朝の鍛錬
窓から差し込む日の光でトリスタンは目を覚ました。眩しさに少しだけ顔をしかめ、もぞもぞと起き上がる。
久々に夢も見ず眠ったので頭はすっきりしていたが、寝台の上に自分一人しかいないと気づいてうろたえた。
「クロエ様……?」
刷り込みされた雛鳥のように視線を彷徨わせたトリスタンは、外から聞こえた掛け声につられて窓へ駆け寄った。
早朝の瀟洒な庭園の真ん中で、クロエが鞭を振り回している。
トリスタンは急ぎ足で客間に戻り、まだ寝ている父親を起こさないよう手早く身支度を整えた。
部屋付きの侍従に頼んで庭へ案内してもらうと、クロエは大ぶりの枝に吊るした的へ向かって鞭を振っていた。
彼女が身に着けているのは乗馬服に似た運動着で、手にしているのは魔力の注ぎ方で刀身を剣のように固く鋭くできる魔力鞭だ。クロエお気に入りの護身具である。
女性としては長身ですらりとしたクロエが、不規則に揺れる的を過たず打ち払う姿は凛々しい女騎士のようだ。
均整の取れた伸びやかな手足も、無造作にまとめられた髪さえも美しい、トリスタンの女神様。
声をかけるのも忘れて見とれていると、クロエの方が気づいて駆け寄ってきた。
「おはよう、トリスタン。ぐっすり眠れたみたいだな。隈がだいぶ薄くなっている」
トリスタンの顔を覗き込み、満足そうに頷くクロエ。
「おはようございます。朝から武芸の鍛錬とは珍しいですね」
クロエは現王家の血こそ持たないが、本来ならば彼女こそ次代の女王でもおかしくない、やんごとなきお姫様だ。武術の鍛錬など二の次でよいはずである。
不思議がっているトリスタンにクロエはいたずらっぽい笑みを浮かべ、侍従や警護を憚って小声で囁いた。
「暗殺者が私の命を狙うかもしれんのだろう?太刀打ちできるように鍛えなおしている」
「クロエ様。お転婆はほどほどになさってください」
「そこは、俺が守りますとは言ってくれないのかい?」
「俺があなたを守るなんて、当たり前ですよ。……現実問題として、俺の身体能力でどこまでお役に立てるかわかりませんが」
悲しいかな、運動神経に関してはトリスタンよりクロエの方に軍配が上がる。
幼いころレオノールに番犬をけしかけられて転び、木に登ろうとしてずり落ち、何とか登り切ったと思ったら降りられなくなり、毎回クロエに助けてもらってきたのがトリスタンだ。
「私だって、身体強化の魔法を使わなければ大して動けないよ。あなたも使ってみればいいのに」
「先代公爵閣下がウッズワード地方へご旅行の際に、現地の領主殿と意気投合して教えてもらった魔法、でしたっけ?体へ直に魔力を流すって、加減を間違えると手足が吹き飛びそうですが」
「確かに制御に気を遣うけど、注ぐ魔力を絞れば難易度は下がるぞ。惜しいな、トリスタンの魔力を全部身体強化につぎ込めば、だれにも負けない戦士になれそうなのに」
「どれだけ精密な制御になるんですか。そんなことを実行に移すような輩がいたとしたら、頭おかしいですよ」
コップに水を満たすのに、水差しから注ぐか樽から注ぐか、どちらの難易度が高いかといえば当然後者だ。
同じように、魔力は大きくなればなるほど制御の難易度が跳ね上がる。
それに加えて身体強化の魔法を使いこなすには、魔力制御の才能と同じくらい天性の運動神経も必要だ。
運動音痴のトリスタンには絶望的に相性の悪い魔法だった。
しかし、今はそんなことも言っていられないかとトリスタンは思い直す。
「いや、クロエ様を守るためなら腕の一つや二つ……」
「待て待て、冗談だ。あなたのすごいところは明晰な頭脳と魔法の才能だもの。盤上遊戯だって負けなしじゃないか」
クロエとて魔法の研究者である以上、決して頭が悪いということはない。しかし、運の絡まない頭脳系のゲームでトリスタンに勝てたためしがなかった。
「クロエ様は定石を理解した上で、直情的だから手が読みやすいのですよ。ルールを把握しきれていない初心者のほうがやり辛いこともあります」
「それ、私が初心者以下だって言ってない?」
トリスタンが笑って誤魔化すと、もうっ、と背中を向けるクロエ。そんな彼女も可愛くて愛おしくてたまらなかった。
「クロエ様」
「何だ?」
ちょっぴり拗ねたように振り返ったクロエを抱きしめ、海のような色をした滑らかな髪に頬を寄せる。
「今度こそ、必ずあなたを守ります」
腕の中に納まったクロエが、珍しく照れたように俯いた。
「ありがとう。……なんだか少し吹っ切れた?」
