京香チャンネル
【京香】
私、バカだから仕事を覚えられない。人の名前もなかなか覚えられない。名前と顔を一致させるのに随分と時間がかかってしまう。一か月くらいはかかってしまう。言われたことをすぐに忘れてしまうので、メモを取るようにしている。四月から工場で働いている。広いフロアのあちこちで作業をしている人がいる。装置を動かしている人がいる。検査をしている人がいる。操作方法は作業要領書に書いてあるが、私には難しくて理解できない。長い時間、集中力を持続させることが苦手で、本を読む習慣がない。映画を通して観ることもできない。生まれ付きそうだ。もっと集中できる性格なら良かったのに。この工場ではプリント基板が製造されている。テレビなどの電化製品の中には、部品がたくさん載ったプリント基板が入っているそうだ。プリント基板は絶縁性の樹脂に銅箔を貼り付けたもので、製品の種類に応じて違うパターンのものを作る。そのための様々な工程がある。露光と呼ばれる工程では、エッチングレジストになるフィルムを貼り付けて、必要な配線の部分が残るようにパターンに光を照射する。光の当たった部分のフィルムは、現像した時に溶けてなくなって、必要な部分の銅箔の上にだけフィルムが残る。その状態でエッチングをすると不要な部分の銅箔が除去される。残った銅箔が部品と部品をつなぐ配線になるということだ。プリント基板には表と裏にだけ配線のあるものもあるが、銅箔と樹脂を交互に何層も重ねれば、高密度に部品を接続することができるので、その場合は、フィルムをラミネートして、露光して、現像して、エッチングして、フィルムを除去するということを繰り返す。欠陥がないか検査も行う。プリント基板を加工するには各々の用途に特化された装置を使う。露光には露光用の、エッチングにはエッチング用の装置がある。装置には注文を受けて顧客の製品に応じたレシピが登録してある。私たちは登録してあるレシピから適切なものを選択して、装置を動かす。レシピを選択して、数量を確認するだけのことだ。でも、私はレシピを間違えて、動かしてしまった。内層をプリント済の基板に、別の製品の外層を露光してしまった。検査工程で間違いが見つかったのが幸いで、損失は免れた。でも、それ以来、私には装置は任せられないと、みんな考えているようだった。それからずっと、材料の払い出しばかりしている。きちんと装置が動かせるように、作業要領書のコピーを持ち帰って家で読む。書いてあることを正しく理解して、記載している内容は完全に覚えたい。どうして間違ってしまったのだろうかと、ふと考える。子供の頃から、忘れ物や落とし物が多かった。今でもそう。気を付けていても、いつの間にか失くしてしまっている。注意が続かない。きっとどこかで手順を間違えてしまったに違いない。このままだと、払い出し以外のことはさせてもらえない。もう社会人になったのだから、きちんと働いていかなければならない。お金を稼がなければならない。そう思って、家に帰ってからも、作業を間違えないように、何をしなければならないかをしっかり考えて、要領書も何度も読む。私なりに努力はしている。昼食時を除いて、午前中に一回、午後にも一回、休憩が入る。休憩時間にみんなはホットコーナーで話している。その輪の中に入るのがむずかしい。避けられている。私が行くと、みんないなくなってしまう。もしかすると、私のことを話していたのかもしれない。私が失敗ばかりするので、みんなが迷惑しているのは理解している。もっとがんばらなくてはいけない。そう思っていたが、しばらくして払い出しもさせてもらえなくなった。一日中、ずっと会社にいるのに、何も指示されなくなった。班長に何かすることはないですかと聞いてみた。他の人で間に合っているから何もしなくても良いと言われた。あなたは、掃除だけしていてくれればいいと言われた。家に帰って来た。部屋に一人でいると涙が溢れて来た。次の日から、会社に行けなくなってしまった。毎日、泣いていたが、やがて涙が枯れてしまった。涙といっしょに他の感情も失くしてしまった。私は役に立たない。私は大人になっても自立できずにいる。居場所もないし役割もない。子供の頃と同じように両親の世話になったまま暮らしている。まったく何も成長していない。
【京香】
すりガラスのドアを開くと待合室がある。正面が受付になっていて、事務手続きを二名の女性が担当している。お母さんが電話で予約したことを告げる。さわやかな笑顔で応対している女性が、健康保険証の提示を求める。お母さんが鞄の中から透明なポーチに入った保険証を取り出し、女性に手渡しする。しばらくお待ちくださいと告げられた私たちは椅子に座って待つ。待合室の真ん中には机がある。机の上に生け花が飾ってある。上品な白い花だ。百合だろうか。花の名前をよく知らない。いつも綺麗だなと思うだけで、名前なんて調べたことがない。花の種類なんてほとんど知らない。チューリップとひまわりと桜を除けば、自信をもって答えられない。知らないことが多すぎる。十人くらいが座れる椅子とソファがある。机を挟んで椅子が両側に並んでいる。受付の女性が、順番の来た患者の名前を呼び出している。患者。私もその中の一人なのだ。向かい側の椅子に綺麗な女の人が座っている。どうしてこんな綺麗な人が、ここにいるのだろうかと思う。どうしてかよくわからないが、私たちはどこか壊れてしまった。それでここに来ている。私の隣にはお母さんが座っている。お母さんがここまで連れて来てくれた。私一人では来ることはできない。車の運転はできないし、バスや電車に乗っていると息苦しくなって倒れ込んでしまうこともある。私一人では何もできない。私の座っている席の真向いにある診察室のドアが開き、中から中年の少し太った男性が出て来る。待合室まで歩いて来て、辺りを見渡してから空いている方の椅子に座る。また、しばらく静寂が続く。あと何人待っているのか、もうそろそろ私の番ではないかと考える。受付の向こう側にある時計を見て、時間の経過を確かめる。来てから、十五分くらい経った。不意に名前を呼ばれる。ずっと待っていたのに、呼ばれてみるとびっくりする。どうしようかと少し不安になる。立ち上がって、さっき男の人が出て来たドアに向かって進む。二回ノックしてから、ノブを回してドアを開き、中に入る。白髪の混じった細身のお医者さんが椅子に座って、こちらを見ている。おかけくださいと言われ、入って左の方に置かれた椅子に座る。後ろからついて来たお母さんは、その後ろにある椅子に座る。お医者さんはさっそく質問を始める。夜は眠れますか。この一週間はどのように過ごしましたかといったこと。お医者さんの質問に答えて行く。やがて職場であったことの話になる。あなたはまるで戦力にならない、あなたがいても仕方がないといった嫌味を言われたこと。私がそこに存在しないものとして、チームのみんなが振る舞っていたこと。仕事をしに来ているのに、役割が一切与えられなかったこと。医師は視線を外すことなく、頷きながら、私の話を聞いている。聞きながら、カルテに書き込んでいる。私はきちんと話せているのだろうか。先ほど聞かれたが、この一週間、何をしていたのだろうか。何処かに行ったのだろうか。何を食べていたのだろうか。さっき、私が話したことは、本当にあったことなのだろうか。十五分くらい話してから、処方してもらう薬についてお医者さんが説明する。また、一週間後に来てくださいと言われる。後ろに座っていたお母さんが、ありがとうございましたと言っている。お母さんの運転する車で連れて来てもらった。ずっと迷惑を掛けてばかりだ。もう大人になって、一人で生きて行かなければならないのに。私は満足に仕事もできないでいる。そればかりか、病院まで付き添ってもらっている。いつまでも守ってもらっている。お医者さんの説明によると、私にはパニック障害と発達障害がある。発達障害にはいくつかのタイプがあり、私は多動性障害(ADHD)ということらしい。生まれつき脳の機能の一部に障害があって、注意が散漫になり、人の名前も覚えられず、人の話が雑音のように聞こえてしまうことがある。雑念があって集中できないのではなく、先天的な脳の欠陥があって集中できない。普通に生きて来た人たちは、そんなことがあるなんて知らない。健康で障害のない心身を生まれ付き所有し、その機能を害されたことのない人たちに、先天的な障害を持って生きるのが、どういうことなのかはわからない。私自身も、健常な人との差異についてあまり自覚はなかった。その理由について知ることもなかった。でも、私がそうであるということは悪いことなのだろうか。そのことを認めてしまったら、私自身を否定することになってしまう。障害がなければ、幸せだったとか、嫌味を言われずに済んだとか、もっと平穏に暮らすことができたとか、そんなことを考えても仕方がない。お母さんは私が障害を持って生まれて来たことを気にしているのだろうか。それはわからない。ただ、私を支えようとしている。あらゆる場所で、あらゆる局面で。そのおかげで私はなんとか生き延びている。
