好きかなんて教えてあげない!
カフェに入って五分経った。汗は引かない。わたしが頼んだレモネードはまだ来ない。
向かい側の席で彼は雑誌を団扇代わりにして扇ぐ。
「気温が風呂の湯より高いのは異常だろ」
「そうね」
彼は雑誌で扇ぐだけでは足りないと言わんばかりに首の後ろをおしぼりで拭く。それから気怠げに訊ねた。
「ところでヒカリ。今週末、暇か?」
「えー? お誘いの内容次第、かな」
うそ。本当は約束が欲しくて仕方ない。
「ナイトプール。チケットは取ってある」
蛍光ピンクの紙片が差し出される。内容と相まって眩しい。
「他には誰が行くの?」
皆で、なら行きたくはない。他にも女の子が居るなら尚更に。
彼は不思議そうに首を傾げる。
「ヒカリ以外は誘ってないが?」
それではデートになってしまう。けれど、彼にデートのつもりなんてあるわけがない。きっと……ううん、絶対にない。
いつだってそう。彼は軽々しくわたしを遊びに誘う。誘う女の子なんていくらでもいるのに。
「行きたいけど、水着持ってないよ」
「じゃあ買いに行こう」
彼はさっさと立ち上がって手を差し伸べる。
「待って! まだレモネード来てないのに!」
レモネードは酸っぱかった。当たり外れで言うなら外れ。わたしは甘い方が好きだから。
水着だって甘いデザインの方が好き。なのに、彼が選んだ水着は紐がぐるぐる巻いてあるような水着。ずいぶんセクシーだ。
こんな水着、わたしの貧相な身体には似合わない。
「ヒカリ、着たか?」
「着たけど、恥ずかしい……」
更衣室のカーテンを少しだけ捲る。
「似合うよ、ヒカリ。きれいだ。俺が払うからこれにしな」
店員さんは「彼氏さんセンスいいですね」と囁く。彼氏じゃないですって言いたかった。けれど、わたしと彼の関係を正確に表す言葉が見つからない。
片想いをしている。
初めて会ったとき、初めて会った気がしなかった。
でも、それだけ。たったそれだけ。
今まで他の誰かを好きになれなかった。
この先、他の誰かを好きになれそうにない。
運命のひと、なんだと思う。わたしはそう信じている。
けれど、根拠なんてない。
彼はどんな女の子に対しても距離が近い。現に店員さんに接するのにも距離が近い。
嫉妬したいけど、嫉妬できる立場じゃない。
だから、いつも、一人勝手にやきもきしている。
彼は水着が入った紙袋を誇らしげに提げている。持ち手がサテンリボンの可愛らしい紙袋。不釣り合いでおかしい。
わたしを家の前まで送り届けると、彼は紙袋を手渡した。
「ヒカリ、土曜日迎えに来るまでに準備しとけよ。じゃあな」
「おやすみなさい」
どうしよう。水着、恥ずかしいけど着るしかないよね。
部屋の鍵をかけて鏡の前で水着を着てみる。やっぱりわたしの身体は貧相で、セクシーな水着に相応しくない気がする。
やっぱり、彼はこういう水着が似合う女の子が好きなの? だとしたら、やっぱり一緒にナイトプールなんて行かないほうがいいの?
