついこないだ買ってもらった正面にカブトムシのキャラクターが印刷された白いTシャツはもう汗ばんでいた。摩擦の少ないふわふわのタオルを首に巻き、虫籠を首から下げて家を出る。
僕は保育所からずっと一緒の友達の田口のタッちゃんと一緒に肩へ虫取り網を担いでよく森へ出かける。小学生の僕たちは虫取りに夢中だった。
朝のラジオ体操が近所の公園で毎日行われている。それを終えた後、すぐにスタンプを押してもらうと、僕とタッちゃんは一番に公園を出て、玄関に準備しておいた虫取りセットをかっさらい、さっき別れの挨拶をしたばっかりなのに、また朝の挨拶を交わす。
太陽が荒れたアスファルトを照らし、地面から反射する熱は背の低い僕たちにとって天敵だった。しかしそれは山に入ればすぐに解決する。木の影が太陽の光を遮ってくれる。木漏れ日は気にも留めない。
僕たちはよくカブトムシやクワガタの取れる場所によく行く。その場所の近くに汚い池があり、鯉が数匹いる。目当ての虫がいなかった日には虫を鯉の餌にする。
鯉が口をパクパクしているのを二人で笑っていた。
今日はその鯉の間抜け面を見ることはなかった。にわかに緑色の蛍光色が腹部に見えるカブトムシがいた。しっかりと虫取り網で採り、虫籠にすぐ入れた。僕とタッちゃんは目を丸くして、そのカブトムシを観察する。
「すげーな。初めて見た。」
図書室の図鑑で僕たちは昆虫図鑑を見るのが好きだった。休憩時間になると、どんな給食であろうと掃除機のごとく食べる。しかし例外もあった。僕が嫌いな金時ニンジンが給食で出た際は、僕の掃除機は壊れたように遅くなる。先にタッちゃんは図書室に行くけど、僕が行けない時がニヶ月に一回ぐらいあった。その時は寂しくて、さらに箸の進みが遅くなる。
今日その日、上機嫌に虫取りを続けた僕だったけど収穫はなかった。だけど今日のタッちゃんは一味違った。家から持ってきた何かを入れたジッパーを取り出した。それはこの日のためにタッちゃんがネットで調べたバナナトラップという物だった。バナナを切り、焼酎を加えて2日ほど発酵させた物を木の幹へ網を使って巻きつけた。タッちゃんは明日を楽しみに待っている。
バナナトラップを設置したのは夕方で、後1時間すれば日が落ちる程だった。帰ろうと森を下っていると5時のチャイムが帰宅を催促してくる。少しばかり音割れのあるチャイムは不気味で、夕日とのハーモニーは僕たちの足を速くする。
僕たちは帰宅路で別れた。いつも通り、毎日、夏休みは何度手を振ったものか。走って家に帰ると開口一番にただいまのあと、お父さんに虫籠を突きつけた。興奮のあまり、晩飯までそのカブトムシの凄さを語ってしまった。お父さんはずっと聞いてくれていたけど、実は何か言いたげだった。僕はその時は気づかなかった。お風呂に入っているとそんな感じだったなと湯船に浸かって思い出した。その日はお父さんは僕に何も言わずに眠った。
僕は今日もラジオ体操と虫取りの準備をして公園に行った。相変わらずタッちゃんの寝癖が元気に立っている。眠たい体を大きく振り、広げて、深呼吸を最後に終えると、スタンプを一連の流れで受け取る。
今日もタッちゃんといつもの場所へ行く。今日のタッちゃんは一段と笑顔でリズミカルにスキップをしていた。バナナトラップの場所はいつもより賑やかに聞こえた。木を見つけ、そっと虫取り網を構えて近づく。二人で同時に左右の虫を捕まえた。互いにガッツポーズを決めた。僕はカブトムシを、タッちゃんはクワガタを捕まえた。捕まえたことより友達のタッちゃんと一緒に何かできたことが嬉しかった。タッちゃんはどうなのかわからないけど。
その日も次の日も、夏休みが終わるまでこの毎日が続くと思っていた。
僕はバナナトラップの日の夜、夕食にお父さんが真剣な眼差しで僕を見つめてくる。箸がいつもより不器用になる。僕はお父さんの目線に耐えられなくて、口を開いた。
「どうして僕を見てるの?」
僕がお父さんに言ってもすぐに返事は返ってこなかった。