【美咲】
あの子は来なくなった。何やら後ろめたい気持ちが残っているが、ほっとしている。彼女が欠けて人員は一名減っているが、メンバーの負荷は以前と変わらない。彼女が仕事をしていた訳ではないから。いずれ補充してもらえるだろう。少ない人員でなんとか業務をこなしている。しんどい。誰かが手を抜いているということではなくて、みんながしんどい思いをしているので、不公平感はない。休憩している時に愚痴がでることがある。それは上層部に対してのもので、個人を責めるようなことはしない。あの子が一緒にいる間は、仕事が減らない原因をあの子に向けていた。あの子が人並みに働いてくれたら、少しは楽ができそうな気がした。彼女が発達障害ということは聞いていた。障害者を雇用すれば助成金がもらえる。企業としての道義的責任を果たすという側面もある。でも、それは上の人間の考えていることで、現場の私たちにはまるで関係がない。何の対策もしないで、仕事のできない人間を現場に押し付けて来る。いったい私たちにどうしろと言うのだろうか。こなしきれない仕事に従事しながら、仕事のできない障害者を温かく見守るなんてできない。一人にしておくと何をしでかすかわからない人間を放っておくこともできないし、かえって手間がかかるだけだ。掃除だけしてもらえればそれでいい。いくつもある製造工程のうち一つでもミスがあると欠陥品になってしまう。仕掛品は廃棄になる。検査で見つけられずに不良品が流出してしまったら、お客様の信頼を大きく損ねてしまって、注文をもらえなくなってしまうかもしれない。似たようなメーカーはいくらでもある。私たちの会社の技術や品質が格別優れているという訳ではない。装置が壊れてしまう可能性だって、ない訳ではない。そうなったら誰が責任を取れるのだろうか。彼女と同じシフトの社員は皆、文句を言っていた。昼食を除けば午前と午後に十五分の休憩時間が一回ずつあるだけで、後はずっと作業をしている。仕掛品が流れて来る。早く次の工程に流さなくてはならない。それをぎりぎりの人数でやっている。発達障害の人は注意力が散漫ということだ。集中力を切らさずに的確に対応するなんて無理だろう。現場のことも知らないで押し付けるだけで、まったくやりきれない。みんなで話し合って、彼女に何か期待しても仕方がないから、初めからいないものとして考えた方が良いという結論になった。数に入れていると余計な期待をかけてしまって、いらいらしてしまう。そうしたら、辞めてしまった。私たちは何か悪いことをしてしまったのだろうか。でも、彼女が辞めてからは、気持ちが乱れることもなくなった。誰もが同じように働いていれば、文句は出ない。
【佳奈】
京香とは、小さい頃からずっと一緒だった。母親同士が友達で、私たちは姉妹のように育てられた。遊びに出掛ける時もいつも一緒だった。でも、映画に行った時は、なんだかぼうっとしていた。私は集中力がなくて、二時間もずっと同じことはできないと彼女は言っていた。本を読むのも苦手なのだと。それが先天的な障害のせいだということは、つい最近、知った。彼女自身も子供の頃は自覚がないようだった。大人になって、周囲に溶け込むことのできない自分を見つけてしまって、彼女自身も自分のことをよく知る必要が出て来たようだった。そんな彼女とずっと付き合って来た。彼女は時々、私をびっくりさせた。生まれ付きの障害があるということだが、生まれ付きの才能のようなものを私は近くで見る機会に恵まれていた。そして小学生の時に、一緒に絵を描いている時に、私は自分が凡人であることを思い知らされた。私は他人の視線が気になる年頃に差し掛かっていて、勉強もスポーツも、それ以外の音楽も図画工作の類も、誰かに褒めてもらえるような結果を出すことばかりを考えていた。それが絵を描く機会であるならば、描き切らねばならない対象の色と形を見極めて、パレットに展開した絵具を適切な形状の絵筆ですくいとり、真っ白な画用紙に正確に映して行くことを心掛ける。その作業が緻密であるほどに周囲の子供たちは、まるで写真のようだと言ってくれて、私は得意満面になった。一方、京香はどうしていたかというと、何やらわからない自分の世界にしばらく潜伏していたかと思うと、こちらの世界に取って返し、彼女の発案であると思われる架空の動物の姿を画用紙に定着させていた。そこには、嵐の中、岩の上に立った竜が火を噴いている姿が描かれていた。彼女は、小さな竜と呼ぶ生き物は、画用紙からはみ出すくらい大きく描かれていた。よく見ると、竜は、頭のサイズが身体に比べて大きく、お腹が妙にぽっこり膨らんでいて、本人が意識しているのかはよくわからなかったが、幼児体型をしていた。空は暗い群青をしていた。その中に緑色の身体の竜と竜の吐く真っ赤な炎。遠くの方には明るい黄色の稲妻が光っている。あらためて自分の描いた絵を見てみると、上手く見せようとする意図が透けていて、何だか哀しくなってしまうのだった。絵だけではなくて、作文もうまかった。作文のコンクールの時にはいつもクラスで三番以内に入っていた。家族のふれあい、四季の移り変わり、夕暮れ時の雲の色合い、彼女が捉える日常の風景には独特のものがあった。京香は、彼女の中にある何物かを形にするために生きているのではないかと思った。私は彼女の才能が好きだったし、才能を抜きにしてもやはり彼女が好きだった。一緒にいて、安心できる人だった。平気で失敗をやらかして、それを隠そうともしない。何があっても、にっこりしている。彼女の笑顔には特別な癒しがあるようで、個人的なことで激しく落ち込んだ時があっても、その笑顔を見るとほっとした。不幸なめぐり合わせに遭遇することがあっても我慢することが出来た。私たちは同じ中学に進み、高校も同じだった。大学は違ったけれども、私たちの親交は続いた。卒業してお互いに就職してからも連絡を取り合っていた。悩みを抱えているようだった。しばらくして携帯につながらないようになってしまった。その状態が一か月続いて、心配になって、彼女の自宅に押し掛けた。彼女は部屋にこもりきりで会えなかった。彼女のお母さんは、来てくれてありがとうと言っていた。彼女はひどく体調を崩してしまって、今は会える状態ではないということだった。ずっと通院を続けているということだった。いったい何があったのだろう。彼女をそんなふうに変えてしまったものに対して、言いようのない怒りがこみあげて来た。私の友達を早く返してくださいと思った。彼女に会えたのは、それから三年後だった。
【京香】
障害者の働けるカフェとか、パン屋さんとか、いろいろ回ってみたけれど上手くいかない。記憶の飛んでしまった状態から、なんとか回復したけれども、私の居場所はまだ見つからない。働きたいと思っても、働ける場所がない。社会の中で生きる一人として、何か役割が欲しいけれど、何も与えられない。そうこうしているうちに、時間だけが虚しく過ぎ去って行く。外に出るのも、だんだん嫌になって来た。誰も私の相手なんてしてくれない。いや、誰もというのは嘘になる。佳奈とはずっと連絡を取り合っている。子供の頃から仲良しだ。彼女にもずっと支えてもらっている。何処に行っても拒否されるだけで、また気持ちがひどく落ち込んで来て、引きこもりがちになっていた私に、佳奈がスマートフォンのゲームを紹介してくれた。けっこう前から流行っているということだが、世の中との接点がものすごく少ない私は、社会の変化に遅滞なく追随して行くことなんてできないのだ。どうせ他にすることもないので、さっそくインストールしてみる。起動してみると画面に付近の道が表示されていて、そこにポケモンが一匹出現した。ポケモンをタップすると捕獲画面になる。カメラが映し出す周囲の景色の中で、架空の生き物が飛んだり跳ねたりしている。まるで実際に私たちの住む世界に出現したみたいだ。指先で操作して、モンスターボールをポケモンに向かって投げる。ボールが当たるとポケモンが中に吸い込まれる。