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覚醒 ドアマット夫人  作者: バラモンジン


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後編 エレナの覚醒


※以下、ネタバレです。






【ネタバレ】執事と結ばれます。許せないと思う方は、お戻りいただけると幸いです。



「あの、つまり、どういうことでしょう」


 エレナは混乱していた。


 リスキン家の玄関ホールで、もうどうとでもなれと、誰かに身体を託して、意識を閉ざしたはずだった。


「吉川さんは、駅の階段で人にぶつかられて転がり落ちたんです。覚えていませんか。救急車で病院に運ばれてきたんですよ。身元を確認するためにバッグの中を見たら、会社の名刺が入っていましたので、とりあえずそちらに連絡してあります」


 一気に言われたが、頭の処理が追いつかない。

 私はエレナだ。でも、この身体の持ち主である吉川成美の記憶もある。

 高校を出てから勤務7年目の会社を辞めることになったが、引継ぎも退職手続きもまだだから、名刺も持っていた。それで会社に連絡が行ってしまった。『最後に腹いせのつもりか』などと部長に言われそうで、今から気が滅入る。とりあえず職場の同僚に、無事なことと、引継ぎのために明日も出社することをメールで伝えた。


 ここに至って、ふと思う。自分はエレナなのに、吉川成美であることにも違和感がない。


 このまま吉川成美として仕事をして生きていくこともできるかもしれない。知識はある。身体も自然に動く。携帯などという信じられないくらい便利なものも、先ほど連絡のために使っていた。仕事の内容も覚えている。

 だけど、逃げ出した私エレナが、いつも応援してくれていた吉川成美に成り代わって、こちらでのうのうと生きていて良いのだろうか。彼女にエレナの人生を押し付けて、ここにいていいのだろうか。


 そう思うのに、向こうの世界の自分の身体に戻る方法が分からない。どうする? 

 いつかまた何かのきっかけで、エレナの中に戻れるとしたら、彼女も吉川成美として戻って来れるのだろうか。ならば戻ってきた時に、彼女が不幸でないようにしないといけない。とにかく生きよう。人から預かった人生を、台無しにしないよう頑張ってみよう。



 翌朝、私エレナは、吉川成美として会社に向かった。


「吉川さん、おはよう。大変だったよね、大丈夫だった?もう出てきていいの?駅の階段から落ちたんだって?部長から急にあんな理不尽なこと言われたら動揺するよね。先のこと考えたら注意も散漫になるってものよ。ホント、無事で良かったわ。ところで、その部長なんだけど、吉川さんを辞めさせるっていうの、部長の独断だったみたいよ。お気に入りのシンママの金森さんの気を引きたいばっかりに、吉川さんを切って、金森さんを残そうとしたみたい。俺に任せとけとか言ってるのを給湯室の陰から聞いちゃった。そのことがバレて、今、上に呼ばれてる。何らかの処分が下るんじゃない」


 ここまで一気に畳みかけられる間、エレナは言葉を挟むことができなかった。


「ということは、つまり」


「吉川さんは辞めなくてよくなったってこと。当然じゃない。なんで真面目で仕事のできる吉川さんを辞めさせようと思ったのか、意味分からないわよ。自分の首も絞めることになるでしょうに」


「金森さんは?女手一つでお子さんを育てているのに、仕事を失って大丈夫なの?」


「そこは吉川さんが心配することじゃないでしょう。それに、彼女、再婚が決まっているみたいよ。その人の転勤について行くらしいから、どの道ここは辞めることになってたの。それをあの部長がスケベ心を出しちゃってさあ」

 

「なるほど」


「なによ、反応薄いわね。頭も打った?安静にしてなくて良かったの?」


「うん、今日はね、どうしたら引継ぎを効率的に済ませられるかで頭がいっぱいだったから、ちょっと気が抜けちゃって」


「そりゃそうか。何はともあれ、いつも通り働きますか。具合悪くなったら、遠慮せずにすぐに言うのよ」


 周りで聞いていた同僚たちからも、散々労われて、なんとか吉川成美としての日常がスタートした。


 エレナは、吉川成美の仕事内容に目を回しそうになった。

 パソコンでメールをチェックする。返事が必要なものには返事をする。資料を作る。会議に出席する。外回りのスタッフさんの動向を確認する。そのほかにも細切れに仕事が舞い込んでくる。それを丁寧に裁きながら、エレナは、これは誰の意思で動いているのだろうと不思議に思った。エレナの意識は確かにあって、真正面から対象物を見ているのに、これが100%自分だと思えない。中から見学しているみたいに思える。本当は吉川成美が、この仕事をしているのだろうか。

 分からなくなってきた。


 そんなふうに疑問を抱きつつ、エレナは吉川成美として三週間を過ごした。

 会社の概要も、多岐に渡る業務のあれこれも、同僚や顧客とのやりとりも、エレナには新しい発見だらけだった。なのにすべて知識として元々あるという矛盾をあえて見過ごして、エレナは働く面白さに目覚めつつあった。