「俺があなたにしてしまったことを許せる日は一生来ないだろうけれど、メソメソしていたって事態は好転しませんから。クロエ様のそばにいる資格だとか、婚約を破棄すべきだとか、あなたを守るのに余計な悩みは一旦脇に置いておくことにしました」
どんなに絶望して最悪な夜だと思っていても、よく眠って朝が来てしまえば案外、戦うエネルギーはわいてくるものだ。開き直ったともいう。
クロエがにっこり笑って、トリスタンを見上げた。
「それでこそ私の夫になる人だ。……今日は一度リシャール家に戻って、城に出勤するのだっけ?」
「業務内容に関しては、大変不本意ではありますが」
今日もレオノールと顔を合わせなければならないことを思ってげんなりしていると、クロエが空いたほうの手でトリスタンの髪をよしよしとかき回した。
それからトリスタンは父親と一緒に公爵家で朝食を馳走になり、一旦家に帰ってきた。
トリスタンの主観では、一族の虐殺事件から時を戻ってきたのは五日前のことである。
そのあとすぐにレオノールの懐に潜り込むべく近衛魔術師の打診を受け、手続きを進める間はほとんど登城していたので、家に帰ってくるのは本当に久しぶりだった。
父に続いておっかなびっくり玄関に入ると、顔なじみの使用人たちが出迎えてくれる中、ホールの奥からぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。
「お父様、ちぃ兄さま、おかえりなさい!」
耳の垂れたウサギのような二つ結びを揺らして飛びついてきたのは、妹のミラだ。トリスタンの顔を見て輝くような笑顔を見せたミラは、はっと我に返ったように頬を膨らませる。
「急にクロエ姉さまのところにお泊りだなんて、兄さまたちだけずるいわ!それに、王女様の護衛を引き受けちゃうなんて、わたし、怒っているんだから」
「……ごめん」
ミラの前に膝をついて、トリスタンは妹を抱きしめた。妹の顔を見ると、虐殺の時守ってやれなかった申し訳なさで泣き出してしまいそうだった。
「ごめん、ごめんな、ミラ……」
「……?ちぃ兄さま、どうしたの?おなか痛いの?それとも、わたし、怒りすぎた?あ、あのね、大丈夫よ、本当はそんなに怒ってないわ!」
ミラが困ったように父親を見上げると、ラザロは優しく末娘の頭を撫でた。
「ミラのせいではないよ。トリスタンは……少し、辛いことがあったんだ」
「そうなの?」
ミラの小さな手がよしよしとトリスタンの背中をさする。子供特有の暖かな手の感触にトリスタンが動けないでいると、ほかの家族も玄関にやってきた。
「あらあら、お帰りなさい」
「おぅ、お帰り!親父が公爵閣下に呼び出されるなんて、何やったんだよトリスタン?」
おっとりした母の声と、兄ルイのからかうような問いかけに、トリスタンは顔を上げた。弟妹に似て端正な顔立ちで、ちょっぴり軽薄な雰囲気の長兄ルイは、弟の顔を見るなり真顔になる。
「トリスタン、お前……なんか無理してねぇか?王女サマの護衛になったって聞いたけど、脅されたとかじゃねぇよな?」
「えっ、そうなの、大兄さま!?ちぃ兄さま、大丈夫?」
心配そうな兄妹の声に、トリスタンはゆるゆると首を振って立ち上がった。
「大丈夫。自分で決めたことだから。二人ともありがとう」
トリスタンの最愛はクロエだけども、だからと言って他の人間がどうでもいいわけではない。
大切な家族も、よくしてくれた親族たちも、裏切り者以外は誰一人失うまいと改めて心に誓ったトリスタンだった。
元ネタがシルフィーネのせいか、魔法使いのくせに思考回路が脳筋になりがちクロエ様。
そしてどこぞの聖女限界オタが過去(今作)でも未来(前作)でも頭おかしいやつ呼ばわりされている件。
アレク「婚約者を救いたい一心で何度も自殺した挙句、魔王と合体した人に頭おかしいとか言われたくないんですけど!?」
クロエ「トリスタンの悪口はそこまでにしてもらおう!自分だってステラ嬢のためなら死を選ぶくせに」
アレク「うっ……なにも、言えない……」
ところでトリスタンの一人称が俺なのは、少しでもクロエを守れる強い男になるためです。
形から入る男、トリスタン。
これで頭脳明晰って無理がない?というムーブをやらかしがちな彼ですが。
小さいころから苦労してきたアレクサンダーやアーサーと違って、十七歳で鉱血病を発症するまでは家族にも環境にも婚約者にも超恵まれた箱入りお坊ちゃんだったので、いろいろ詰めが甘いのもしょうがない部分はある。