こういう場合に相談できる友達がいたら良かったな。
頼れるくらい親しい友達なんていない。いないから抱き枕のうさちゃんに聞くしかない。
「大丈夫、かな? 変じゃない?」
うさちゃんはまんまるのお目々にわたしを映すだけ。返事なんてあるわけがない。
でも、うさちゃんは否定しない。だから、大丈夫だと思い込むようにした。
土曜日の昼下がり。日陰にいても汗ばんでしまう。
「ヒカリ、待たせたな」
黒いSUVに乗って現れた彼の格好は薔薇柄の開襟シャツに短パンと目線が見えにくい胡散臭そうなサングラス。夏っぽいというか、軽薄そう。
「ん? 俺の顔に何か付いているか?」
きっとわたしは怪訝な目をしていた。
「そうじゃなくて。その格好、似合ってない……」
もしもこれがデートなら、わたしが好感を持つような格好をしてくるのかも。でも、これはデートじゃない。彼はわたしに好かれる必要がない。だから、ちゃらんぽらんな風体でも問題ない。
「似合ってないなら脱ぐか」
「え?」
彼は躊躇いなく開襟シャツを脱いだ。中から大きな犬が密集して書かれているTシャツが現れる。そして、胡散臭く見えるサングラスを外して薄い色つきのサングラスに替えた。
「ヒカリ、こっちの方が好きだろ」
「……分かってて似合わない格好したの?」
「ギャップがある方が良さが分かると思ってな」
ひどい。わたしの反応で遊んでる。
「助手席、乗って。そっちはエアコンの風、弱めてあるから暑かったら風量上げるといい」
対応に慣れている。きっとこの助手席には他の女の子を何度も乗せてきたんだろうな。やだな。勝手に想像して、勝手に落ち込んでしまう。
BGMは夏のラブソングばかり。爽やかで、ちょっと切ない。そういう曲ばかり。あーあ、わたしもそういう恋をしたいのにな。
運転席に目を遣る。彼は口笛を吹いている。でも下手。調子外れな口笛を楽しそうに吹いている。歌うときは音痴でもないのに。それが可笑しくて、比べて落ち込むのをやめた。
まだ日が落ちていない遊園地には家族連れも沢山いる。中にはまだ帰りたくないと駄々をこねる子供も。ちょっと羨ましい。わたしは、あんな風にまだ帰りたくないと言えそうにない。
「入場まで時間かかるらしい。先に食べておくか?」
こういうとき「ジェラートが食べたい」って甘えられたらいいのにな。可愛らしく振る舞えなくて何を聞かれても「大丈夫」って言ってしまう自分がもどかしい。
けれど彼はわたしの本音を見抜き、手を引いてジェラテリアへ連れていく。
「フランボワーズとクオールディカカオのダブルコーン、これいいか?」
「どうしてわたしが選ぶフレーバーが分かるの」
彼は愉快そうに歯を見せて笑う。
「そんなのは見てりゃ分かるさ。ストロベリーはそんなに好みじゃなくて、意外にもビターなチョコレートが好き。だろ?」
「当たってる。でも、どうして?」
わたしが訊ねると、彼は「さぁな」とはぐらかして背を向ける。
でも、まだ口の端が上がっているのが丸見え。格好つけても無駄なのに。
「好きな女の子の好きな食べ物くらい分かるだろ。普通に」
え? 今、好きな女の子って言った? うそでしょう?
だって、今までそんな素振りなんてしてこなかった!
「ヒカリ、動揺し過ぎ。ジェラート溶けるぞ」
慌てて溶け落ちそうなジェラートを掬う。でも、それどころじゃない!
「何で! こんなタイミングで言うの!」
ジェラートは更に溶けていく。手がベタベタになってる。でも、それどころじゃない!
「もしかしてヒカリ、今の今まで俺がヒカリのこと好きって気づいてなかったのか」
「そんなの、言われなきゃ分かんない! だって、どんな女の子にも距離近いから……」
わたしが訴えると、彼は悪巧みする顔をしてみせた。
「そうでもないぞ。ヒカリだけ特別扱いしてるつもりだ。他の女は助手席に乗せないし」
「じゃあ、どうして助手席のエアコン弱めにしてあったの? あれは女の子に対する対応でしょう?」
「そりゃあ、俺は気遣いが出来る男だからな。ついでに言うとヒカリが乗る前に消臭剤も仕込んでおいた。車内が臭って嫌われたくはないからな」
ちゃらんぽらんに見えていたのに、ちゃんと気遣いをされていたなんて。
「だいいち、好きでもない奴をナイトプールに誘う趣味はないぞ。チケット取るの大変なんだからな」
どうやら、彼はわたしが思っていたよりもわたしが好きらしい。
意識すると、途端に恥ずかしくて仕方なくなる。
「そういうヒカリはどうなんだ? 俺のこと好きなんだろ」
自信満々に誘導されて言えるわけがない。
「好きかなんて教えてあげない!」