 そんなある日、エレナの中に懐かしい声が響いた。


『エレナ、聞こえる~』



  ◇    ◇    ◇



 リスキン侯爵家の応接間。

 吉川成美がエレナに成り代わって使用人に反撃を開始して三週間が過ぎていた。


 エレナである私と、老齢の上品な御夫人が向かい合って座っている。執事のアルバーノは、紅茶を入れた後、私の斜め後ろに立って控えた。


「久しぶりね、エレナちゃん」


「ご無沙汰しております、ミスドのおば様」


「まあ、懐かしいわね、その呼び方。会わなくなって六年にもなるのかしら。ホントにあのダンスキン家の連中ときたら忌々しい。きちんと養育できないなら手元に連れ戻すんじゃないわよ。その上こんなリスキン家に持参金も無しで送り出すなんて」


 ミスドーナ侯爵夫人は、拳を握りしめながら息巻いた。


「こんなリスキン家を、これから立て直すのは俺なんですが」


 アルバーノが、祖母であるミスドーナ夫人にうんざりしたように言った。


「あらまあ、無事立て直したら、あなたに爵位が回って来るんじゃないのかしら。そうしたらエレナちゃんと結婚できるってことでしょう?張り切らざるを得ないわね」


「簡単に言いますがね、帳簿を調べて分かりました。ほとんど破産状態ですよ。唯一救いなのは、借金はあるものの、質の悪い高利貸しからは借りていないことですね。あと、前の執事と元代官からどれだけ取り返せるか分かりませんが、それなりの対処はしています」


「あの、アルバーノさんは、こんな侯爵家を立て直す使命のほかに、私という不良債権までも引き受けなくてはならないなんて、気の毒過ぎませんか?」


「エレナちゃんがアルバーノと一緒になるのが嫌なら、うちに養子に来る?ダンスキン伯爵家に文句なんか言わせないわ。そもそも無一文で家を追い出しているんだから」


「待ってください、エレナ様はリスキン家の奥様ですよ。横槍をいれないでください」


「はいはい。可愛いエレナちゃんのために、大嫌いな数字とにらめっこしてるんですもんね」


「余計なことは言わなくていいです」


「とにかく、立て直すなら、ちまちま取り戻したり倹約したりしても追いつかないでしょう。なにか事業を起こしなさいな。計画に賛同できれば私個人の資産から融資するわ。考えなさい、二人の将来のために」


「アルバーノさんは、それでいいんですか」


「ええ、構いません」


 横を向いたアルバーノの耳が赤い。ひょっとして、昔からエレナのことを憎からず想っていたのだろうか。だとしたら、いつまでも私がエレナでいてはいけないのでは?


 それにしても、エレナの記憶からアルバーノのことがそっくり抜け落ちているのが気になる。単純に幼かったかせいで覚えていないのか、覚えているのがつらくてわざと消したのか。私はエレナの幸せだった頃を見ていないから分からない。

 たまに領地に来る家族から酷い言葉を浴びせられているのは見た。タウンハウスに引き取られてからは、使用人扱いだった。嫁いでみれば針の筵。そんな場面ばかり目撃して、私は一生懸命に励ましていたのだ。


 はたして、エレナがここに戻って、幸せになれるのだろうか。アルバーノが侯爵になったとして、エレナはそれを受け入れられるのか。分からない。

 ならば、まずはエレナに確認だ。この身体の奥底にいるのなら、なんとしても意思を確認しなくては。

 もしも、二度と戻りたくないというのなら、その時は私が引き受けよう。だから。


『エレナ、聞こえる~』


 心の中で叫ぶ。



 ゆら。


 腹の底の内側の、どこか遠くから、微かな気配がした。



「さあ、私はひとまず帰るわね。アルバーノ、エレナちゃんと二人で、リスキン家を建て直す話し合いをなさい。エレナちゃんを蚊帳の外に置いたら、役立たずのレッテルを貼られるから、とにかく話に交えなさい。知識と立場がエレナちゃんを強くするから。良いわね、一人でスマートに決めようなんてことを考えるんじゃないわよ」


 ミスドーナ侯爵夫人は、そう言って帰って行った。



「アルバーノさん、ミスドのおば様は、ああおっしゃっていたけど、事業のアイディアは何かあるの?」


「いえ、まだそこまでは。これからです。エレナ様はどうですか」


「そうね、少し考える時間をちょうだい」


 私はそう言って自室に戻った。



 私はエレナのベッドに横たわり、静かに彼女に話しかけた。先ほどの微かな揺らぎを、呼びかけに対する応答だと受け止めて、現状を知ってもらおう。


『エレナの仇は討ったよ。あの侍女長とエレナを殴ったメイドたちは辞めさせたからね。ほかの使用人は多分もう何もしてこないはず。今後はエレナが人事を握ればいいから。ミスドーナ侯爵家から派遣された侍女に、家政の基礎を習っているところなの。細かいことは執事と相談しながらでいいと思う』