そのまま飛び出さずに三回揺れると捕まる。捕まえたポケモンは一覧に表示され、選択するといろいろな情報と共に容姿が拡大して表示される。とても愛らしい表情をしている。ポケモンはあちこちに出現すると佳奈は言っていた。公園に行けば、たくさんいるのかもしれない。スマートフォンの画面の中で、公園は緑色に表示されている。そこに至るまでの今までに何度も通った道も表示されている。道の他には、青い四角の標識のようなものと同心円を重ねた建物のようなものがある。ゲームの案内をしてくれる博士によれば、青い四角の標識のようなものはポケストップと言って、その近くまで歩いて行けばタップできるようになる。そしてタップして、そこに映し出されたディスクを回転させるとボールが支給される。つまりポケモンを捕まえるためにボールを使ってしまったら、ポケストップまで歩いてボールをもらいに行かなければならない。ポケモンを見つけるために歩き、ボールをもらうためにも歩く。確かに、私のような引きこもりが運動不足を解消するのに相応しいゲームかもしれない。でも、なんだか楽しい。スマートフォンのカメラが捉える風景の中にポケモンが写っている。昆虫採集というのとは違うけれど、小さな子供の頃、網と虫かごを持って一日中、遊び回った感覚と少し似ている。暑さをいっそう掻き立てる蝉の声。佳奈と一緒に遊びに出掛けた。日が暮れるまで一緒に遊んだことを思い出す。あの頃に戻ったようだ。今度、一緒に常滑に行こうと相談している。珍しいポケモンが頻繁に出現するという。とても楽しみ。
【佳奈と京香】
やきものの街、常滑。滑らかな性質の粘土層の露出が多く、古くから窯業で栄えた。街を歩くと、あちこちに素人の手による陶器が展示されている。子供たちが作ったものもある。駅から少し歩くと、昭和の街並みがすっかり保存されている高台もある。切り立った断崖によって古代の生き物の生態系が守られて来たという作り話に似ている。政治や経済や好況や不況と関係なく、地震や原発事故とも関係なく、街並みはここに住む人々の意思により、保存されて来た。街を初めて訪れる人にとっては、斬新な風景のはずだが、どこかで見たことのある安心できる風景に映るのではないかと思う。この地に珍しいポケモンが頻繁に出現するというのは、ゲームの運営元がこの地に何か特別な価値を認めているからなのかもしれない。珍しいポケモンを求めて街を訪れてみると、そこはポケモンの他にも十分魅力を持った街であることを深く感じ入ることになる。どこかで見たことがあるような懐かしい街並みの中を、素朴な焼き物があちこちに展示している街の中を疲れも知らずに歩き続けることになる。私たちはゲームをしに来たのだろうか、それとも街の中を歩きに来たのだろうか。どちらにしても来て良かったと思う。
「京香は本当にポケモンが好きだね」
佳奈が言う。水路に沿って植物に覆われた通路がある。その中を一緒に歩いている。
「ポケモンGOを始めるまでは、ポケモンのことはあまり知らなかった。家庭用のゲームで人気があって、子供たちがソフトを買ってもらってうれしそうにしているのを電気屋さんで見たことがある。でも、私はやったことはない。楽しいのかもしれないが、それがどういうものなのか、知ろうとは思わなかった。あちこちにキャラクターの絵が飾ってあって、かわいいなとは思った。でも、私の生活には関係ないと思っていた」
「それが今では、寝ている時もポケモンだからね。眠っていても、バイブレーションで起きて、ポケモンを捕まえてまた寝るとか。本当によくやるわと思った」
「だって楽しいじゃない? かわいいのとか、強いのとか、かっこいいのとか、いろいろなポケモンが私たちの住んでいる空間の中にいきなり現れて来る。それはデジタルで作られていて、実際には生きてはいないということはわかっていても、私の感性に働きかけて来る何かがある。本物の相手をしないで、仮想世界に踊らされているのはかわいそうと言う人もいるけれど、純粋に楽しめれば、それでいいと私は思っている」
「三年間会えなくて、ようやく会えたと思ったら、また家に引きこもってしまって、どうなることかと心配していたけれど、ポケモンをやるようになってから元気が出て来たね。京香はとても元気になった」
「佳奈がゲームを紹介してくれたおかげです」
「それは良かった」
「確かに元気にはなった。でも、私が無職であることに変わりはない。障害があるから難しい。でも、何でもいいから役割があればと思う。何処でもいいから居場所があればと思う」
「京香には居場所がないの? こんなにポケモンのゲームを楽しんでいるのに」
「ゲームはゲームでしかない。ポケモンはポケモンでしかない。楽しんではいるけれど、居場所とはちょっと違うと思う。仕事に関係しているのでもない」
「ポケモンに関係したことを仕事にすればいい」
「どうやって?」
「ポケモンのユーチューバーをやってみればいいと思う」
「ユーチューバー?」
「スマートフォンで動画見たことあるでしょう?」
「見たことはある。おしゃべりの上手な人がやっている。私には無理。それに撮影や編集もどうやったらいいのかわからない。パソコンもほとんど触ったことがない」
「そんなにポケモンが好きだったら、やってみればいいと思う。好きなことだったら、がんばれると思う」
「でも、私、仕事もちゃんとしたことない」
「京香なら出来ると思う。京香は子供の頃から絵も上手だったし、作文も上手だった。何を話せばいいか、どういうシーンを撮ればいいか、きっと京香はわかっている。私はあなたなら、きっと出来ると思う」
話しながら、佳奈はずっと私と視線を合わせていた。私は私を見るその瞳の中に吸い込まれそうな感じがした。何かが出来そうな気がした。精一杯やってみてもダメかもしれなかった。そんなことわからない。まだ、やっていないことが、どうなるかなんてわからない。でも、私と私の可能性を信じてくれる存在が私のそばにいるということが、とてもうれしかった。そのことだけでも、私に寄せてくれた信頼に応えるということだけでも、やってみる価値はありそうだった。そうだ。私はやらなくてはならない。私にできることなんて、他になんにもない。仕事も人の名前も覚えられない。バスや電車で立ったままでいるとパニックになることがあって、約束の時間すら守れないこともある。そんな私が自分のペースでできる仕事があるのであれば、私はぜひ、それをやってみるべきなのだろう。
「京香!京香!聞いているの?」
佳奈の呼ぶ声で、現実の世界に舞い戻る。
「私、やってみようと思う。佳奈がそばにいるから、きっとがんばれる」
「きっとあなたの中の本当のあなたが今、目覚めようとしている。私はあなたと一緒にいて、あなたは素晴らしいものを持っているとずっと思っていた」
「でも、私は役に立ったことがない。大学を卒業してから、なんとか自立しようとしてきたけれど上手く行かない。誰も私に期待していない。私がそこにいても、いないものとして扱われてしまう」
「その人たちがあなたに下す評価が、あなたのすべてではない。その人たちの知らないあなたがいる」
「そういうものなのかな?」
「そういうものです」
「佳奈!お願いがあります」
「何?」
「パソコンとカメラ買いたいのでお金貸してください」
「ええーっ。私だって、お金ないよ!」
「お母さんにこれ以上、頼めない」
「うーん。仕方ないな。有名なユーチューバーになって絶対に返してよ!」
「なれるかどうかわからないけど、やってみる」
子供たちの作った動物の姿をした焼き物がずっとこちらを見ていた。熊とか猫とか犬とか。西の海に陽は沈もうとしていた。この街も、お日様も、はるばるやって来た私たちを祝福してくれているような気がした。そして、何かやらずにはいられないあの衝動が、長い間の沈黙を破って、私の元を訪れたようだった。
【美咲】
