読書に向かない雨模様1
六月上旬。
この辺りもとうとう梅雨入り宣言がなされ、今日は朝から早速の雨模様となっている。この天気では帰宅してから改めて外出することも無いだろうし、濡れた傘片手にでは寄り道するのも億劫だ。
時間を持て余すくらいなら先輩の顔でも見ていこうかと、不二は文芸部室へ足を向けた。
二年生の不二が部室を訪れることは週に二度か三度。しかしそれでも部長である新田を除けば先輩を見たことはほとんどなく、同級生もやはりない。
後輩である一年生も入部当日以外に見た覚えは一度もなく、先輩から誰かきたという話も聞かない。
現状を思えば週一以上のペースを維持している彼はそれだけで十分に活動的な部員と言えた。
「こんにちわー」
文芸部室の広さは教室ひとつ分。教壇の黒板から部屋のなかほどまでは通常の教室と同じように机が並び、後ろ半分は図書室のように書棚が並んでいる。その一番窓ぎわの一番うしろ、書棚に手が届く席で部長の新田が本を開いている。
といういつもの光景が、部室の扉を開いた不二の目に映る予定だった。
しかし目の前に広がる現実はこうだ。
裸足の女子生徒が教室中央の机の上で長い黒髪を振り乱しドライヤー片手にくるくると回っていた。
室内には床といわず机といわず、大量の白い小袋がばら撒かれている。部室後方の書棚も例外ではない。
「うわあ……」
入口で呆れたような声を上げて立ちすくんでいる不二の姿を認めて、女子生徒はドライヤーを切って動きを止めた。
「やあ不二くん、こんにちわ。こんな天気の悪い日に部室に顔を出すとは物好きだね」
腰に手を当て、不敵で冷笑的な独特の表情を浮かべた。そこでようやく女子生徒が新田だと気付く。
「え、ああ、先輩か、びっくりした」
「見ればわかるだろう? もしや普段は下着に隠された私の柔肌にでも見惚れていたのかな」
「靴下を思わせぶりに下着って呼ぶのやめてください。で、これはいったいなんの儀式ですか」
不二は机の上から見下ろす彼女を胡乱な目で見上げた。
彼が持つ新田のイメージは制服を校則通りに着こなして、ひとつ結びの三つ編みに紺色でフルリムのセルフレーム眼鏡という組み合わせの、言うなれば絵に描いたような文学少女だ。それ以外の姿はほとんど見たことが無い。
少なくとも裸足で机にのぼって髪を振り乱し踊っているような人物像では、まったくなかった。
「これは文芸部に代々伝わる梅雨払いの儀式でね、来年はキミにやってもらうことになるから後で教えよう」
「ええ、マジですか」
「嘘だ」
「良かった、本当だって言われたら先輩との付き合いを見直す必要があるなと思いました。退部も視野に入れて」
頼まれたってやりたくないし自分には引き継ぐ後輩がいるかどうかも怪しい。そんなわけのわからないものを受け継がされるのはまっぴらごめんだった。
「そこまで嫌がられるとちょっと傷付くな」
新田は不服そうに言いながら机から椅子に降りるとなかが見えないようスカートを抑えながら胡坐をかいた。裸足のままで床に足をつきたくないらしい。
「うーんガードが堅い」
「何か言ったかい?」
「いいえなにも」
不二は、にこーっと作り笑いで答えて隣の席に腰を下ろす。
「部屋中になにかばら撒かれてるし見慣れない格好のひとが机の上で踊ってるし、危うくドア閉めて見なかったことにして帰るところでした。いったいなんだったんですか?」
「ふむ。順を追って説明しよう。まず、今日は雨が降っているだろう? 登校中うっかり水たまりにはまってしまってね」
つい、と新田が人差し指で示した方向へ視線を向けると、机に広げた新聞紙の上に靴と靴下が置かれていた。周りにはやはり白い小袋が、ここには結構集中的に置かれている。
次に普段に比べるとずいぶんボリュームを感じさせる跳ね放題の髪を指す。
「そんなわけで朝からうんざりした気持ちで登校してきたのだけれど、これまた運悪くヘアゴムが切れてしまったんだ。私の髪は湿気を吸うと暴れるタイプでね、その場で大爆発した」