『そうだ、大事なこと忘れてた。エレナは昔のアルバーノを覚えている?』


 もそ。


 居心地悪そうに何かがうごめいた。やっぱり聞こえているんだね、エレナ。


 私は、アルバーノとミスドーナ侯爵夫人から聞いたことをエレナに話して聞かせた。


『それで、アルバーノが無事にリスキン家を立て直したら、アルバーノに爵位が譲られる公算大なんだって。そうしたらエレナの結婚相手はアルバーノになる。もしアルバーノと結婚するのが嫌なら、ミスドのおば様が力業使ってでも、エレナをミスドーナ侯爵家に養子に迎えてくれるって言ってる』


 そわ。


 動きが怯えているようには思えない。むしろ、浮足立ってるようにも感じる。


『ね、これはチャンスよ、エレナ。リスキン侯爵夫人として、もう一度やり直すチャンス。使用人なんかに邪魔させない。元凶は叩き出したし、アルバーノはエレナのために嫌いな計算やら書類仕事も頑張っている。どうかな。覚悟を決めてみない?』


『私がエレナとしてアルバーノと結婚するのは、さすがに気まず過ぎるんだよね。だって私は、アルバーノが望むエレナじゃないし。それに、私の人生はもう終わっているはず。だから、これからはエレナの中で、もっと親身に応援できるよ』


『それとね、今のリスキン家は相当借金あるから、ちょっとやそっとじゃ立て直せそうにないの。ミスドのおば様が、事業を始めるなら融資してくださるんですって。計画がお眼鏡に適えばだけど。エレナとアルバーノの二人で考えなさいって。そしてエレナの立場を盤石にしなさいってことね。どう?アルバーノと一緒に頑張ってみる気、ない?』




  ◇    ◇




 ドキン、ドキン


 エレナの心臓が早鐘を打つ。

 吉川成美からの言葉が信じられない。


 そんな夢みたいな話があるだろうか。ミスドーナ侯爵家子息のアルバーノが、リスキン侯爵になるかもしれないなんて。エレナと二人でリスキン家を建て直すことを期待されているなんて。

 

 やってみたい。吉川成美の生活をほんの少し肩代わりさせてもらって、外で働くという体験をした。領地にいる頃は、羊の世話だって、家事だって、庭仕事だってやってきた。ダンスキン家のタウンハウスでだって、エレナは仕事をしてきた。何もできない奥様なんかじゃない。エレナにだって、できることはあるはずだ。アルバーノとなら、頑張ってみたい。


 あの日、エレナがリスキン家を初めて訪れた時、迎えに出たのはアルバーノだった。

 見られたくなかった。実家から追い出されるようにリスキン家に差し出されたみじめな姿など。

 見知らぬ誰かと愛も信頼もなく結婚する姿など。


 だからエレナは、思い出の中のアルバーノの姿をどこか奥底に隠して、なかったことにした。この人は知らない人。そう自分に言い聞かせることで、エレナは自分の幼い初恋に別れを告げたのだ。



「吉川さん?」


「はい?」


 同僚に呼ばれているのに気付かなかった。

 吉川成美からの問いかけに没頭していて、しばらく固まっていたようだ。


「どうしたの?終業時間とっくに過ぎてるよ。残業していくの?」


「あっ、いえ、ちょっとぼんやりしていて」


「大丈夫?最近仕事が立て込んでいたよね。疲れすぎてまた階段から落ちないようにね」


「ありがとう。気をつけるわ」


 吉川成美であるエレナは急いで帰宅した。


 

 ベッドに横たわり、吉川成美から聞いた話を頭の中でゆっくり再生する。

 同時に、封印していたアルバーノの記憶を少しずつ解放していく。



 気候も穏やかなダンスキン家の領地の初夏。

 厚ぼったい羊たちが次々と毛を刈られ、寒々しいような清々しいような姿で元気に走り出していく。

 それを農作業小屋から、祖母とミスドのおば様とアルバーノとエレナの四人で眺める。私はもっと近くで見たくてソワソワと近づいていくのだが、その度に危ないからとアルバーノに連れ戻された。あまりに繰り返すものだから、アルバーノと二人でぎりぎりまで近づいて眺めた。

 

 六つ年上のアルバーノは、エレナからみたらすごく大人で格好良く見えた。男の子なんて領地の子どもか、意地悪で気取った兄たちしか知らなかったので、仮にも侯爵家次男のアルバーノは、立ち居振る舞いからして別格だった。顔の美醜についての判断基準はまだ持っていなかったが、エレナに笑いかけてくれるというだけで好感が持てる顔だった。


 とはいえ、十二歳になると王立学園に通うため、アルバーノは領地を離れ王都に行ってしまった。長期休暇にミスドーナ侯爵家の領地に戻ることはあっても、ダンスキン家の領地に足を運ぶ理由もないので、エレナはそれ以降アルバーノに会っていなかった。なので、思い出と言っても、五、六歳の頃のほんの数日間の断片に過ぎない。その断片を、エレナは大事に仕舞っておいた。



 リスキン家でのアルバーノは、いつも無表情だった。

 共通の思い出などないかのように、エレナには目もくれず、せわしく動き回っていた。リスキン家の若奥様として認めてもらえていないのだと思った。だって、屋敷でのエレナの扱いの酷さに気付いてもくれないのだから。


