その眼鏡獰猛につき2
創作活動に興味があったかと聞かれれば迷いなくまったくないと断言できる。それでも不二が文芸部に足を運んでみようと思ったのはやはり部活紹介の一件があったからに他ならない。
部長の代理だと言っていた新田はそれなりに活動しているから選ばれたのだろうか。
幽霊部員だとしても今日の今日ならさすがに部室にいるのではないだろうかと考えた彼は放課後になってしばらく迷ったあと、結局文芸部室へと足を運んだ。
お世辞にも良い印象とは言い難い先輩だが、なぜ会ってみたいと思ったのかは不二自身もいまいちわかっていなかった。思い返してみるとただの怖いもの見たさであったような気もする。
まだ早い時間だからなのかいつもこうなのか実習棟は全体的に静かで、三階は特にひとの気配を感じさせなかった。静かに打ち込めるという売り文句のほうに偽りはなさそうだ。
と、不二がそう思ったのも束の間、廊下の先から何やら話し声が聞こえてきた。男女が言い争っている、いや、よく聞けば語気が荒いのは男性だけのようだが、とにかくなにか揉めている様子。
体育館での緊張感を思い出し不穏な空気を感じた不二は半ば無意識に足音を忍ばせながら進んでいく。
騒ぎの元はどうやら文芸部室らしい。
部屋の前に立ち扉を少しだけ開いて中を伺うと、そこには四人の姿が見て取れた。もう少し細かく言うと、ひとりの女生徒を三人の男子生徒が取り囲むように立っていた。
「だからよぉ、イッコうえってだけで偉そうなンだよ!」
その中のひとりが大きな音を立てて、むしろ大きな音が立つように机を蹴り飛ばした。思わず声を出しそうになるのを堪えて息を殺す。
机を蹴った男子生徒には見覚えがあった。部活紹介で新田に注意されていた金髪だ。他にもふたり男子生徒を従えているがそちらには見覚えが無い。親しげなところを見ると中学時代の連れかなにかだろうか。
その三人に囲まれ、窓際の椅子に足を組んで座っているのは文芸部の紹介をした文学少女然とした女子生徒、新田だ。
他に部員らしき人影は無いのだが、ひとけの無い部室でガラの悪い男子生徒に囲まれて怯えた様子も無い。
それどころか壇上にいたときと同様に薄笑みを浮かべていた。
不敵で、冷笑的な。
「なるほど。それで?男の面子が立たないと私をシメに来た、みたいな話なのかな」
いっそ穏やかと言ってもいいその口調にあからさまな苛立ちの表情を見せた金髪だったが、ぐっと堪えて引きつり気味の笑みを浮かべる。
「わかってんじゃねぇか。アンタには恥かかされたからなぁ、アンタにもたっぷり恥ずかしい思いをして貰わないと釣り合いが取れねぇだろ?」
その言葉に含まれた意味に金髪の取り巻きふたりが下卑た笑いを浮かべるが、当の本人にはあまり効いた様子がない。
「ほうほう、なかなか女子に効きそうな男の子らしい台詞じゃないか。びっくりするほどありきたりだけれど、そのぶんこれからキミたちが私になにをしようというのか誰にでも容易に想像できる」
「そこまでわかってんなら、あんまナメた口利いてんじゃねぇぞセンパイよぉ」
「いいんだよ、わかりやすさは大事だからね」
「てめぇいい加減にっ」
脅しに怯むどころか馬鹿にしたように解説を付けるその態度にカッとなった金髪が動くより早く、新田の手が机の上に置いてあったマグカップを無造作に掴んだ。
薄笑いで金髪を見上げたままスナップを利かせて自分の背後にあった窓ガラスに叩きつける。
必然ガラスは割れ、階下でガラス片が砕ける甲高い音、続いて女生徒と思しき悲鳴が上がった。
突然のことに誰もが、隠れて見ていた不二までもが凍り付く。
ただひとりその空気を支配している彼女は椅子に反り返って三人を見下すように見上げ、追い打ちをかけるように手にしていたマグカップを窓の外に投げ捨てた。
一拍置いてマグカップが砕ける音と再び悲鳴。
声を上げるでも殴りかかって来るでもなければ詫びを入れてくるでもない。
想定外の行動に三人の頭のなかが真っ白になった。
さらに数拍の間。外がざわつき始めたことでようやく我に返った金髪が悲鳴のような怒鳴り声をあげる。
「お、お、おまっ! なにやってんだ! 下のヤツが怪我でもしたらどうすんだよ!」
対して澄ました顔の新田がゆったりとした動作で机に片肘をのせて頬杖をつく。
「もちろんキミたちのせいにする」
どこまでも穏やかで、自信に満ちて、そして微塵の悪気もない声で言い切った。 あまりに傍若無人な言葉に口をぱくぱくさせている三人の男子生徒を上目遣いに見る。
「キミたちはクラブ紹介で恥をかかされたことを根に持ってこの部室に押し入り私に乱暴を働こうとした。そして抵抗する私に激昂して窓ガラスを割ってしまい、さらにマグカップを投げつけて階下へ落とした」
「な、なにフザケたこと言って……」
馬鹿げた狂言だ。
しかし、ならば何故ここにいるのかと問われたら今彼女が言った筋書き通りにほかならず、こんなところを目撃されてしまったら自分たちに勝ち目などあろうはずもない。
そしてなによりこの僅かな間に、この先輩ならそれくらいの狂言は平気でやりかねないという恐怖が三人の心の中に生まれていた。
「さて」
新田は自分が作り出した重苦しい空気を我が物顔で仕切る。
