父の日に見る昨日と明日と1
「こんにちわー」
文芸部の二年生、不二が部室の扉を開くと、そこにはいつものように部長の新田だけが待っていた。
定位置の窓際後方の席でいつものように壁を背に座り本を開いているが、足元は上履きもソックスも脱いだ素足で隣の席の椅子に放り出されている。
足元以外は制服を校則通りに着こなして、ひとつ結びの三つ編みに紺色でフルリムのセルフレーム眼鏡という組み合わせの絵に描いたような文学少女、ありていに言えばただひたすらに大人しく地味な、しかし浮かべているふてぶてしい仏頂面がアンバランスに際立つ。
「やあ不二くん、こんにちわ。……んー、はやく閉めたまえ、湿気が入るだろう」
視線を上げて挨拶を返した彼女は普段ならもっと余裕のある、そう、それはどこまでも不敵で、そして冷笑的な表情を浮かべながら泰然と構えているのだけれども。
梅雨に入ってからというものいまひとつご機嫌がよろしくない。
梅雨。
北の地で入ったかと思ったころには南の地から明けていく、四季の隙間にほんの僅かに存在する季節。
だが、それほど雨が降らないこの土地で連日の雨という天候は、その僅かな期間にもかかわらず人々に少なからぬ精神的負担を強いていた。そして、それは彼女にとっても同様であるらしい。
新田の脇にはどこから持ってきたのか古い型の除湿器が絶賛稼働中。
部屋の後ろ半分を占める本棚にはホームセンターで買ってきたらしいシリカゲル、いわゆる乾燥剤がいくつも置かれている。特に湿気対策の取られていないこの部屋の本を守るためだ。
そもそも本をこよなく愛する新田にとって湿気は不倶戴天の敵であるが、そこに加えて彼女の長い髪もまた湿気に弱いらしく、昨年もこの時期はケアに悪戦苦闘していた。機嫌が悪くなるのも仕方のないところだろう。
「ハイハイわかってますって」
事情を承知している不二は苦笑いを浮かべて返事をしたが、その態度に新田の眉がぴくりと上がる。
「ハイは一回」
「イエスマム」
若干八つ当たり気味な指摘に、彼女の癇に障らない程度を計ったおふざけで返す。
「よろしい」
若干緊張の緩んだ新田の反応に(今のはちょっと危なかったかな)などと思いながらしっかり扉を閉めると、窓際にある新田の前の席、といっても彼女はいつも窓のある壁に背を預けて横向きに座っているので前というよりは隣の席になるのだが、そこにかばんを置いて腰を下ろした。
「また水溜りにハマったんですか?」
新田に倣って壁に背を預けるように座ると、当然新田本人より椅子の上に放り出されている生足のほうが目につく。
「ぐ……少し染みた程度だよ」
彼女は遠回しに肯定して几帳面に爪を手入れされた指先をにぎにぎと動かしながら溜息を吐く。
「先輩結構うっかりさんですからね」
「うっかりさんって言うな」
「ええ、可愛いじゃないですか」
「そういうところに可愛さを求めなくてもよろしい」
「じゃあどこならいいんですか」
僅か一瞬の長い沈黙。仏頂面と視線が合う。
「それは自分で考えたまえ」
「あっはい」
新田はわざとらしく咳払いをすると教卓の上に置かれているポットを指さす。
「そんなことより不二くん。来たばかりですまないがコーヒーを入れてくれるかい」
裸足の足先をひらひらと主張する。要するに歩きたくないらしい。
「はあ、まあいいですけど」
不二は立ち上がると言われるままに教卓に向かい、ふたりのマグカップにインスタントコーヒーを入れてポットから湯を注ぐ。
「コーヒーメーカーでもあればもうちょっと美味しいコーヒーが飲めるのだろうけどね」
「僕はインスタントでも普通に美味しいと思いますけど」
コーヒーチェーン店フタバのロゴが入ったマグカップをふたつ持って戻ってくると片方を新田に差し出して自分の席に座り直す。
「あーでも、確かに兄さんの淹れたコーヒーは美味しかったな」
「お兄さんがいるのだっけ」
「はい。カフェで働いてるからそういうの得意なんですよ。先日父の日に帰ってきて父さんにコーヒーを淹れてたのを一緒に飲みました」
「へえ、それはいいね。是非私もご相伴に預かりたいものだ」
不二は一瞬手を止めて空想を巡らせる。
「それはちょっと難しいかな……」
「ほう、どうしてまた」
「兄弟なんで顔は僕にそっくりなんですけど、凄く偏屈なんですよね。先輩とは反りが合わないと思います」
「君は偏屈ではないと」
「兄さんに比べたら僕は天使ですよ」
「それは人類とコミュニケーションが取れるタイプのポ〇モンなのかい?」
「驚くべきことに就職してますし結婚もしてますね」
「どこから驚いていいか迷うな……」
「迷うならとりあえず先に僕に謝ってくれてもいいんですよ」
「あ、うんすまない」
正直なところ何を謝ったのかもよくわからないまま雑な謝罪の言葉を口にする。
「わかっていただければそれで。そういえば……」
わからないまま話は流れて行った。
「先輩はお父さんになにか贈ったんですか?」
何気ない話題繋ぎのつもりだったが、新田はまさに鳩が豆鉄砲でも食ったようなきょとんとした顔で不二の顔を見ている。
「どうしました? まさか父の日を忘れていたとか」
「いや、そういうわけではないのだけれど……ふむ。どういったものかな」
悩む、というよりは考え込んでしまった新田のことは置いておいてコーヒーをすする。
しばしの静寂。
不二が黙って待ちながら、この時間は小腹も空くしお茶請けが欲しいな、などと考えていると、とくに前触れもなく新田が口を開いた。
「私に戸籍上の父親は居ない」
今度は不二が豆鉄砲を食う番だった。
「あ、えーと……亡くなられた、とか」
予想外のことにしどろもどろに口を開いた不二に対して、新田は俯き加減で上目遣いに表情を浮かべた。不敵で、冷笑的な。
「いや、そのままの意味だよ。聞きたいかい?」
放課後なんとなくする話題としてはあまりにもセンシティブだ。夏休みに朝顔を植えようと思って庭を掘ったら不発弾が出てきたみたいな気軽さと重さだ。バランスが悪過ぎる。
不二はしばし迷ったが、その顔を見て結局こくりと頷いた。彼女が、新田が喋りたそうな顔をしていたから。
なんだかんだで一年以上ほぼ毎日顔を合わせている仲である。その辺りの機微は察しつつあった。
それに一年以上ほぼ毎日顔を合わせている仲である、にも関わらず、新田は今まで自分の家族や家庭について一度も触れたことがなかった。
女子の先輩の家庭構成を詮索するのはなんとなく憚られたこともあり不二から聞いたのもこれが初めてだったが、もしここで引いたらこんな機会は二度と来ないかも知れない。
「先輩が良いなら是非」
彼女はその言葉に頷くとコーヒーをひと口啜って息を吐く。
「私の遺伝子上の父親はこの国の人間だが、この国には住んでいない。彼は……」