お父さんは一瞬、目だけお母さんと目を合わせて、遂に言った。
「なぁ、タッちゃんと仲良くできているか?」
僕は無邪気に肯定する。
お父さんは眉をハの字に傾けて言った。
「お父さんな、仕事の都合で家族引っ越しをしようと考えているんだ。
それで、引っ越しは夏休みに済ませておきたい。
急なことを言うんだが、な?」
お父さんの最後の上げ調子の言い方に僕はもう引っ越しするんだなとわかった。わかった途端、目が熱くなるのを感じた。その時は泣くのを堪えて、すぐに手を合わせたあと、自分の部屋に続く階段を駆け上がった。
今日取った虫を見ながら、静かに泣いていた。引っ越しはタッちゃんと別れることを意味する。それがどれほど苦しいことか僕も、両親も知っているだろう。カブトムシが動くたびにプラスチックの軽く短い音が何度も鳴る。僕が鼻水を啜る音も少しずつ聞こえてくる。結局その日はお父さんにあのことに頷くことも首を振ることもなかった。いつのまにか僕はベットで寝ていて、涙で枕が湿っていた。
また、朝にはラジオ体操に行き、その後タッちゃんと森に行き、虫を取る。今日は会話が少なく思えた。あのことを知ってしまったからだろうか。いつもなんとも思っていなかった無言の空白が虚しく思えた。少しでも長く会話ができたらと、思っていても僕からは話せなかった。その日に限って、鯉に虫をやる。鯉に楽しそうに餌をやるタッちゃんを横目に笑えなかった。どうしてだろう。鯉に嫉妬してしまいそうだ。パクパクと口を開けている鯉がタッちゃんと楽しく話しているようだ。僕は何気ない話題でタッちゃんと話して、僕の心を慰めた。
その日の夕食、昨日のことなんか忘れたフリをして箸を進める。するとまたお父さんが言ってきた。予想はついている。このまま無反応だとお父さんが無理に僕を引っ越しさせたみたいになってしまい、家族の間で穴が開くのは嫌だ。僕は引っ越しに賛成した。本心ではそんなことは一切ないけど。
夜はぐっすり眠れなかった。両親がもう寝ている時間に起きているのは初めての感覚かもしれない。ずっと頭の中でグルグルとに何かが渦巻いている。あの鯉はタッちゃんとずっと話せるのかな。引っ越すぐらいならあの鯉になってみたい。どんな虫でも食べてやる、間抜けな顔でも笑わせてやる、感情的になった僕は布団を被り、落ち着き、そのまま夜が明けた。
今日もタッちゃんと森へ行く。今日は早めに鯉を眺めていた。
「そろそろここら辺の虫も勘付いて来たのかな?
見れる虫が少なくなってきた気がする。」
「・・・場所を変えないと行けないかもね、タッちゃん。」
場所を変える。鯉とは出会えなくなる。僕は引っ越しをする。まだタッちゃんにはこのことを教えていないけど、偶然の会話が僕の秘密を見透かしているように感じた。タッちゃん本人は気づいていないだろうけど、僕の少し胸が揺らいだ。今日の無言の空白は虚しいというより、いつ言い出せばいいか考える時間になっていた。そのせいでたまにタッちゃんの話を聞き逃すこともあった。
その夜、お父さんは引っ越しの日を赤色のマーカーで丸をしたカレンダーを僕へ見せてきた。
「この日に引っ越しをする。ちょっと都会の方で森が少ないかもしれない。
この日までに虫さんたちは返してあげよう。」
丁度一週間後。もう間近だった。
僕から虫を取り上げると、タッちゃんとの思い出が目に見えなくなる。虫籠、虫取り網、タオル、これを見れば思い出せるかもしれないけど、あの喜びを実感できるのは、この緑色のカブトムシでしか得られない。僕は渋々頷くが、これも本心ではない。
お父さんに言ったのは全て本心ではなかった。だけど物事は進んでいく。
次の日も、明後日も、明々後日も浮かない日々をタッちゃんと過ごす。
そして引っ越しをする日、僕は虫を解き放たなければならない。今日は空っぽの虫籠ではなく、数匹のカブトムシとクワガタを入れた虫籠を持ってきた。それを見たタッちゃんは不思議に思うのは当然で、僕に聞いてきた。
「どうしてカブトムシもクワガタも入れているの?