 そう思っていたのに。


 アルバーノは自分を覚えていてくれた。

 おまけにリスキン家を立て直そうとしてくれている。

 ならば私も、堂々と隣に立てる自分でありたい。

 その道筋を吉川成美がつけてくれた。

 ここまでお膳立てされてしり込みするとかありえない。



 エレナは吉川成美として生活する中で、ネット小説を読むという楽しみを知った。細切れの時間でも楽しめる短編ばかり、あれこれと読んだ。


 その中で、家族の中で不当に冷遇され貶められるドアマット令嬢と呼ばれるものもいくつか読んだ。涙が止まらなかった。たくさんのエレナがその中にいた。もっと酷い扱いをされている人もいた。物語だから、そんなんじゃすぐに死んでしまうよというような虐待を受けている者もいた。けれど、最後には誰もかれも気持ちの良い逆転劇が待っていた。他人からもたらされるもの、見い出されるもの、己の知恵や才覚で、あるいは魔法で現状を打破するものなど、様々なパターンを見た。


 ああ、これか。

 吉川成美は、エレナをドアマット令嬢だと認識したのだ。そうして心から応援してくれていたのだ。どこでどう縁が繋がったのか分からないけれど、励ましてくれた彼女に応えたい。なにより私は自分を試してみたい。自分の力で幸せになれるかどうか。そして、応援した甲斐があったと、吉川成美に思ってほしい。


 こうしてエレナは覚悟を決めた。


 ドアマットを馬鹿にしないでね、踏みにじって良いものじゃないから、と。



  ◇    ◇



『エレナ、もしこちらに戻る気があるなら、強く心に念じて。たぶん私が何かしてもダメだと思う。私の身体じゃないから。あの日すべてを私に託して消えたけど、これはあなたの身体なの。お願い、目覚めて』


 吉川成美が訴えかけてくる。

 そして、彼女は誤解しているが、吉川成美の人生はまだ終わってない。階段を落ちた時に、吉川成美の意識がエレナの中に紛れ込んだだけだ。私がそちらに戻れば、彼女の意識は押し出されて、元の身体に戻れると思う。彼女のためにも、私はエレナに戻らないといけない。



 結果、エレナが自分の身体に戻るのに二日かかった。



  ◇    ◇



 目が覚めた時、懐かしい室内の様子に、エレナは自分の世界に戻ってきたことを実感した。

 頭の中に、自分が不在だった三週間の記憶がある。吉川成美がエレナとして過ごした日々だ。

 まずはこれを確認して、昨日までの私と連続した私でいなくてはならない。


 ベッドの中で心を落ち着けて、あの日玄関ドアの前で倒れた時からを早送りで思い出す。


「うそ・・・」


 吉川成美のエレナは強かった。そして、勇ましく、したたかだった。


 対する使用人たちは、情けなかった。

 エレナはこんな使用人たちに侮られていたのかと思うと悔しさが倍増した。


 その後、吉川成美のエレナは、執事のアルバーノのいる執務室に乗り込んで、堂々と問い詰めていた。


「え、私、今日からこのエレナをやるの?」


 怯みつつも、吉川成美のエレナを頼もしく見守る。そして、エレナを取り巻く現状を正確に理解した。


「これは心してエレナを演じないといけないわね」


 エレナは、吉川成美が築いてくれた侯爵夫人像を壊さないように、まずは背筋を伸ばしてはっきり話すことを心がけた。堂々と前を向いていれば自信があるように見えるだろう。最初は張りぼてでも、身につけてしまえば本物だ。


 朝食は、以前とは見違えるほどきちんとしたものが供された。ゆっくりと味わい、美味しかったわ、ありがとうと声をかけると、使用人たちは黙って礼をした。本当にあのリスキン家かと疑うほどだ。



 その日、エレナは屋敷中をゆっくり見て回った。一階から三階まで、個人で使用している部屋以外は全て室内も確認した。吉川成美の目で見た記憶はあったが、自分の目でリスキン家を確認し、侯爵夫人の自覚を持ちたかった。後ろに付き従う侍女は、エレナが何か粗探しでもしているではと不安げな顔でついてきた。


 すれ違う使用人たちは、エレナを見ると、すっと廊下の脇に寄って頭を下げた。不本意そうな顔もたまに見かけた。それも仕方がないと思う。まだこの家のためにエレナが成し遂げたことは何もないからだ。思い上がった侍女長とメイドを放逐しただけでは、いつかその矛先が自分に向かうかもしれないと心配になるのも無理はない。信頼を得るにはこれからの言動を見てもらうしかない。


 エレナは最後に、あの日倒れた玄関ホールにやってきた。


 玄関の内側にドアマットがある。

 リスキン家の紋章が織り込まれた品の良いデザインだ。あれがあったからこそ、エレナは硬い床に直接打ち付けられることなく、無事でいられたと思う。


 それにしても、あのドアマットは汚れ過ぎではないのかしら?外から帰ってきた靴で踏まれるから、汚れているのは仕方ないとしても、リスキン家の紋章が半分以上見えないほどというのはどうなのだろう。



