萌葱色の証
「癌です」
医者は淡々と言った。
「ガ、ガ〜ン」
思わず口から出た言葉に、医者は眉をひそめた。
「ふざけないで下さい」
怒られた。
でも、笑うしかなかった。
34歳。
彼女に振られて、仕事をクビになって、親からは「しばらく連絡してくるな」と言われた。
そんな俺に、癌。余命三年。
はは。呪われてる。
「はぁ」
病院を出たあと、空を見上げた。
青くて、綺麗で、暑くて、腹が立った。
「もういい」
生きる理由なんて、もうどこにもなかった。
俺は車で海岸へ向かった。
♦︎
崖には先客がいた。
小さな背中。
真夏なのに厚着。
萌葱色の防災頭巾。
「ん?・・・」
近づくと、それは女の子だった。
小学校低学年くらいだろうか。
服装は古く、昔、資料館で見た戦時中の写真から抜け出してきたみたいだった。
腕も足も、体中が傷だらけで、ところどころ血が滲んでいる。
「君・・・だ、大丈夫?」
声をかけると、女の子はふらりとこちらを振り向いた。
「熱いよ・・・熱い・・・」
虚ろな目で、空を見上げる。
「あれ?ここはどこ・・・ママは?パパは?」
胸が締めつけられた。
「君、お名前は?」
「鈴菜」
「鈴菜ちゃんはどこから来たの?」
女の子は首をかしげた。分からないらしい。
季節外れの服。萌葱色の防災頭巾。戦時中みたいなボロボロの服。
枯れ枝のように痩せ細った体。
火傷のような傷。
周りには映画の撮影と思わしき人影や機材は一つもない。
どう見たって普通じゃない。
嫌な予感がした。
♦︎
病院に連れて行った。
癌と告げられてガ〜ンと言った病院ではない病院へ。
だが、医者も看護師も、誰一人として女の子を見ようとしなかった。
「誰も、いないですよ?」
その一言で、すべてを悟った。
ああ。そういうことか。
この子は、もう生きていない。
なのに、俺には見える。触れられる。
どうして俺だけなのかは、分からない。
それでも、俺は彼女を放っておけなかった。
死んでもなお、パパとママを探し続けているこの子を。
どうしても見捨てるなんてできなかった。
♦︎
俺は図書館に行って包帯の巻き方を本で調べた。
消毒の仕方も、栄養のある食事も。
「痛い?」
そう尋ねると、女の子は小さく首を振った。
「おじちゃん優しいね」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
誰かのために、こんなに必死になる日が来るなんて。
死ぬことしか考えていなかった俺が。
俺はまだ、生きてるんだ。
♦︎
女の子は、俺の部屋の隅で小さく膝を抱えていた。
「寒い?」
そう聞くと、少しだけ首を振る。
「大丈夫。爆弾の時より、寒くない」
さらっと出たその言葉に、手が止まった。
「爆弾?」
女の子はきょとんとした顔で俺を見上げる。
「うん。ドーンってなって、熱くて、いっぱい音がして・・・びっくりしてママの手、離しちゃった」
淡々と語る声。
悲鳴も、泣き声もない。
それが逆に、胸に刺さった。
「そっか」
それ以上、何も言えなかった。
戦争のことを何も知らない俺が口を挟むのは憚られた。
♦︎
その日から、奇妙な共同生活が始まった。
朝、俺が目を覚ますと、女の子は決まって窓の前に立っていた。
外を見ているようで、実際には見えていない。
「誰か来る?」
「ううん」
それでも、毎朝そこに立つ。
包帯を替えるたび、傷は少しずつ薄くなっていった。
火傷のただれは、赤みを残すだけになり、血も滲まなくなった。
一方で、俺は息切れが増えた。
階段を上るだけで、頭がくらくらする。
「はぁ」
ソファに腰を落とすと、女の子がこちらを覗き込んだ。
「おじちゃん、顔、白い」
「はは、歳かな」
誤魔化して笑うと、女の子は少し考え込むような顔をした。
「ねえ」
「ん?」
「おじちゃんも、どこか痛いの?」
一瞬、答えに詰まった。
「ちょっとだけな」
「そっか」
女の子はそう言って、自分の防災頭巾をぎゅっと握った。
「じゃあ、一緒だね」
その言葉は重かった。
♦︎
夜。
電気を消して布団を敷き、俺は横になった。
女の子も隣で横になる。
「ねえ、おじちゃん」
「うん?」
「ママね、赤いのは危ないからって、この色にしたの」
女の子が防災頭巾を撫でる。
「そうなんだ」
「うん。目立たないからって。本当は赤色が好きだったんだけどね。」
鈴菜が少しおちゃらけた言い方をする。
そんな鈴菜の姿に胸が締め付けられた。
「それでね。はぐれたら、この頭巾をかぶって、ここで待ってなさいって」
女の子は、きゅっと唇を噛んだ。
「でもね、ママ、来なかった」
そう。来られなかったのだ。
俺は布団の中で拳を握りしめた。
「今まで、ずっと、待ってたのか?」
「うん」
何年も。何十年も。
この子は、帰る場所を信じて、ここに留まっていたのか?