単調な毎日が続く。可もなく不可もない。払い出し、ラミネート、露光・現像、エッチング・剥離、検査、積層、穴あけ、銅メッキ、それからまたラミネート。就業時間中、単調な作業をずっと繰り返す。休憩は午前と午後に一回。機械のように迅速で正確な作業が求められる。本当は機械で全部やってしまえればいいのだろう。流れてきたロットの情報をバーコードリーダーで読み取る。次に処理すべき工程とそのレシピ番号が表示される。間違いがないか確認する。私たちは装置を動かして製品を作っているには違いないが、肝心な処理をしているのは装置であって、私たちはアシストしているだけだ。装置が休みなく稼働するように私たちが付帯している。それでもやはり、私たちがいないと生産が滞る。ちょっとした間違いで損害が出てしまうこともある。仕掛品に応じてレシピを選択するだけのことだが、迅速に正確に対応する必要がある。そんなあたり前のこともできない人が時々いる。そういう人が一人でもいると周りが迷惑する。会社だって損をする。私たちはボランティアでやっている訳ではないのだ。役割を果たして、お金をもらっている。就業時間中はずっと張り詰めた気持ちでいる。仕事が終わるとほっとする。ロッカー室で作業服を脱ぐとスイッチがオフになる。これからしばらくは、急かされなくても済む。着替えてから、門に向かって構内を歩く。ゲートに社員証をかざして通り抜ける。工場の敷地の外に出る。さっそくスマートフォンを取り出して、ゲームを起動する。現実の世界にある道路が画面にも表示されている。位置情報が取得され、私のいる位置にアバターが表示される。店舗や家屋はなく、ゲームに必要なリソースが幾何学的な様式で描かれている。すぐ近くにある青い四角の標識のようなものをタップすると画面にディスクが現れるので、指で弾いて勢いよく回転させる。するとゲームで使うボールや回復薬がドロップする。ボールを使ってポケモンを捕獲し、バトルが終わった後に消耗したポケモンに回復薬を与える。画面をスクロールして、近くでレイドバトルが発生していないか確認する。一日に一枚、無料のパスが配付される。このパスを使って、レイドバトルに参加することができる。同時に二枚持つことはできないので、毎日消化しなければならない。毎日ゲームに参加してくださいという運営元の意図にまるまる踊らされているという訳だ。レイドバトルは強力なボスポケモンをプレイヤーが何人かで協力して倒すものであり、一人では到底勝利できない。なるべく人がたくさん集まる場所でないと成立しない。工場の最寄り駅の近くにあるジムには人がよく集まる。ここはJRと地下鉄と名鉄の駅が交錯した分岐点になっていて、行き交う人々が多い。ちょうどよいことに、かぼちゃの置物が目印になっているジムであと十分くらいすると伝説ポケモンのレイドバトルが始まる。時間つぶしにポケストップを回してボールを集める。近くにいるポケモンを捕まえる。珍しいポケモンではないが、ポケモンを一匹捕まえると、ほしのすなが百もらえる。ポケモンを強くするためには、大量のほしのすなが必要になるので、珍しいポケモンでなくてもたくさん捕まえなければならない。近くに、スマートフォンを見ながら立ち止まっている人が何人かいる。おそらく私と同じように、レイドバトルが始まるのを待っている。かぼちゃの置物のジムの上には銀色に眩く輝く巨大な卵が載っている。その上でデジタル表示のダウンカウンターが残り時間を刻んでいる。数値がゼロになって卵が割れ、光を放ちながら伝説のポケモンが出現する。始まった。ジムをタップしてパスを投げ入れる。参加者のアバターがロビーに並ぶ。人数は上限の二十人に達している。これだけいれば、一瞬で終る。待機時間が終わってレイドバトルが始まる。スマートフォンの画面を指先で叩く。できるだけ短い間隔で連打する。周りの人も同じことをしている。何も知らない人にとっては、異様な風景かもしれない。人数が多いので、討伐はすぐに終わる。報酬が表示される。ふしぎなアメがほしかったが、回復薬ばかりだった。仕方ないと思いながら、捕獲画面に進む。個体値はあまり良くない。でも、強化するのにアメがたくさんいるので、捕まえなければならない。ボールを何度当てても、なかなか捕まらない。十回当ててようやく捕まった。これで今日のパスは消化することができた。平日は仕事が終わってからの活動になる。無料パスを消化するので精一杯というところだ。今日は運よく、場所も時間も都合の良いところに出現してくれた。ポケモンGOは、リリース直後は本当にものすごい人気だったが、今ではプレイヤーはかなり減っているらしい。昔、一緒にプレイした人にたまたま会って、まだ、やっているのと聞かれることもある。まだ、やっていますと返す。私は私なりに、楽しんでやっている。休日に公園に出掛けることも多い。ポケモンGOをやるまでは、自宅と職場を往復するだけの味気ない暮らしで、市内にどんな公園があるかもあまり気にならなかったが、今では地下鉄の一日乗車券を買って、あちこちの公園に出掛けている。美術館とか、水族館とか、きちんとした施設にそれなりの料金を払うことに比べたら、一日乗車券のみで事足りる随分と安上がりな遊び方だと思う。歩き回るので健康にも良い。実際、ポケモンGOをやり始めてから、体重が五キロ落ちた。ポケモンなんて、今まで全然、関心がなかったのに不思議なものだ。近所で同じようにポケモンをやっている人と挨拶を交わすようになった。ゲームの対策を紹介しているサイトや活動を紹介している動画も見ている。バトルの細かいことを説明している動画は苦手だが、色違いのポケモンを求めて、一日中徘徊しているような動画をみると、つい笑ってしまう。色違いに出会える確率は五百分の一と言われている。本当に五百回近くタップする人がいるというのはちょっと信じられないが、動画に色違いの捕獲画面が出て来るということは、本当にやっているのだろう。そこまでして、本人が楽しんでいるのかはよくわからない。ユーチューバーは、とにかく視聴者を増やさなければならないだろう。注目を集めるようなことをして、チャンネル登録者を増やして、視聴者を増やさないと、食べて行くことはできないだろう。でも、好きなことをやれているなら、それでいいのかもしれない。私は会社にしがみついて、なんとか生き延びている。学習ドクターの動画が終わった。画面にお勧め動画が表示される。ポケモンGOのユーチューバーも増えて来たなと思う。何も考えずに次を再生をタップする。髪の長い女の子がにっこり笑って話している。一瞬、目を疑った。この子を見たことがある。ずっと前に一緒に働いていた。いや、働いていたというのではない。全然、戦力にならないので。掃除だけしていてくれればいいとみんなで決めたあの女の子だ。その後、すぐに辞めてしまった。あれからどれくらい経ったのだろう。三年、あるいは五年くらい経っただろうか。その女の子がスマートフォンの画面の中でポケモンの話をしている。話し方も以前と同じだ。時々、言い間違いをしている。でも、バカという感じはしない。ちょっと天然なのかもしれないと、聞いている人を安心させるような話し方をしている。あの時、私たちのチームは実質一人欠けていたようなものだったから、いなくなって良かったと思った。仕事のできない人が混じっているのは迷惑だった。今でもそう思っている。私たちは自分たちの能力と時間を会社に捧げて、その時間内で精一杯働いて、その対価としてお金をもらっている。時間内に成果を上げられない人間が対価を受け取るべきではない。仕事のできない人間は他人に迷惑をかけるだけだ。そんな人間の面倒を見たからと言って、私の評価が上がる訳ではない。でも、どうだろう。全然、仕事のできなかった子が、こうしてポケモンの動画の中で元気な姿を見せている。不特定多数の人に向かって話しかけている。チャンネル登録者数はまだ五千人くらいだが、同じことをやってみろと言われたら、私にはできないだろう。一日に一回は動画を上げているらしい。編集は自分でやっているのだろうか。装置の動かし方も理解できなかったのに。でも、元気そうで安心した。止むを得なかったとは言え、私たちが追い出したようなものだったから。
【京香チャンネル】
鉄琴が奏でているのだろうか。簡素な打楽器の高温と低音の単調な繰り返しでリズムを刻む。そこに木管の軽快な音色が加わる。曲の名前は知らない。でも、どこかで聞いたことのあるような旋律。のどかな音楽。
「こんにちは。京香です」
いつもの挨拶。サムネールに続いて、京香さんの笑顔が映る。右の手のひらを見せて、首を横に傾げている。笑顔で目が細くなっている。
「本日は、鶴舞公園にやって参りました。イーブイのコミュニティデイ、がんばって、イロチをたくさんゲットして行きたいと思います。イーブイは進化先が多いので、あれ、いくつだっけ?六つか七つ?たくさんイロチをゲットしたいと思っております」