「あの玄関ドアの前にあるマットは、いつクリーニングしたのかしら」


「あの、クリーニングとは何でしょうか」

 

 お付きの侍女に聞かれ、そんな言葉はこちらにないのだと思い出した。


「洗濯してキレイにするということよ」


「さあ、もう毎日あそこにあるものですから何とも。外で乾いた土ぼこりを叩き落すのは見たことがございますけれど」


「じゃあ、部屋の中にあるマットはどう?ドアマットだけじゃなくて暖炉の前とかにもあるでしょう?」


「掃除洗濯はメイドの仕事ですから、私は存じません」


「そう。分かったわ、ありがとう。これから執事のアルバーノのところに行きます。込み入った長い話になるから、ナタリーは他の仕事に回っていいわよ」


 この言葉にナタリーが怯えを見せた。


「あの、私何か粗相をしましたでしょうか。失礼な態度でしたか?」


「ああ、私がアルバーノのところに行くのは人事の話じゃないから安心して。そう軽々しく解雇したりしないから。ただ、今後のリスキン家についてずっと先まで見据えて方針を立てたいから、時間が長くかかりそうなの。その時間を拘束するのは悪いと思っただけよ」


「そうでしたか、分かりました。失礼いたします」


 ナタリーは礼をして去っていった。どうやら吉川成美のエレナはだいぶ恐れられていたようだ。



 執務室に辿りつき、エレナは久しぶりにアルバーノの前に立った。アルバーノにしてみれば昨日ぶりに過ぎないのだが。


 エレナはまっすぐアルバーノを見つめた。


「やってみたいことが見つかりました」


 エレナは中身が別人格であることを悟られないように、きわめて事務的な態度に徹することにした。


「昨日の今日でよく思いつきましたね。聞かせてください」


「まずは、ドアマットの復権です!」

 

 エレナは拳を握りしめ力強く宣言した。


「はい?」


 アルバーノの魂の抜けたような顔を見て、エレナは先を急ぎ過ぎたと反省した。


「玄関ホールにドアマットが敷いていあるのをご存知ですか」


「あ、ああ、もちろん。たいていの家にありますね。それが?」


「リスキン家の玄関マット、汚すぎると思いませんか?!せっかく紋章を織り込んだ特注品でしょうに、土汚れで判別できないほどだと気づいていましたか」


「いや、足元など気にしたこともないですね」


「それです。その無頓着。泥足で平気で踏みつける。ドアマットは靴の下で、土と雨水と埃と花粉とたまに犬のフンとか、あらゆるものをなすりつけられて汚れていくんです」


「まあ、そういう役目なのでしょう」


「ですが、汚れたままではダメです。逆に綺麗な靴が汚れてしまいます。乾けば土埃も花粉も犬のフンさえ、屋敷の中に広がるのです」


「定期的にキレイにしているのではないですか?」


「それであの汚れようですか。玄関は屋敷の顔ですよ。たとえ意識に上らないとしても、視覚の中に収められた玄関の印象の汚点になります。見ている人は見ているでしょう。この家がどれだけ清潔にこだわっているか、使用人が屋敷を美しく整えようとしているか、屋敷の女主人が細部にまで気を配れるのか」


「そこまででしょうか?」


「玄関と言う外部から来た人が必ず通る所もきれいにできないようでは、屋敷の中の見えないところなど推して知るべしというものです。玄関のマットだけではありません。各部屋のドアマットだって、ベッドから降りるところのラグだって、いったいどれだけ気にかけているでしょう。踏まれてなんぼ、じゃないんですよ。屋敷の品格を示し、生活の質を上げるアイテムなんです」


 エレナは、自分がドアマットとして踏みつけられ放題だった過去を思い出しながら、このドアマットでリスキン家の未来を切り開こうと考えていた。


 鼻息も荒く訴えるエレナに若干引きながら、アルバーノは先を促した。


「で、それをどう事業にするのです?」


「個人の屋敷では、せいぜい叩いて乾いた土埃を落としたり、水で流して乾かすくらいでしょう。厚さもあるしすぐには乾きません。室内のマットは、簡単に水洗いできる物は洗うでしょうけれど、これも乾くのに時間がかかります。そう頻繁に洗うものではありません。ウール製品などは気軽に洗えませんから、ブラシで埃を掻きだして、あとは水拭きと乾拭きが基本です。これらは日常の洗濯に取り入れるには重労働です。だから放っておかれるんですね」


「なるほど」


「そこで、それを事業として肩代わりできないかと考えたのです。品格を高める紋章入りの玄関マット、美しく保ちたいじゃないですか。複数用意してもらって定期的にきれいなものと取り換えに行くのです」


「それだけじゃ大した商いにならないのではないですか」


「そこで、室内の方のいろいろなマットを気分で替えてもらうようにレンタルするのです。部屋ごとの印象を変えるドアマット、足元の可愛いラグ、暖炉前の豪華なラグ、季節によって素材も変えて、カタログの中から選んでもらうのです。定期的に洗濯に取りに回り、次のマットと交換するのです。シンプルなマットなら玄関マットもそれで良いと思います。清潔感が大切です」


