巻き戻り
薄紅色の花弁が水面に落ちて波紋を広げた。
その瞬間、クロエはハッと息をのむ。
周囲を見渡すとそこは春の花が咲き乱れるローラン公爵家の庭園だった。特に人口池のほとりに佇む桜の巨木が見事だ。
桜は初代聖女ユリアの愛した花で、庭の巨木は聖女の親友であったマグノリアに友情の証として贈られたものだという。
気が付けばクロエは、そんな庭を見渡すお気に入りの東屋の中で座っていた。
(どういうことだ?今は冬のはず……)
悪い夢から覚めた時のように心臓は嫌な早鐘を打っていたが、痛みは感じなかった。それどころか久方ぶりに頭もすっきりとしている。
目の前の大理石のテーブルには公爵家の菓子職人が腕を揮った宝石のような茶菓子の数々と、侍女の淹れてくれた薫り高い茶のカップが並んでいる。
そして対面の席に座るのは、真新しい近衛魔術師のローブに身を包んだ若者だった。
クロエよりも明るい青の長髪を項でくくり、紫色の瞳の下には病み上がりのせいかうっすらと隈が浮かんでいる。
まごうことなきクロエの婚約者、トリスタン・リシャールその人だった。
「……というわけでクロエ様。誠に恐れ入りますが、レオノール王女殿下の護衛があるため失礼させていただきます」
この日のことは覚えがあった。トリスタンが鉱血病から回復して初めての婚約者同士の交流会だ。
近衛魔術師に就任したことを報告した彼は、茶会が始まって早々に席を立とうとした。
(そうだ、確か私はこの時「大恩ある王女殿下のお召しならば遠慮は無用だ、しっかり務めを果たせ」などと励まして、見送ったはず)
それ以上は、いろいろ考える前に体が動いていた。
脚部に微量の魔力を流して筋力を強化し、テーブルを飛び越えてトリスタンの前に着地する。
「クロエ様?」
戸惑うトリスタンを東屋の柱へと追いつめ、今度は腕力を強化。左拳で柱を殴るようにして逃げ道をふさぎ、右手の指を彼の顎に添えて顔を覗き込んだ。
「レオノール殿下の奴隷になり下がったのは、私の助命を乞うためか」
「なんのことでしょう?」
トリスタンはとっさにとぼけていたが、驚いたときに慌てて視線を逸らす癖を見抜いたクロエは誤魔化されない。
「時戻しの禁術に手を出すなんて、いったいどうやって父上と陛下を説得……ッ!?」
なおも問い詰めようとした時だ。激しい頭痛に見舞われたクロエは、膝から崩れ落ちた。
「クロエ様!」
倒れる寸前、トリスタンの腕が彼女を支える。
東屋から少し離れた場所で待機していたクロエの侍女やトリスタンの従僕が心配してやってくるのを、クロエは片手で制した。
「すまない、少し立ち眩みがしただけだ。それよりトリスタンと大切な話がある」
「しかし、今は休んだほうが」
「拒むなら、お前がしたことを父上に報告する。良いのだな?」
クロエの問いかけにトリスタンは一瞬言葉を詰まらせ、探るように見つめ返してきた。
「突然記憶が増えてひどい頭痛がしたはずです。本当に、体は大丈夫なのですか?」
「ああ、問題ない。むしろ、こんなわけのわからない状態は早く脱してしまいたい」
「……わかりました。ダミアン、悪いが今日は行けないと城へ遣いに行ってくれないか」
観念したようにトリスタンが頷き、従僕のダミアンに申し付ける。
ダミアンは意外そうな様子で了承し、その場を後にした。
怪訝な顔をする侍女に見守られる中、二人は再び席に着いて防音の魔法を発動させる。
「さて、まずは状況の確認と行こうか」
クロエはそう切り出したが、何の魔法が使われて今の状況になったのか察しはついていた。
時戻しの禁術。
それは術者の命と引き換えに発動する、マグノリアの血統魔法の奥義だ。
クロエたちが普段使う血統魔法は、数秒程度の先読みをしたり、物体の時間をほんの少し遅くしたり早くしたり、使いこなせば便利ではあるが基本的には地味な効果ばかりだ。
その中で最大の例外が、時戻しの魔法。
マグノリアの血族が専用の魔道具に命をささげることで、時間を遡る魔法だ。