背景が映し出される。公園の中央にある池の前を人々が過って行くのが見える。池の中央まで渡れるようになっていて、そこには噴水塔がある。西洋風の建築物。大理石の柱が真っ直ぐに延びている。この池を上空から見るとモンスターボールのように見える。歩獣をする人にとっては聖地のような場所だ。日本で初めてレベル40に達したトレーナーが、経験値を溜めていたのも、確かこの公園だった。動画の右側にゲーム画面が現れる。そこに京香さんのタップしたイーブイが映る。残念ながら、普通の色だ。イーブイは茶色の毛並みをしたかわいい四つ足の歩獣だ。色違いは真っ白な毛並みをしている。通常は、五百分の一と言われている色違いの出現確率が、コミュニティデイでは二十五分の一くらいに上がることになっている。鶴舞公園にはポケソースもポケストップもたくさんあるので、プレイヤーがたくさん集まって来ている。京香さんが並木道を歩きつつ、ポケモンをタップする。画面には幾度も通常色のイーブイが映し出される。残念という声がする。十回目くらいになって、遂に色違いのイーブイが煌びやかなエフェクトと共に出現する。
「ようやく、本日初めてのイロチが出て来てくれました。それでは、さっそくゲットして行きたいと思います」
京香さんがそう言ってから、動画の右側に映し出されたゲーム画面の中でボールが回転を始める。スマートフォン上で指を回してカーブを掛けている。
「そーれ」
京香さんの掛け声と共にボールが弾き出されて、色違いのイーブイに向かって、綺麗な弧を描く。ボールが当たると、イーブイがその中に吸い込まれる。ボールが揺れる。ポケモンが飛び出そうとしている。
「一揺れ、二揺れ、三回。やりました。色違いイーブイ初ゲットであります」
京香さんのうれしそうな笑顔が映る。昨日あったことが、今日、動画としてアップされている。みんな、昨日あったことを思い出している。イーブイのアメをたくさん集めて、色違いをたくさんゲットする。ゲームに夢中になっているプレイヤーはそんなことを三時間も続ける。そんなことをして楽しく過ごしたことを、京香さんの動画を見ながら思い出している。
「さて、どんどん行きましょう。ここのヒマラヤ杉の並木道の右手には像があります。踊り子と呼ばれています。ジムにもなっております。ここはですね。名古屋で初めて、EXレイドが行われたところであります」
そう言いながら、京香さんは奥の方へとどんどん進んで行く。
「こちらが音楽堂となっております。音楽の催しがこの辺りで行われることがあります。あれっ? 野外ホールだったかな? 音楽堂の隣がバラ園となっておりまして、その向こうに野外ホールがございます。ホールの客席でいつも麻雀している人を見かけたことがあります。今日はいるでしょうか。今日はポケモン勢が多いので、なんだこの人たちはと思っているかもしれないです。ここはですね。いつだったか、ゴールデンウイークの最中に来たら、フォークソングの野外コンサートをやっていました。プロの方ではないですけど、みなさんとてもお上手でしたね。私、ポケモンはしばらく中断して、ずっと聴いていました。いいものですね」
京香さんはコミュニティデイを楽しみながら、公園内の様々な風景を映し出していた。噴水塔。ヒマラヤ杉の並木道。踊り子の像。音楽堂。バラ園。野外ホール。ポケストップやジムも、その土地の特徴的な建物や記念碑と結び付けられている。私たちは部屋にこもって、レアアイテムが出るまで課金して、ゲームをやっている訳ではない。位置情報と時間に紐付けられた電子データの操られてはいるが、現実の空間の中を歩いている。そして外に出る機会が増えて、今まで気付くことのなかった多くの事柄に触れるようになった。
「もうすぐ終了であります。今日は今までのところ、一、二、三、・・・七匹のイロチをゲットであります。それではイーブイを進化させてみたいと思います。進化先が被ったら数が足りないかもであります」
ブースター、シャワーズ、サンダースはランダム進化だから、イロチを進化させた時に都合良く揃うとは限らない。京香さんはブースターが三匹出て、後はシャワーズ、サンダースだった。
【京香】
ユーチューバーをやるために必要な最低限のもの。まず、カメラ。動画の元となる映像を撮影する。値段はピンキリ。こだわりたいところはいくつかある。室内や逆光でも顔を明るく写し出せるか。肌を滑らかに自然な色合いで再現できるか。風の強い屋外でもしっかり声を録音できるか。次にパソコン。動画を編集するためにスペックの高いパソコンがいる。それから動画編集ソフト。無料のソフトでも使いきれない程の豊富な機能が入っているが、みんな有料のソフトを使っているらしい。私に使いこなせるかどうかはよくわからない。画像・BGMは無料で使える素材があるらしい。マイクも良いものがほしいが、そんなにあれこれ持ち歩けないかもしれない。全部揃えるとそれなりの金額になるが、手が届かないという程でもない。撮影・編集して動画を上げるだけなら、誰にでも簡単にできる。でも、収入を得るためには、再生回数を大幅に増やさなければならない。一回の再生での広告収入は0.1円にしかならない。十万回再生して、やっと一万円になる。それで食べて行くのは相当たいへんだ。地道にチャンネル登録者数を増やして行くしかない。そうすれば繰り返し見てくれるかもしれない。そのためには、喜んで見てもらえる動画、楽しんでもらえる動画を作って行かなければならない。上手く行くかどうかはわからない。ポケモンGOを扱った動画を配信して行くことになるのだが、私はポケモンのことについて、そんなに詳しい訳ではない。オリジナルのソフトでどのポケモンがどんなふうに活躍していたとか、そんなことは話せない。運動神経の方もアレだから、バトルでのテクニックや戦略について語れる訳でもない。私のやりたいこと。障害が元で引き込んでいた私が外に出るようになったきっかけのようなものを伝えて行ければと思っている。どうして外に出たいと思ったのか、自分でも明確に理由を理解している訳ではないが、心から楽しいと思えたその時の気持ちを再現しているような瞬間を捉えて、伝えて行きたい。それから、ポケモンがきっかけで訪れることになった土地のことをしっかり伝えたい。ゲーム内のポケストップやジムに紐付けられた建物や像といった何かしらの建築物。その影響を受けて、人々は暮らしている。時が流れ、その時にいた人々がいなくなっても、コンクリートや青銅でできた硬い建築物は形を留め続け、この先もずっと人々に影響を与え続けるだろう。このゲームは、土地と人の関係を意識して作られているような気がする。その目的に沿って、訪れた場所をしっかり紹介して行きたいと思っている。自分にどこまでできるかわからないけれど。でも、やるしかない。仕事をしても人に迷惑を掛けるだけで何もできなかった。何かができる場があるということだけでも、私は幸せだ。
【美咲】
レイドバトルで知り合った人とラインを交換した。いつも原付バイクに乗って、レイドバトルを開催しているジムにやって来る。今度、一緒にレイドバトルデイに行こうと相談している。他にも誘ってくれる人は何人かいる。ゲームを始めてすぐに知り合った近所のおじさん。おじさんというよりは、おじいさんに近い。軽自動車でジムを渡り歩いているちょっと太めのおじさん。既婚者ばかり。みんな、休みの日に奥さんと一緒に過ごさないのだろうか。趣味が違うとお互い干渉せずに自由に行動するものなのだろうか。でも、旦那さんが自分の知らない女の人と一緒に過ごしていると知ったら、良い気はしないかもしれない。別にいやらしいことをしている訳ではない。一緒にポケモンを追いかけているだけ。私が未婚だから、誘いやすいのかもしれない。そんな既婚者の相手をするのではなくて、本当は彼氏と一緒に過ごしたい。旅行に行く時も女ばかり三人だ。好きな人とふたりきりで知らない土地を訪れて、一緒に温泉に入ったりしてみたい。まずは彼氏を作らなければならないが。そのきっかけになるかもしれないレイドバトルデイ。どこに行こうか、考えている。デートという訳ではない。デートだったら、男の人があれこれ迷うかもしれない。でも、そういうのではない。ただのゲームだ。このゲームは日常生活の場さえ、冒険に変えてしまう。だから、気楽な感じで出掛けられれば良い。ラインで何度かやり取りしているうちに、栄に行くことになった。ジムも多いし、人も集まりやすい。久屋大通公園に沿って歩けば、数もこなせそうだ。待ち合わせ場所は、久屋大通公園の南端の噴水のあるところにした。大きな道路を挟んで南側にはフラリエがある。そっちの方には行かずに、三角錐の形をした噴水のところからスタートして、北上するというプランだった。当日は、開始十分前にようやく着いた。身支度に時間をかけすぎた。バスに乗って、こちらにやって来るのが久しぶりで時間を読み間違った。彼は噴水の周りにある大理石のところに座っていた。スマートフォンをちらちら見ながら、私を探していたようだった。もう少し早く来れば良かった。心証を悪くしたかもしれない。目が合った。私を見つけてほっとしているようだった。