「よその屋敷で使ったものが回ってくるということですか?中古を見下す貴族は多いですよ」


「レンタルに関しては、伯爵以下の貴族を対象に考えています。見栄を張りたいし生活に潤いも欲しい、けれど先立つものが心細いというような家はたくさんあるでしょう。そういう家は、家の中のほかのことでも手が回らない状況にあると思うのです」


「つまり、高位貴族にはマット類の洗濯サービス、それ以下の家にはレンタルマットの提供をお勧めするということでしょうか」


「はい、ドアマット舐めるなよ、ドアマットに愛を!という気持ちで邁進する所存です!」


 力強く言い切ると、アルバーノは吹き出した。


「なんで一晩でそうなったの?」


「へ?」


 アルバーノが急に砕けた口調で聞いてきたので、エレナは素の自分が出そうになって慌てた。


『だめ、しっかりしなくては。プレゼンはまだこれから』


「急にひらめいたんです」


「それに、昨日までは私に対してもっと雑な態度でしたよ」


「え、そうだったかしら」


 エレナは焦った。そういえば記憶の中の吉川成美は、もっと女主人らしかったような気がする。殴りさえしていた。でも、今さらどうしよう。


「私を共同事業主として対等に接してくれたのかと思っていましたが、無意識でしたか。不思議ですね」


「そこは気にしないでいただけると助かります。事業の話をしているからだと思ってくだされば」


「まあ、いいでしょう。考えたのはそこまでですか」


「いえ、これを足掛かりとして、もう少し手を広げたいのです」


 エレナはそう言って、事業案の続きをアルバーノに説明した。


 一言で言えば、各種レンタルサービスだ。まだこの世界では、馬車の貸し出しくらいはあっても、高価で買えない物は貸し借りという形で遣り繰りしていた。騎士の鎧や装備などもそうだ。

 そうした貸し借りのシステムが確立しているものとは別に、一時的に欲しいものを一日単位で貸し出すサービスを立ち上げたい。提供するのは物品に限らず、人材やサービスも含むものだ。


 これはエレナが吉川成美の世界で携わっていた業務からヒントを得た。ヒントというか丸パクリだ。せっかくの異世界の知識、ありがたく使わせてもらおうとエレナは思った。



 それから数日間、エレナはアルバーノと共に新事業について検討した。


 洗濯工場の建設、職人の教育、配送サービスの方法、マットの開発。考えることはいくらでもあった。


 また、ドアマット以外のレンタル事業については、アルバーノが積極的に案を出した。見栄を張りたい貴族のために、陰から支援するサービスだ。こちらは一定の需要があるとアルバーノも踏んでいる。リスキン家は、財政の傾きと共に使用人の数も減り、先日は威張り腐った侍女長やメイドを解雇したことで人手が足りなくなった。そんなサービスがあったら依頼したいくらいなのだ。使用人を増やすことなく、単発で庭の手入れなどしてもらえれば安上がりで済む。



 こうしておおよその計画がまとまったところで、融資のお願いをするためにミスドーナ夫人をリスキン家に招いた。


「さあ、あなたたち二人の事業計画を聞かせてちょうだい」


 ミスドーナ夫人が挨拶もそこそこに、アルバーノに説明を促した。相変わらずせっかちなミスドのおば様を間近に見て、エレナは懐かしさに胸を震わせた。エレナの幸せだった時代の象徴のような人だったからだ。


「では、まず発案者のエレナ様からお願いします」


 アルバートに促され、エレナは語った。アルバートに説明した時のように、まずドアマット愛を炸裂させてミスドーナ夫人に笑われた。ドアマットが虐げられた令嬢を暗喩するものだと夫人も知っていたらしい。


「勇敢で頼もしいわね」


 ミスドーナ夫人は最後までニコニコしながら聞いた後、いくつかの問題点を挙げると同時に、願ってもない提案をしてくれた。


 問題点としては、巷の職業斡旋業者との軋轢をいかに防ぐか。そのサービスを真似された時、先発であるというだけでは顧客は離れるかもしれないことを指摘された。


「従来の斡旋業者との違いとして、こちらは単なる口入屋ではありません。うちで雇用して各種技術を磨いて、うちから派遣する形となります。働き手も収入が安定しますし、サービスの質も一定水準を保てると思います。それに、これまで働き先を見つけるのが難しかった結婚後の女性や、出産を機に仕事から離れてブランクのある優秀な女性の受け皿になりたいのです。パートタイムという勤務体系で、日時や時間に融通が利くようになれば希望者する人も増えるかと思います」


「なるほど、社会福祉の面からも、成功すれば素晴らしい試みだわ」


「女性だけでなく、年をとって毎日働くのは大変だけれど技術はあるという男性にも需要はあるのではないでしょうか」


 アルバーノからは男性視点の意見だ。


「それから、サービスを真似されたらそれを止める権利はありませんので、とにかく地道に実績を積んで信用を得るしかありません。ただ、ドアマットに関しては、ひとつ特許を取りたい商品があるのです。それによって玄関先の清潔の意識を高め、玄関マットと言えばリスキン家というように認識してもらいたいと思います」