「話を戻すけれど、私を恥ずかしい目にあわせたいというのであればすぐにでも行動することをお勧めしよう。今の騒ぎを聞き付けて先生方がここに駆けつけるまであと三分とあるまい。ただし可能な限り優しく丁寧に扱ってくれたまえ、でないと」
空いた手で窓枠に残っているガラス片を摘んで引き抜くと、三人に見せびらかすように目の前で弄ぶ。
「万が一ガラス片で傷でも負ってしまったらイジメやケンカでは済まされないからね。そうしたらこれは……もう傷害事件だ」
空気がさらに重さを増し、緊張で男子生徒たちの呼吸が浅くなる。
「ところで入学二日目で事件を起こして退学になるというのはなかなかの記録だと思うのだけれど、キミらの間では最短退学記録は箔がつくのかい?」
傷害事件、退学、物騒なキーワードが並んだことで取り巻きのふたりが折れた。
そもそも彼らは先輩の女生徒をシメてやろうと言う金髪に誘われて来ているだけで新田個人になにか恨みがあるわけではない。年頃相応の下心と付き合いだけしか動機が無いのだから当然と言えば当然だろう。
「傷害って……シャレんなんねーってそれ」
「な、なあ、これヤバくね? ヤバくね?」
入学早々徒党を組んで部室に押し入り、先輩とはいえひとりの女子生徒を囲んで乱暴しようとして怪我までさせたとしたら。とても冗談では済まされる状況ではない。
しかも既に騒ぎは既に外まで広がっており、聞きつけた教師がここに向かってきているのはもはや絶対確実と断言できる。
「まあ私は昨日今日登校し始めた新入生の名前など知らないし顔も満足に覚えてはいない。だからもし今ここでキミらに逃げられてしまうと、先生に犯人を上手く伝えられない。かもしれないね」
新田は取り巻きが戦意を失ったことを見越して、今逃げ出せばうやむやになってしまいそうだと敢えて口にする。今ならまだ誤魔化せるかもしれないという希望を持たせるために。
「ちなみに実習棟の階段はひとつしかないから、今すぐここを離れないのであればキミらは間違いなく向かってくる先生方と鉢合わせすることになるのだけれど。今すぐに離れなければ、ね」
強調するように今すぐという言葉を繰り返す。
今なら退路はそこにある。
今引けば明日からまたなにごともなく高校生活を送れるかもしれない。
この先輩だってわざわざこちらから手を出さなければなにもしてこない。かもしれない。
けれども今だ。今すぐ決断しなければ逃れようのない破滅が待っている。それは少なくとも彼らのなかではもう、疑いようのない確定事項だった。
考える時間は無い。
「す……すみませんでした! ゆるしてください!」
取り巻きのひとりが勢いよく一度頭を下げるとそのまま踵を返して廊下へ飛び出した。室内を伺っていた不二は危うく蹴り飛ばされそうになって仰け反り尻もちをつく。一瞬目が合うが、もはやそれどころではないのだろう。一言も無く一目散に階段に向かって駆けていった。
遅れること数秒、もうひとりの取り巻きもあとずさりで扉へ向かう。
「えーと、その……」
金髪と新田を気まずそうに交互に見やる。不安と怒りの入り混じった恨みがましい目で睨む金髪を裏切るのは心が痛むが、面白半分で自分たちを破滅に追いやろうとしているとしか思えない先輩をこれ以上刺激するほどの、覚悟も戦意も彼には残っていなかった。
むしろそんなものは最初からなかった。
「すまん俺も降りる! センパイすんませんっした! 勘弁してください!」
ふたり目ともなると決断は早い。一度大きく頭を下げると新田と金髪の顔を一瞥もせずに部屋を飛び出した。
「さて」
ひとり残った金髪を見上げ、つまんだままのガラス片をひらひらさせながら足を組み替え、首を傾げる。
「さすがにキミは折れないな、でも」
「っ……」
音が聞こえそうなほど歯を食いしばって睨む金髪に対して、彼女の表情は揺るがない。
「キミと私の因縁は、たった二日で学校生活を終わらせてでも決着が必要なほど深いものかい?」
金髪は答えない。ここで意地を張るなんて馬鹿げてることくらい自分が一番分かっている。小さな自尊心で踏みつけようとしたものが、思いのほか大きな地雷だったことも。
「私は、迷うくらいなら今すぐここを離れるべきだと思うがね」
決断できない金髪に対して新田は一枚のプリントを手にして差し出した。
「まあよく考えてからまた来たまえよ」
な?と背中を押すように笑うその表情は打って変わって、後輩を宥める気の良い先輩としかいいようのない朗らかなもので。
「くそっ、覚えてろ」
その表情の変化に毒気を抜かれたように一瞬あっけに取られた金髪は、舌打ちしてプリントを引っ掴むとすぐさま部室を出た。
そこで目の合った不二に「覗いてやがったのかクソが……チクったら殺すからな」とドスの利いた声で言い捨てて足早に廊下を去っていく。
「さて」
黙って金髪を見送った不二のその真後ろで、楽しげな声が発せられた。喉が引き攣れて声が漏れそうになるのを抑えながら恐る恐る振り返ると、息がかかりそうなほどの間近に新田が立っていた。まさに仁王立ちというやつだ。
「キミが最後のひとりだな」
そう言って笑った彼女の顔は、残念なことに今日見た表情のなかで一番悪い顔だった。