「ごめんなさい。遅くなりました」
「僕もさっき来たところだ。思ったより人が多いね」
噴水の周りには、スマートフォンの画面を見ている人がたくさん集まっていた。みんな、レイドバトルデイの開始を今か今かと待ちわびていた。こんなに多くの人が同じことに夢中になっているのは、少し不思議な感じがしたが、率直に言ってうれしかった。まだ、そんなゲームをやっているのという人もいる。もともと、そんなことに大切な時間を費やすのはまったく無駄という人もいる。そうかもしれない。週末はMBAでライバルに差をつけるというような人たち。自分の成功を信じて努力している一部の限られた優秀な人たちは、週末になっても遊んだりせず、自己啓発に注力している。あいにく、私はそんなにできる人間じゃない。工場に勤務する単純作業の労働者にすぎない。
「始まった。入るよ」
黒川さんが言った。すべてのジムの黒卵が割れて、伝説のポケモン、フリーザーがジムの真上で羽ばたいている。黒川さんと一緒に噴水が目印のジムにパスを投入する。同じグループに入れたら良いのだが、違った。
「同じグループじゃないね。みんな一気になだれ込んだのだろうね。いったん出よう」
スマートフォンの画面に表示されているロビーからいったん退出する。仲の良いプレイヤー同士が同じグループに入ってレイドバトルを行うともらえるボールの数が増えてポケモンを捕まえやすくなる。何度か試して、やっと同じグループに入れた。画面に黒川さんのアバターが写っている。黒い服に黒いズボン。肌の色も黒っぽくしている。髪は白くして、サングラスをかけている。待機時間が過ぎて、レイドバトルが始まる。噴水の周りに集まった人たちが皆、スマートフォンの画面を指先で連打している。参加者が多いので、あっという間にけりがつく。報酬が画面に表示される。続いて獲得したボールの数が表示される。OKを押して、捕獲画面に進む。色違いではなく、普通の色だった。今日は何分の一かの確率で色違いが出るということだった。みんな、それを狙っている。三時間のうちに何回できるかわからないが、せめて一体は色違いを出したい。
「どうだった?」
「普通」
黒川さんも普通だったようだ。気を取り直して次のレイドバトルに移る。噴水の隣には、ノアの箱舟という名前のジムがある。金属のパイプを船の骨格のように組み合わせてできた巨大な美術品が空に向かって聳えている。ジムをタップして、パスを投入する。黒川さんは、いつもは課金しないが、今日は張り切って何回でもやるつもりのようだった。どうせ一回分、百円くらいだ。でも、八月のこんな暑い日に、午後一時から三時間も炎天下の中、動き回るのは、ちょっときついかもしれない。バトルが終わって捕獲画面に進む。また、普通だった。黒川さんも私も。まだ、時間はたっぷりある。市内を縦断する南北に長い公園。所々、車道で遮られている。そこで信号待ちになる。陽射しが直撃しないよう、木陰で待つ。こんな暑い日に、歩き回るなんてどうかしている。長時間プレイするのでモバイルバッテリーによる充電は欠かせないが、スマートフォンがとても暑くなるので冷却シートを持って来た。もう十五戦しているが、二人共まだ色違いは出ていない。どれくらいの確率なのだろう。十回くらいで出るのかと思っていたが、意外に出ない。黒川さんの表情にも焦りが見える。こんな暑い中をもう二時間以上もプレイしている。十六戦目が終わる。画面に報酬が表示されて行く。正直なところ、もう報酬はどうでも良い。色違いさえ出れば。捕獲画面に進むための表示に触れる。画面に伝説のポケモン、フリーザーが現れる。光った? 色違いが出現した時の煌びやかなエフェクトが表示された。画面の中央を通常の色より少し薄い青色をしたフリーザーが羽ばたいている。やっとだ。笑みがこぼれる。伝説の色違いはボールが当たれば、捕獲が確定されるから、安心してボールを投げる。一、二、三回揺れた。色違いゲットだ。やっと出た。黒川さんがこちらを見ている。普通だったようだ。
「おめでとう。美咲さんだけでも出て良かったよ」
黒川さんは悔しさを隠すようにそう言った。私、ついうれしくなってしまって、なんだか申し訳ない気がした。
「まだ、時間があります。最後まであきらめないで続けましょう」
そう言って、私たちは久屋大通公園を北上し、そこから一つ隣りの通りを南下して来た。三時間フルにレイドバトルをやった。二十一戦やって、私が一回色違いを出しただけだった。渋すぎる。黒川さんは悔しいに違いないが、私に気を遣って、感情を抑えているようだった。
「今日は楽しかった。また、遊んでください」
そう言って、私たちは別れた。一緒にプレイできて、とても楽しかった。また、一緒にプレイできるといいなと思った。
【京香チャンネル】
「こんにちは。京香です。本日はフリーザーのレイドバトルデイの報告をいたしたいと思っております。みなさんはどうでしたか。イロチゲットできましたか。私は、栄の方に行きまして、三時間フルにポケ活しました。それでは、ご覧ください」
翌日になって、アップされた京香さんの動画を見る。彼女は私たちの近くで活動していたようだった。運が良ければ出会えていたかもしれない。運が良ければ? 出会って何を話せば良いというのだろう。きっと話すことなんてない。有名になった彼女は私のことなんて覚えていないかもしれない。あるいは、ものすごく嫌な奴として、彼女を職場から追い出した首謀者としての私を憎しみの対象としてしっかり覚えているかもしれない。動画の中の彼女はいつも笑顔で話している。素敵な笑顔。媚びているのでもない。はしゃいでいるのでもない。作っているのでもない。対面する人を楽しくさせる。警戒を解く。安心させる。眺めているだけで、見ている人間の心が慰められる。そういう人間が、とても稀な確率で存在する。いつもせかせかしている職場ではなくて、もっと別の場所で出会えたなら、私たちはとてもいい友達になれたかもしれない。久屋大通公園が映し出される。噴水。前衛的なオブジェ。盲導犬の像。テレビ塔。ポケモンじゃなくても、親しい人と歩けば十分に楽しめる。
「さあ、本日、十一戦目です。どうでしょうか。イロチ来い!」
彼女が、そう言った瞬間、きらきら光るエフェクトと共に色の薄いフリーザーが翼をはためかせて、画面の中を上下に動いていた。
「うれしい。やっと出ました。それでは捕まえて行きたいと思います。そーれ」
京香さんの掛け声と共に、カーブのかかったボールが緩やかな軌道を描きフリーザーに向かって行く。ボールが的中する。効果音と共にポケモンがボールに吸い込まれる。そのまま、三回揺れる。
「色違いフリーザー初ゲットであります」
このイベントは色違いが出るか出ないかで、かなり明暗が分かれる。確率は二十分の一と言われているが、二十回やれば必ず出る訳ではない。そして運悪く色違いに出会えず、リベンジを誓っても、同じようなイベントが今度いつ開催されるのかわからない。黒川さんも悔しい思いをしたに違いにない。二体出ていたら、一体交換してあげられたのに。三時間も続けたなら、一体くらい出ても良いのに。
「みなさんの方はどうでしたか? イロチ捕れたでしょうか? それでは本日は、これまでです。ご視聴ありがとうございました。もしよろしければチャンネル登録お願いします。京香でした」
京香さんのチャンネル登録者数は順調に伸びている。すでに二万人を超えている。簡単にできることではない。この子は人を惹きつける何かを持っている。器用な人間には見えない。それは以前、職場で見た通りだ。言葉も時々、間違える。地名も時々、間違えている。でも、その姿を見ていると安心して、思わず微笑んでしまう。私たちはいつも何かに急き立てられるように仕事をしているから、ゆっくり話す彼女の姿を見て安心するのかもしれない。本当は自分もそんなふうに生きて行きたいと思っているのかもしれない。彼女のやっていることは、私たちが普段やっていることと変わらない。色違いを求めて、高個体値を求めて、ポケモンを追い続けている。でも、どこか芯の強いところがあると感じることがある。彼女をユーチューバーにした原因。何か特別なものをひしひしと感じることがある。強い情熱。何にも増して、対象が何であっても、強い情熱は人を惹きつける。私たちがいつもそうありたいと望んでいる自分の姿を目の前で体現してくれている。