「エレナ様?私はその特許を取りたいという商品について聞いていませんが?」


「ごめんなさい、今思い出しました、というか思いつきました。真似されないものが必要なんですよね。作ってほしいものがあります」


 エレナは吉川成美の世界で見た『タンポポマット』という他社商品をヒントに、丈夫なワイヤーロープを斜め格子状に組んだ中に、パーム繊維を細いブラシ状にしたものを差し込んだ、泥落としマットの説明をした。口頭では難しいので下手ながら図を描いてみた。


「これは、玄関ドアの外側に敷くマットです。屋内に入る前にまずこれで泥や土を落とします。少しでも中に持ち込む汚れを減らしたいのです。棕櫚やパームを編んだだけのマットでも泥は落ちますが、素朴過ぎる外見なのと、強く靴で擦られるとへたれやすいのが欠点です。金属と組み合わせることで耐久性も上がり、中の繊維がへたったら、ブラシの部分だけ交換すれば経済的です。交換の際、室内のマットの希望があるか伺えば、セールスに訪れる手間が省けます」


「変わった形状ですね。本当に今思いついたんですか」


 アルバーノが疑わしそうにエレナを見た。


「そうですよ。玄関の紋章入りのマットを美しく守るために、ドアマットの神様が、今、私に告げたんですよ」


 エレナはやけくそで誤魔化した。今思い出したのは本当なのだ。思い出した先を言えないだけで。


「アルバーノ、エレナちゃんは別にあなたに内緒にしていたわけではないでしょう。不貞腐れないの。それより、その泥落としマットは、使用人や商人が出入りする裏口や、中庭に下りるドアの外にもあるといいわね」


 ミスドーナ夫人が窘めると、アルバーノも話に戻ってきた。


「むしろそちらの方が出入りが多いですからね」


 この泥落としマットについては、ミスドーナ家の伝手で試作品を作ってもらえることになった。



 そして、ミスドーナ夫人からの願ってもない提案とは、デザイン性に富んだ新作マットをミスドーナ領で製作させてほしいというものと、他国で最近開発された溶剤によるウール製品の洗濯の方法を取り入れたらどうかというものだった。


 ミスドーナ領では、ダンスキン家と同じように古くから毛織物を生産していた。昔ながらの技法を続けるダンスキン家とは違い、早くから自動織機を導入したことで飛躍的に生産量が上がり、何か新しい製品を開発できないかと探していたらしい。そこでドアマットがたくさん売れる機会があるのなら、ぜひそれに参画したいというのだ。


 デザインについてはエレナも希望を出したい。吉川成美の世界には、信じられないくらい多様な意匠があった。機能だけではない遊び心を加えて、ニッチな好みも掘り起こしたい。異世界のことを口にしないよう気をつけながら、エレナは熱く語った。


 ドアマットの話になると鼻息が荒くなるのを夫人に笑われながら、若い人の好みも知りたいわと言ってもらえた。


 ウールの洗濯についてだが、水洗いは温度管理が難しい。吉川成美の世界で言うドライクリーニングの手法がすでに始まっているなら重畳だ。ミスドーナ家ではすでにその溶剤による洗濯をしているというから、なにかにつけ先進的な考えを持っているのだろう。柔らかい風合いが保てるのなら、ぜひそれを取り入れたいとエレナが言うと、珍しい手法にまるで抵抗がないのね、と夫人に驚かれた。



 こうしてミスドーナ侯爵夫人への事業計画の発表は終了し、無事、融資を受けられることになった。


「でも、思ったより規模が大きい計画だから、私の実家にも声をかけてみるわね。アイディアを盗まれたら元も子もないから、狭い範囲で念入りに計画しましょう。リスキン前侯爵にも内緒にした方がいいわね。あの方、危機管理能力ほとんどないもの。何しろ自分が財政を傾けたと思い込んで、あのボンクラ坊ちゃんに爵位を譲ってますからね。さっさとアルバーノが成功して爵位をもぎ取りなさいな」


 最後に威勢よく発破をかけられて、アルバーノは苦笑いしていた。


「ともあれ、貴方たちがちゃんと協力して事業計画を立てたことは良かったわ。この計画は走り出したら止まらないから、今から先を予想してトラブルに備えなさい。何かあったら頼りなさいよ。少しばかり余分に生きているから、知恵もあるし、顔も利くわよ。さあ、久しぶりに忙しくなるわ」


 頼もしい言葉を残し、ミスドーナ夫人はいそいそと帰って行った。



 こうして始まったリスキン家の事業は、じわじわと知名度を上げ、玄関先や屋敷の出入り口を清潔に保つという考えは、当たり前のことになっていった。


 泥落としマットも使ってみればその有用性は目に見えるものだったので、貴族家ばかりか商店の玄関口でも重宝された。集合住宅の入り口や多くの人が出入りする公共の建物の入口にも、リスキン家のマットが置かれるようになった。