「髪が暴れるって。メデューサかな?」
「お前も石人形にしてやろうかあ!」
「なんの変哲もない古い校舎の部室から、毎晩少女の悲鳴にも似た叫びが聞こえたり、聞こえなかったりしそうですね」
「万が一そんな怪談じみたことがあっても、それは私ではないとだけは言っておこう」
「むしろこの場合先輩は悲鳴を上げさせる側ですよね」
「だとしたら悲鳴の主はキミが最有力候補だぞ。良い声で鳴きたまえよ」
「いったいなにをされてしまうのか……」
特に意味のない茶々を入れつつ、段々語調が熱を帯びてきて饒舌になってきている先輩に相槌を打つ。
「それはさておき。こうなってしまうともう簡単には纏まらなくてね。放課後に部室で髪を乾かそうと思ったのだけれど、いざ来てみると部室の湿気もばかにならない。そもそも大量の本が置かれた部屋がこのありさまというのはいかにもよろしくないと思わないかい」
「実習棟とは言えここは普通の教室に本を置いてるだけですしね」
これが図書室なり専用の目的で作られた部屋であれば少しは湿気対策がされていたのかも知れないが、文芸部室は空いている部屋を使わせてもらっているだけなのでその辺りは結構おざなりだった。
「そしてついカッとなった私はこんなこともあろうかとホームセンターで買い込んでおいたシリカゲルを部屋中にばら撒いたのだ」
「シリカゲル?」
「乾燥剤だよ。焼き菓子のパッケージとかにもたまに入ってるだろう?」
「乾燥剤……ああっ」
ぽんと手を打ってその辺りに転がっていた小袋をひとつ拾ってみると、がさがさと覚えのある独特の音がする。
「どうりで、なんかどこかで見たことあるような気がしてました」
「わかってしまえばどうということはないだろう? 幽霊の正体見たり枯れ尾花ってやつさ」
「いえ、女子高生がシリカゲルを大量に買い込んで部室にばら撒くとか、明らかに異様な光景なんですけど」
得意げに言う新田に正直な気持ちを告げると、彼女は心底不可解そうな顔をした。
「あれぇ……?」
「まず私物のシリカゲル、って言葉に少なからずパワーを感じますね」
「心外だな。私は自宅でも結構使っているのだけれど」
「先輩だけですよそんなひと」
「ぐぬぬ……まあ、まあいい」
不二の強硬な否定に不満げに呻いたものの、気を取り直して続ける。
「で、私はついでにドライヤーを強風にして天井近くの空気を乾かすことにしたわけだ」
「さすがにそれは無理があるのでは」
「残念ながらお察しの通り成果を体感するには至らなかった」
「焼け石に水過ぎますがとりあえず机の上で踊っていた謎は解けました」
「踊っていたわけではないよ。ちょっとバランスが悪くてふらついたりはしたけれど」
「ちょっとふらついてあれだとかなり危険だったんじゃないかなって気持ちになるんですが」
思い返してみるが結構大きく腕を振ったり回ったりしていたような気がする。
「事故になる前に止めるタイミングがあって良かったですね。あの恰好で大きな怪我でもしたら『あの大人しかった文芸部長が……抑圧された少女、白昼の暴走』みたいなニュースになりますよ」
「これは酷い……」
「きっと僕がインタビュー受けることになりますね。『普段は本当に物静かな先輩で、どうしてこんなことに……』と『こいつはいつかやると思ってました』どっちがいいですか」
「まったく他人事みたいに。好きにしたまえよ。でも君の雄姿を後で見たいから録画は頼もうかな」
生温い笑みで肩を竦め合う。
「さて、状況は理解して貰えたかい? であれば私はそろそろ髪を乾かしたいのだけれど」
「ああはいありがとうございます。僕はどうしようかな。このシリカゲルはどうするんですか?」
「それはもう少しそのままにしておいて欲しいな。ああ、そうだな……もし手持ち無沙汰なのであれば、少し手伝ってくれると助かるのだけれど」
「まあ構いませんけど。なにをするんですか」
問いに対して先輩は朗らかな笑顔で、自身の背後を親指で示した。