【佳奈と京香】
「チャンネル登録者数が二万人を超えるなんてすごい。やっぱり京香には才能がある。私の思った通りだ」
「でも、十万回再生でやっと一万円だからね。佳奈に借りたお金もまだ返せていない」
「ユーチューバーで食べて行くのもたいへんだね」
「正直なところ、食べて行くのはたいへん。でも、撮影も編集も、もっとがんばりたい。ようやく私にできることが見つかったのだから」
「そうだね。地道に活動を続けて行ければいいね。欲張ってはいけない」
「紹介したい場所もたくさんある。あと、もう少しおしゃべりが上手くなれたらと思う。ポケモンを紹介している他のユーチューバーのみなさんの動画を見ていると、私なんてまだまだと思う。みんな、テンポが良い。歯切れが良い。発音もしっかりしている。私なんて、しょっちゅう言葉を間違えるし、単語も忘れてしまってすぐに出て来ないことが度々ある」
「そうかもしれないけど、あなたはそれで良いと私は思う。それがあなたの魅力だと思う。言葉を間違える、話そうとしたことを忘れてしまう。聞いている人はそれで安心するかもしれない。みんな、気の抜けない人生を送っている。仕事中はずっと緊張している。一瞬でも気を抜くとライバルに出し抜かれたり、上司の機嫌を損ねたりすることになる。そんな人生を誰もが望んで送っている訳ではない。時代に巻き込まれて仕方なく、そうしている。そんな時に、あなたの笑顔を見て、あなたのゆっくりとした話し方を見て、あくせくするのではなく、伝えたいことをしっかり話せば良いのだと気付く。そう思った人は次々にあなたのチャンネルを登録する」
「そうかな?そんなに上手く行くかな?」
「そうだよ。みんな息が詰まるような思いをしながら生きているんだよ。ちょっとしたミスでもすぐに咎められる。そんな時代に、京香が、あれ、間違えたなんて言いながら、動画の中でしゃべり続けている姿を見ると、なんだかほっとする。私も京香の動画を見て、いつもほっとしている。笑わせてもらっている。感動も与えてもらっている。スキのない人は他にたくさんいる。それはそれでいい。でも、親しみがもてるのとは違う。だから、あなたはあなたの良いところをそのまま出して行けばいい」
時々、とても不安になる。普通に仕事ができない。工場で働く機会をもらったが、あなたのすることはないと言われてしまった。障害者が働けるというパン屋さんにも行ってみたが、結局、雇ってはもらえなかった。どこにも私の居場所がなくて、記憶が飛んでいる時期もある。記憶が戻ってからも、自信を失くして引きこもっていた。だから、立ち直るきっかけになったポケモンの紹介をするということ以外、何もできていない。これをずっと続けて行くのだろうか。いや、続けて行けるのだろうか。チャンネル登録者数も再生数も増えているが、いつまでも都合よく行くとは思えない。視聴者のみなさんが私に飽きてしまったら、私の動画を見てくれなくなる。そうなったら、私は再び居場所をなくしてしまうのだろう。その時はどうすれば良いだろう。また、引きこもることになってしまうのだろうか。また、記憶をなくして、心療内科に見てもらうのだろうか。いま、やっていることも無駄なあがきなのかもしれない。私なんかが、そんなに上手くやっていける訳がない。でも、応援してくれる人がいる。初めは佳奈だけだった。今では、チャンネル登録をしてくれた人がたくさんいて、いろいろなメッセージを送ってくれる。その中に、障害者の方もいた。私は障害者で、なかなか自由に出歩くことはできないけれど、京香さんの動画を見ていると、私もそこに行った気分になりますと書いてくれている。そんなコメントを読んでいると、そういう人たちにも喜んでもらえるよう、私もがんばろうという気持ちになる。もう、自分のことばかり気にして、身動きが取れなくなるのはやめよう。将来のことなんて、考えてもわからない。私は今、ポケモンのユーチューバーをやること以外にできることがない。他に何もできないのなら、できることを精一杯がんばるしかない。十年後、二十年後にどうなるかなんてわからない。私は、私と同じように障害で苦しんでいる人のために、どんな些細なことでもいいから力になりたい。
【美咲】
ポケモンGOが出始めた頃は、今のように盛りだくさんの機能はなかったが、珍しいポケモンを追いかけるということだけで、けっこう楽しめた。追いかけると言っても、いつどこに出現するのかはわからない。そんな状況で人気があったのがサーチアプリだった。どういう方法を使っているのかはよくわからないが、現在、出現中のポケモンをマップに表示させることができた。自分の欲しいポケモンだけ表示させるようにフィルタを設定することもできた。自分の探しているポケモンが半径〇km以内に出現したなら、バイブレーションとメッセージで通知を受け取ることもできた。みんなが欲しがるポケモンは進化させたら強くなるものだから、だいたい同じになる。そうすると地上の同じ位置にサーチアプリに導かれた人たちが集まることになる。個体値の良いラプラスがとある公園に出現した時はもう大変で、プレイヤーの車で道路が塞がってしまっていた。私も自転車に乗って、追いかけていた時期がある。そんなちょっとずるいかもしれないと思ったけれど。その時に、いつも私と同じ方向に向かう電動車椅子を見かけた。手足の短い子供がちょこんと乗っていた。その後ろ五メートルくらいのところに、つかず離れずという感じで、母親らしき人物が追いかけていた。車の流れが絶えることのない国道の脇の歩道を、電動車椅子はずんずん進んで行く。その子は私が目指している座標と同じ目的地を目指しているに違いなかった。高個体値のレアポケモンを捕まえれば、ジムの一番高い所に自分のポケモンを配置することができる。その子も同じことを考えているに違いなかった。そんな昔の思い出を黒川さんに話してみる。コミュニティデイが終わって、私たちはコーヒーショップでひと息ついていた。
「引きこもっていた人たちがポケモンを追いかけて外に出るようになったという話を何度か聞いたことがある。鬱になってしまった人。身体障害者。その子もそうなのかもしれない」
「ポケモンが良い影響を与えているということかしら?」
「外に出て、他人と接触しても楽しくない。そう思っていた人たちがポケモンを追いかけて外に出るようになる。他人や社会との距離は今までと変わらない。でも、家でじっとしていなければならないということはない。僕は好きにすればいいと思う。電動車椅子があちこち走るようになって、それが普通になるかもしれない」
確かにポケモンをするようになって、外に出る機会は格段に増えた。いろいろな場所に出掛けるようになった。珍しいポケモンを手に入れたいと思う気持ちは、みんな同じに違いない。
「暑い中、歩いて電動車椅子を追いかけているお母さんもたいへんそうだった。その子とは一日に三回同じポイントで遭遇した。私は自転車で走り回っているから大丈夫だったけれども、歩きのお母さんはたいへんだったに違いない」
「みんな同じようにゲームに踊らされている。病気や障害で引きこもってしまった人たちも引きずり出される」
「ゲームのおかげで、黒川さんとも出会えた。今はこうして一緒に出掛けてもらえるようになった」
「こちらこそ、付き合ってもらって、いつもありがとう。誰かと一緒に遊ぶ機会が今まであまりなかったから率直にうれしい。それも女の子と一緒に」
人の行動は急には変わらない。積み重ねられた体験が、記憶という仕組みに蓄積されて、現在の行動を決めている。経験の総量が、一番得になる行動を引き出し、生き方を決めている。どうすれば楽しめるか。どうすれば心地良い気持ちになれるか。どうすれば苦しみを避けて通れるか。どうすれば利益を最大にできるか。過去に自分の取った行動に対して、最も褒賞の多かった行動が評価される。経験が少ない程、しがらくも少なく、行動が大きく変わる可能性がある。年老いて来ると、十分に経験が蓄積されて、行動に対する期待値もかなり正確なものになってきて、今までにない行動が選択肢に入って来る確率は極めて小さなものとなり、行動の幅が狭まって来る。そんなふうに生きている私たちの行動が、ある日、突然、変化したのなら、経験の蓄積によって今後の行動を決めるシステムそのものも大きく変化したことになる。今までの経験の総量をひっくり返してしまう出来事が一瞬にして起きたということになる。黒川さんや私の行動も変わった。電動車椅子に乗ったあの子の行動も大きく変わった。日中、人目に付く程の間、障害者が電動車椅子で行動し続けるなんて今まで見たことがない。ずっと家にいたに違いない子供の行動様式を変えてしまった何かがある。位置情報と紐づいたゲーム。元になるコンテンツの開発は、数十年間、惜しみなく続けられて来た。そのコンテンツと結び付いた位置情報ゲーム。馴染みのあるコンテンツと新しい仕掛け。今までになかった体験が、すっかり行動を変えてしまう。そういうことが人生には何度かある。