 ミスドーナ家で製作されたおしゃれなマットも、貴族のお嬢様の部屋で季節ごとにデザインを変えて楽しんだり、お茶会用に特別に誂えたラグなども頻繁に注文が入った。購入することもレンタルすることもできる自由さも好感を得た。


 レンタル事業の方も、最初はお茶会用の備品が主だった。毎回趣向を凝らすたびにあれこれ購入していたのではお金がかかる。テーマを決めてそれに合わせたものを準備期間も合わせて数日だけレンタルするというやり方は、どの層の貴族にも喜ばれた。

 

 そのうち備品の貸し出しだけでなく、お茶会やパーティの内容についても相談されるようになった。そこで、貴族家に仕えていた元侍女や元メイドの出番である。

 どんなお茶会を望むかイメージを聞き出し、アイディアを出す。具体的な演出や飾りつけ、提供する食事内容もアドバイスする。特に高位貴族家で働いていた人たちの知識の多さに、信頼も増していった。

 当日も裏方スタッフとして働いたり、給仕に慣れていない新人に振る舞いを指導することも求められるようになっていった。


 ますます事業が大きくなりそうなところで、ミスドーナ夫人からストップがかかった。


「そのくらいの規模に留めておいた方が良いわ。貴族家の女主人の仕事を取り上げたと思われるほどになれば叩かれる。あくまで手が届かないところをサポートする立場に徹した方が、奥様方のプライドを傷つけなくて済むから」


「貴族の面子を潰してはならないということですね」


「そういうこと」


「庭の手入れや屋内の普段手が届かないようなところの掃除については、地味で目立たないため反感も買いにくいでしょう。チームを組んで短時間で依頼を達成するやり方も歓迎されています。今後も着実に依頼が得られそうです」


 こちらはアルバーノの報告だ。

 


 こうしてドアマットから始まったリスキン家の事業は軌道に乗り、財政も安定してきた。

 アルバーノは無事にリスキン侯爵位を受け継ぎ、エレナと結婚することになった。


「相手が俺で良かった?」


 結婚式の当日、アルバーノが自信なさげにエレナに訊ねた。


「もちろん。あなたは私のただ一人のパートナーであり、ミスドのおば様と同じくらい信用できる人だわ」


「ほら、それだ。俺はいつまでたっても祖母に敵わない気がするんだよ。やっぱりリスキン家に来た時に、侍女長たちから守らなかったからだよな」


 アルバーノはいまだにそれを後悔しているらしかった。


「大丈夫。あれで私覚醒したもの。ドアマットの復権を目指して頑張ることができたのは、その日々があったからよ」


 エレナは途中で吉川成美の世界を体験したこともすべて『その日々』の中に含めて、自分の成長の糧とした。


 それにしても、何もかも諦めたあの日の先に、まさかこんな夢みたいな日々が訪れるとは思わなかった。あちらの世界と繋がった一筋の縁が、エレナを励まし、ここまで連れてきた。それも人に依存するのではなく、自分で考え、人と話し合い、協力して成しえたことが嬉しかった。


「これからもよろしくね、私の侯爵様」


「しばらく執事だったから、そう呼ばれるのは慣れないな」


「じゃあ、アルバーノ様で」


「こちらこそ、よろしく。エレナ」




  ◇    ◇



「え、何あれ」


 吉川成美の脳裏に、はっきりと浮かんだ幸せそうなカップルのスチル絵。

 よく知った麗しい男女の顔。


 こちらの世界に戻った時、吉川成美は自分が元の職場で元通りの仕事をしていることに驚いた。てっきり死んだものと思っていた。それどころか解雇もされていなかった。


 空白の期間は、なんとエレナが仕事をこなしていた。遺漏なく誠実に、吉川成美の評価を下げることなくやり切ってくれた。


「すごいわ、エレナ」


 きっと元の世界でも、エレナは何かしら成し遂げたのだろう。アルバーノと共に。

 そして二人で幸せを掴んだ。


 その経過を一度も夢に見なかったのは、エレナがすでに虐げられるだけのドアマットから脱却していたからだろう。そして最後に感謝のつもりか、吉川成美にその幸せな姿を見せてくれた。


「おめでとう、エレナ」


 吉川成美は会社の帰りに買ってきたドーナツを食べながら、異世界の大事な友達の今を祝福した。

 

  

     ―完―


タンポポマットをご存知ですか。たぶん一度は目にしたことがあると思います。私はその商品名をこの度はじめて知りました。


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― 新着の感想 ―
最後は執事とくっつことに抵抗がありすぎてご指示どおり後編は読まずに立ち去りました だって吉川さんが止めなければヒロインは家を出て行ったはずですよね? そのまま儚くなってたのではないですか? 執事怖い……
終わり方も良く、大変面白かったです。 ですが、執事君の当初の立ち回りには疑問が残りました。 目的のためには手段を選ばないのは貴族的には当然とも思いましたが、ヒロインに恋愛感情があったのですよね?ヒロ…
うーん、覚醒が少し遅れたら、ハイヒールが顔に入ったんですよね?目に入って失明したり一生消えない傷になっても執事は求婚したんでしょうか?って思うとモヤってしまいました。。。身体中痣だらけにされてるのに、…
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