婚約破棄ですか。では、この国の結界も止まりますね
「リシェル・エルフォード。お前との婚約は破棄する」
王城の大広間。
夜会の中央で、王太子アルベルトは高らかにそう宣言した。
周囲がざわめく。
けれど、わたくしは驚かなかった。
……いえ、正確には。
ようやく来たのね、と思った。
「理由を伺っても?」
静かに問い返すと、アルベルト殿下は鼻で笑った。
「理由? 決まっているだろう。お前は地味だ。愛想もない。王太子妃として華がなさすぎる」
隣に寄り添う桃色の髪の令嬢が、くすくすと笑う。
「リシェル様って、いつも難しい本ばかり読んでますものねぇ」
ああ、この方でしたか。
最近ずっと殿下の隣にいた子は。
「それに比べ、ミリアは癒やしを与えてくれる。お前のように冷たい女ではない」
冷たい女。
その言葉に、少しだけ指先が冷えた。
けれど表情は変えない。
「……承知いたしました」
「は?」
「婚約破棄、お受けいたします」
あまりにもあっさり認めたからか、殿下が困惑した顔をした。
本当は、もっと泣き叫ぶと思っていたのだろう。
馬鹿な男。
「ただし」
わたくしは一冊の手帳を取り出した。
「今後、王都中央結界の維持管理は行いません」
空気が止まる。
「……何を言っている?」
「そのままの意味です」
王都を覆う巨大結界。
百年以上続く、王国最大の防衛術式。
魔物の侵入を防ぎ、疫病を浄化し、瘴気を祓う、国の生命線。
「まさか、お前が管理していたとでも言うつもりか?」
「はい」
ざわり、と貴族たちがどよめいた。
当然だ。
結界維持は国家機密。
表向きは宮廷魔導士団が運営していることになっている。
けれど実際は違う。
術式の核を維持していたのは――わたくし一人だ。
「う、嘘よ!」
桃髪の令嬢ミリアが叫ぶ。
「だってあなた、攻撃魔法も使えないじゃない!」
「結界維持に必要なのは演算能力ですので」
「え……?」
「魔力循環、術式圧縮、瘴気分解、属性均衡。それらを二十四時間制御しておりました」
全員が呆然としていた。
アルベルト殿下だけが、苛立ったように吐き捨てる。
「くだらんハッタリだ」
……本当に、何も知らなかったのね。
「まあ、よろしいのでは?」
わたくしは微笑む。
「わたくしはもう他人ですので」
そして一礼し、踵を返した。
その三日後。
王都西区画に魔物が出現した。
五日後、浄化結界が停止。
七日後、地下水に瘴気汚染。
十日後。
王城から、わたくしの元へ使者が来た。
「り、リシェル様……!」
青ざめた宮廷魔導士が、半泣きで頭を下げる。
「お戻りください……! 結界が、もう限界なのです!」
「お断りします」
「なっ……!」
「婚約破棄された“冷たい女”ですので」
使者の顔が引きつった。
「そ、それは殿下が勝手に……!」
「その殿下が次期国王でしょう?」
わたくしは紅茶を一口飲む。
「では、その癒やしを与えてくれるミリア様にお願いしてはいかがです?」
「うっ……」
返せない。
当然だ。
結界維持術式は、十年以上かけてわたくしが一人で構築したもの。
代替など存在しない。
「……一つ、教えて差し上げましょうか」
わたくしは静かに告げた。
「“地味な努力”というものは、失われてから価値に気付くのですよ」
窓の外では、王都を覆っていた光の膜が、音もなく崩れ始めていた。
王都結界崩壊から二週間。
アルベルト元王太子は、国王陛下によって継承権を剥奪された。
理由は単純。
“国家防衛の要を手放した愚行”。
その一言だった。
なお、癒やしを与えてくれるらしかったミリア嬢は、瘴気汚染が始まった瞬間に真っ先に王都から逃亡したらしい。
探すだけ無駄だろう。
責任という言葉を理解している顔ではなかったもの。
「……戻る気はないのですね」
王城から来た使者が、疲れ切った顔で尋ねる。
「ええ」
わたくしは書類へ視線を落としたまま答える。
「わたくしを不要と判断したのは、あちらですので」
その瞬間だった。
空気がふわりと震える。
「――相変わらず容赦ないな」
低い声。
振り返ると、漆黒の外套を羽織った青年が立っていた。
隣国アストレア帝国第二皇子。
レオンハルト殿下。
「君が来るなら、国ごと欲しいと思っていた」
使者が凍りつく。
わたくしは小さく息を吐いた。
「……随分と遠回りをなさるのですね」
「価値あるものを迎えるには、それ相応の礼が必要だろう?」
そう言って彼は自然にわたくしへ手を差し出す。
王国は、わたくしを捨てた。
けれど。
世界には、価値を理解する者もいるらしい。
だからわたくしは――その手を取った。