元の時間軸で術者は必ず命を落とし、巻き戻った後も何らかの代償を支払う上に、歴史を改変しかねないことから現在は禁忌の術に指定されている。
今の状況は、この禁じられた魔法が使われたとしか考えられなかった。
腑に落ちないのは、クロエに時戻しの魔法を使った自覚がないことだ。
時戻しの魔道具は城で厳重に管理されており、公爵家の当主と国王の承認を得たときのみ取り出すことができる。
魔法卿の後継者であるクロエでさえその存在は話に伝え聞くだけで、現物を見たこともなかった。
「トリスタン、あなたは私が鉱血病を発症すると知って時戻しの魔法を使い、助命のためレオノール殿下に取り入ろうとして失敗した。間違いないか?」
クロエとしてはただの前提確認に過ぎない質問だったが、聞かれたトリスタンは驚きに目を見張った。
「俺はあの女の懐柔に失敗、したのですか……?」
この反応はどうもレオノールに侍ったことが後ろめたいとか誤魔化したいとかではなく、素で驚いている。長年の付き合いから看破したクロエは首を傾げた。
「覚えていないのか?いや、回帰前の記憶が私にあるということは、余人が覚えていないのも当然か。でも記憶が増えて頭痛がすることは知っていた……?」
半分独り言のように思考をはじめたクロエに、トリスタンが焦った声をかける。
「待ってください、クロエ様。あなたは回帰前にいったい何を見たのですか!?」
狼狽するトリスタンがあまりにも必死な様子だったので、クロエはひとまず疑問を後回しにして質問に答えてやった。
トリスタンが家族の反対を押し切ってレオノールの近衛魔術師に着任したこと、社交界での王女との親密な様子、そしてクロエが死んだと思われる日のやり取り。
話を聞くごとにトリスタンの顔は青ざめ、表情が消え失せ、やがて紫色の瞳にクロエではない誰かへの憎悪が燃え出した。
「……なんだ、それは。その俺は百回ほど苦しみぬいて死ぬべきでは。俺は、またあなたを守れなかったのか……!」
髪をかきむしり、自らを罵倒するトリスタンの隣に移動したクロエは、彼の手にそっと自分の手を重ねた。
「トリスタン。あの日のあなたは殿下から侍女をかばってくれたし、治療の催促ばかりしていた。あなたなりに私を守ろうとしてくれたことは、もうわかっている」
「クロエ様はお優しすぎます!不貞をしてあなたを傷つけたクズのことなど、憎んで、罵倒して当然でしょう!!」
「……それは私だって、寄り添いあうあなたたちを遠目に見て、まったく傷つかなかったと言えば噓になる」
クロエは束の間目を閉じて、当時のことを振り返った。
「たぶん、あなたがレオノール殿下を心から恋い慕って私を貶めでもしていたら、泣いてすがられようが婚約破棄をたたきつけてぶん殴ってやったと思うが」
「今からでもそうすべきでは。むしろぶん殴るだけで済ませてよい罪業ではない気が」
トリスタンのツッコミに、クロエは首を横に振って目を開けた。
「公爵家の娘としては婚約者のすげ替えが正解だろうけど、できなかった。殿下に侍るあなたはちっとも楽しそうに見えなかったから」
レオノールの隣にいたトリスタンは穏やかに微笑んでいるようで、まったく目が笑っていなかった。
「だから一連の行動にも何か理由があるのだろうと、話してくれるまで待っていようと思ったのに。あなたはとうとう死ぬまで真意を話してくれなかったな?」
クロエはにこりと微笑み、トリスタンの手に添えていた指を逃がさないとばかりにきつく握りしめた。
「私はあなたを恨んではいないが、怒ってはいるのだよ、トリスタン。今度こそ全部説明してもらうぞ?」
婚約者の鬼気迫る笑みに逃げられないと悟ったらしいトリスタンは、ためらいがちに話し始めた。
どうでもいいんですが先見の魔女さんと国の名前を両方マグノリアにしてしまったせいで、どちらのことなのか簡潔に表現するのが難しい。
ネーミングセンスがないので名づけで後悔することがよくあります。




