たった一つの願いを叶えられないから、俺は花壇をスノードロップで埋めつくす。
家族全員が揃う夕食の席で妻が「話があるの」と言った。
てっきり新年に出かける場所の相談だと思っていた。
「パパと離婚しようと思うの」
「…………は?」
意味がわからなかった。
茶色く染めたショートボブを耳にかけながら、上目遣いで見つめてくる。
言葉と表情が合ってない。
二十半ばで結婚した。
夫婦になって今年で二十二年。
子どもは三人で、長女二十歳、長男十四歳、次女十二歳。
最近ペットも飼い始め、とても順調で幸せな家庭を築いていたのだと思っていた。
「なんで?」
なんで、いま、この場で言うんだ?
なんで、子どもたちは誰も驚いていない?
「パパと一緒にいても、私は幸せになれない」
――――私は?
「ちょっと意味がわからない。俺の何かが嫌いとかか?」
「別に嫌いとかじゃないけど、パパをもう愛せない」
「……は?」
子どもたちにチラリと視線を向けると、長女と長男はシラけたような顔。次女はテレビを見ているだけ。
「…………男か?」
それ以外、考えられない。
若い頃の妻の言葉を思い出す。
『私ね、おばあちゃんになっても、旦那さんから愛されていたいの! 何よりも私を優占してくれる人が好きなの!』
あの頃は可愛らしいと思っていた。
そりゃ、一番に愛している。
だが、いい年齢になったいま、優先しなければいけない仕事も多々出てくる。
特に、出世に関われば。
「パパがずっと家にいないせいだから!」
「……どこの誰か言え。言わないなら、離婚はしない」
なんとなく、気付いている。
パートだった仕事が好きだから、フルタイムで働きたいと言い出した。
事あるごとに残業だので帰りが遅かった。準備しなきゃいけないことがあるからと、休日なのに外出することもよくあった。
「仕事場のヤツか?」
「…………うん」
妻が泣きながら頷いた瞬間、長女と長男が鼻で笑った。
…………あぁ、そうか。知っていたんだな。
もう無理だろう。
「子どもたちはどうする?」
「…………由香だけ連れてく」
次女だけ? 上二人はここに残っていいのか?
「二人とも、私とゆぅくんの関係に反対だって言うから」
――――ゆぅくん。
「お前たちは、事前に聞いてたんだろ? それでいいのか?」
「勝手にしたら?」
長女は腕と脚を組み、妻を睨んでいた。
長男はため息を吐きながら、頷くだけだった。
「由香は私に賛成してくれたから」
…………つまり、反対した上二人は、捨てるのか。
妻のことを理解していると思った。が、勘違いだったらしい。
もう無理だろうと思い、翌日の昼にお互いの両親に報告した。
その日の夕方、相手の男と妻を訴えて慰謝料を請求しようと弁護士に相談している時に、妻の母親が倒れた。
元々が病弱だったことと、今回のことが大きなストレスになったらしい。
「お母さんが、離婚しないでって言うから……」
――――誰かのせいにしか出来ないのか。
「分かった。男とは別れろ、仕事も辞めろ」
「うん」
妻は一人っ子だ。義父は既に他界している。義母の年金では入院費は難しい。つまり、俺の収入から捻出するしかない。だから、妻は離婚ができないと判断したのだろう。
男と別れること、仕事を辞めること、家族を続けること。これらを条件に、義母の手術費や入院費を出すこと、相手の男に慰謝料を請求しないことを約束した――――今は。
子どもたちは、今回のことで俺が浮気を許したことに、少なからず驚いていた。
義母の手術費や入院費を出したからか、妻について行くと言っていた次女も俺の味方になっているらしい。
もし離婚しても妻にはついて行かないらしい。
「好きにしていいんだぞ?」
「……あの人、頭おかしい。まだ続けてるもん」
「ん…………知ってる」
妻の性格だ。一度言い出したら、絶対に止まらない。
知っていて泳がせている。
愛は、なくなってはいない。
憎悪は生まれ、消えることはない。
だから、俺は花壇にスノードロップを植えた。
あれから何事もなく、一ヶ月が経ち、二ヶ月が経ち、妻は毎日のように病院へ見舞いに行き、笑顔で家事をこなしている。
毎日のように病院に行く必要はない。
仕事をやめたはずなのに、引き継ぎがあるからと仕事場に時々行く必要もない。
会いに行っているのだろう。
きっと、連絡も取り合っているのだろう。
だから、俺は花壇をスノードロップで埋め尽くした。
たった一つの願いは、叶えられないから。
俺は今日も花壇のスノードロップを愛でる。
心に渦巻く花言葉を掻き抱きながら。
いつか、願いが叶う日を夢見て。
―― fin ――
ヘビーな話ですんませぇぇぇん!_(꒪ཀ꒪」∠)_