あの緑色のカブトムシもいるし。」
僕はもう言うしかなかった。どうせならもっと早く言っておけばよかったと思った。いや、お父さんがもっと早く言ってくれていればこんな苦渋の判断をしなかったのに。僕が口を開こうとした少し前にタッちゃんが言った。
「最近、虫取りに飽きてきた?それなら早く言えばいいのに。」
見当違いの台詞に僕はがっかりしていた。自分から言わなくてはならないのかと。タッちゃんが言ってくれるなら、今までの悩みなんて気にすることはなかった。けどもう言うしかないみたい。
「僕ね。引っ越すんだ。」
「いつ?」
「今日。」
タッちゃんは驚く。僕は当たり前に予想ができた。僕だって友達が突然、猶予が短すぎる引っ越しをするなんて言うと同じ反応をする。タッちゃんは冗談だと信じたかったのか、聞き返すが、僕の真剣さに心の安堵はなかった。
「虫を返すために、そういうこと?」
「うん。なんならあげるよ。
どうせ逃すんだし。」
僕の気持ちがタッちゃんの中で生きていればそれでもいいと思った。けどタッちゃんは虫を受け取ってくれなかった。
「それじゃあ、蹴りがつかないよ。
君だけズルい。」
ズルい?どういうことだ。予想外な言葉に僕は理解ができなかった。
「それなら、俺も虫を逃す。
もし俺が君の虫を死なせた時、俺はその痛みに耐えられない。
夏休みの思い出がそんなになるんなら、一緒に虫を逃そう。
思い出を数えるように、一緒に話そう。
僕も虫をとってくるよ。」
タッちゃんと一緒に山を降り、水分補給も兼ねて家に帰るとすでに家の中は空っぽで、これからの虫籠と同じようだ。
お父さんが僕のまだ虫が入っている虫籠を見る。
「早く返しなさい。
荷物は全部まとめたんだ。」
「いや、でも。」
僕はまだタッちゃんとすべきことが残っている。それを言うと、時間がないの一点張りだった。それにタッちゃんとは別れの挨拶をしてくると朝に宣言したのは僕で、それが終わればすぐに返ってくると約束していた。だけど、僕はそれをすっかり忘れていて、無惨に虫籠から取り出された虫が近くの木にお父さんの手で返されていく。僕とタッちゃんの思い出が簡単に消えていくのを感じる。でも、約束を守れなかったのは僕だ。破ったけじめはこれなんだと。
空っぽになった虫籠を手元に返される。僕の心と虫籠は空虚でいっぱいだった。車のエンジンがかかり、両親はすでに乗っていた。まだタッちゃんと別れを告げていないのに、思い出を語っていないのに、無言で別れることになってしまった。
車の後ろのドアを重く引き、いつもより強くドアを閉めた。そして車は家と別れる。タッちゃんとも別れる。
車はタッちゃんの帰り道を通る。もうここまでくると会いたくない。このまま消えたい。そう思っていた矢先、虫をいっぱいに詰めた虫籠を持つタッちゃんが曲がり角で一瞬見えた。お父さんに車を止めてもらうために、声を出したかったのに、溢れる静かな涙で、声が出なかった。両親に泣き顔を見せたくない僕のプライドが最後に妨げた。タッちゃんは僕と目が合った気がした。
どう思っているんだろうか。裏切られた気持ちなのだろうか。それともこれも蹴りがついたのだろうか。引っ越した今でも夏になると思い出す。