その夜、俺は眠れなかった。
自分の命が少しずつ削れていく中で。
♦︎
数日後、再検査の結果が出た。
「進行していますね」
医者の声は、相変わらず淡々としていた。
「三年、持たない可能性もあります」
診察室を出た時、足が震えた。
帰ると、女の子が待っていた。
「おかえり」
その一言で、なぜか泣きそうになった。
「おじちゃん大丈夫?」
「うん・・・」
「一緒に、帰ろう?」
ああ、何てこの子は優しい子なんだ。
♦︎
その日、
女の子は朝から窓の前に立たず、畳の上に正座していた。
背筋が伸びていて、まるで誰かを待つ準備をしているみたいだった。
「どうした?」
「おじちゃん、最近、苦しそう」
誤魔化そうとしたが、もう無理だった。
肺の奥が焼けるように痛み、咳が止まらない。
「死んだように生きてきたツケが回ってきたのかも、な。」
俺がそう呟くと、鈴菜は首を横に振った。
「そんなことないよ」
「え?」
「だって、おじちゃんは一生懸命生きてる」
その言葉に、また涙が滲んだ。
♦︎
その夜、俺は高熱を出した。
視界が揺れ、意識が途切れそうになる。
気づくと、鈴菜が布団のそばにいた。
「大丈夫。ここにいるよ」
その声は、もう子どもではなかった。
優しくて、穏やかで、どこか母親のようだった。
「鈴菜」
呼ぶと、彼女は萌葱色の防災頭巾を脱いだ。
そこにいたのは、可愛いらしいおかっぱ頭の、傷一つない少女だった。
火傷も、痣も、血も、すべて消えている。
「もう、熱くないよ」
「良かった」
「ねえ、おじちゃん」
鈴菜は、萌葱色の防災頭巾を両手で包み込むように持った。
「私ね、ずっと待ってたけど・・・
待つの、終わりにしていいんだって、分かった」
「どうして?」
「おじちゃんが、私と一緒に“生きて”くれたから」
胸が、張り裂けそうだった。
♦︎
部屋が、やわらかい光に包まれた。
鈴菜の後ろに、影が二つ現れる。
優しく手を伸ばす、大人の影。
「ママ」
鈴菜ちゃんは俺の前で初めて泣いた。
「パパ」
振り返って、俺を見るとニコッと笑った。
そうか。これでお別れか。
「おじちゃん」
「うん?」
「ありがとう」
鈴菜は、防災頭巾を床に置いた。
「あげる」
光の中で、彼女は手を振った。
「おじちゃんも、もう大丈夫だよ」
そう告げると、鈴菜は光と一緒に消えていった。
♦︎
気がつくと、朝だった。
部屋には、誰もいない。
ただ、畳の上に
萌葱色の防災頭巾だけが、残されていた。
震える手で、それを拾う。
まだ、ほんのり温かかった。
♦︎
数日後、病院のベッドで、窓を見ていた。
医者が言った。
「不思議ですね。進行が、止まっています。」
俺は、微笑んだ。
「そうですか」
♦︎
帰宅。
枕元には、折りたたんだ萌葱色の防災頭巾。
これは、彼女がここで生きた証だ。
それにそっと触れる。
俺は、今日も生きている。