【京香チャンネル・美咲】
「こんにちは。京香です。今日はドラゴンウィークということで、色違いのフカマルやモノズを探して行きたいと思います。それから、ミニリュウですね。わたくし復帰勢ということもあり、ピンクのミニリュウを一体だけ交換してもらいました。その大切な一体をカイリューに進化させましたけど、なんかイメージが違っていて、緑っぽくなってしまいました。そういうわけでピンクのミニリューを求めて、一日、がんばって行きたいと思います」
部屋でゆっくりしている時に、よくポケモンの動画を見ている。情報収集もある。京香さんの動画は情報収集にはあまり役に立たないが、つい見てしまう。飾らない人間の魅力に満ちている。あの時、私たちの職場に迷い込んで来た何もできない女の子と、二万人を超えるチャンネル登録者数を持っているユーチューバーが同一人物だとは、今でも信じられない。あの時、足手まといでまるで戦力にならなかった女の子。仕事を教えても使い物にならないと誰もが思った女の子。ユーチューバーで食べて行くのはたいへんだと思うが、少なくとも今、二万人を超える人の注目を集めている。私がどれだけがんばっても、そんなことは決してできない。私は引け目を感じているのだろうか。役に立つとか立たないとか偉そうなことを言っていた自分は、本当は誰の注目も集めることのできないつまらないちっぽけな人間で、本当は才能のある女の子を平気で貶していたのだ。
【京香チャンネル・佳奈】
「おっと、ビブラーバが野性湧きしています。私、野生で見たのは初めてかもしれません。テンション上がりますね。でも、イロチはなかなか出ないですね。セットしたまごが「おやって」来ました。それでは七たま九連割り、気合を入れて行ってみたいと思います。一つ目、なにが出るかな? 何かな? おっと、ミニリュウでした。普通のミニリュウです。色違いではありません。ま、良しとしましょう。次、行きます」
京香は変わった。あの子、こんなに話がうまかったっけと思うことが多くなって来た。慣れて来たのかもしれない。相変わらず物忘れが激しくて、しゃべりながら、あれ何だっけ?みたいなことを口にしている場面も多いけれど、それも一連の流れの一部であるように感じる。わざと忘れた振りをしているなんてあの子に限ってあり得ないが、その素振りを見せるだけで、見ている人は親しみを覚えるに違いない。ポケモンをネタにしているユーチューバーのみなさんの中には、もっと上手に話す人が何人もいる。でも、上手に話すことが魅力という訳でもない。はきはき話すアナウンサーに親しみが持てるというのではない。娯楽であれ、何であれ、個性というか、独特の言い回しというか、何でもいいから何か人を惹きつける魅力がないと、ずっと続けて見てはくれないだろう。きっとそれは京香の生まれ持った資質に違いない。子供の頃から彼女を見ていて、漠然と感じていた何者かの存在が、今、この時になって明確な形を現すようになった。本来、それは自然に、泉から湧き出す澄んだ水のように自然に出現することが望ましかったが、彼女にとってはとてもつらい経験を経て、地獄へ突き落されるようなつらい経験を経て、ようやくこの世界に姿を見せることになった。三年間、記憶が欠落しているのだ。その時期には、哀しみも喜びも感じなかったと本人は言っている。彼女が生きようとする姿勢を決して認めなかった要因の数々。この広い世界の中に自分の居場所が何処にもないと感じた時の絶望感。京香はその時に徹底的に壊されてしまった。そうなる前に守ってあげられなかったのがとても悔しい。もしかしたら、永遠に失われてしまったかもしれなかった。ずっと記憶が戻らなかったかもしれなかった。でも、彼女はそこから戻って来た。深手を負った時に、それだけは守らねばならないと感じた彼女の本能が、外部からの攻撃をすべて遮断するための方策として、一時的に感情を放棄するという緊急手段に出たのかもしれない。きっと、京香の中にある一番大切なものは、そうして生き長らえて、再び顔をのぞかせる時期をうかがっていたのだろう。そして今、ようやく活躍の場を得た。感情が戻ってからも、相変わらず居場所を見つけることができずに腐っていた彼女はポケモンGOと出会って、少しずつ元気になっていった。それは今までのゲームとは根本的に異なる特性を持っていて、京香の中で深い眠りについていた彼女の本性を呼び覚ますきっかけになったのかもしれない。それから、彼女の挑戦が始まった。短期間のうちにたいへんな努力をしている。パソコンなんて触ったことのなかった子が、いつの間にか動画の編集をこなすようになっている。他のユーチューバーさんの良いところを必死に研究している。何がおもしろいと感じるのかをよく考察している。それを真似するわけではないが、少しでも楽しんでもらうためには、どうすれば良いか、よく考えて、撮影も編集もこなしている。初めの頃は、あまり深くは考えずに夢中でやっていたかもしれない。夢中、全力、いつも真摯であること。それこそが彼女のもっともすぐれた資質であり、最大の武器であるに違いない。相手の警戒心を一瞬で解いてしまうような資質を京香は持っている。それを最大限に活かせる居場所を彼女自身が作り出した。そして見ているみんなに楽しんでもらおうと思いながら、同時にその自分の居場所を必死に守ろうとしている。どんどん成長して、次第にたくましくなっていく彼女を見ていると、うらやましいと思うこともある。私から離れてしまったようで寂しいと思うこともある。彼女のお母さんと私とで、この先もずっと守って行かなければならないと思っていた女の子が、私の想像を超える活躍をしている。そんなに好きだったら、ユーチューバーになったらいいのにと言ったのは、確かに私だ。その時、私はこうなることを予想していただろうか。京香が少しでも元気になれればいいと思っていただけかもしれない。今では、私の方が京香から元気をもらっている。彼女の動画を見ている時もそう思うし、彼女が動画に取り組む姿勢を見ていてもそう思う。彼女に負けないように、私もがんばらなくちゃと思う。京香の話によると、障害を持った人が何人かチャンネル登録者にいるらしい。度々コメントを書いてくれるので、その人たちがもっと元気になれるよう、がんばると言っていた。
【京香チャンネル・京香】
「次、三つ目です。あっ、フカマルだ。ノーマルですが、フカマルが出て来てくれました。四つ目行きます。あっ、またフカマルだ。フカマル二匹目であります。さて、五つ目です。あっ、モノズです。モノズが出て来てくれました。けっこうレアが出てきてくれますね」
毎日、ポケモンの動画を撮影して編集してアップロードしている。体調が悪くてやむなく休む日もあるけれど、だいたい毎日、出している。再生回数は伸びてはいるが、儲かっているという程ではない。カメラとパソコンを買うために佳奈から借りたお金は、まだ返せないでいる。佳奈は借金の督促をする訳でもなく、いつも動画の感想を言ってくれる。そして私のことを褒めてくれる。褒められるのはうれしい。自信になる。こんな私にも、ちゃんと居場所があるのだと確信することができる。視聴者の皆様にもたくさん励ましの言葉をいただいている。京香さんの笑顔を見ていると、元気になりますと書いてくれている。障害があって、なかなか出歩けないという人もいる。京香さんがいろいろな場所を紹介してくれるので、私もそこに行った気になれますと書いてくれている。レアなポケモンを求めて、市街地を電動車椅子で移動している子供を見かけましたと書いている人もいた。いつも出会うので、きっとポケモンをやっているのだと思います。ポケモンGOには、行動を変えてしまうような何かがあるのでしょうねと書いている。きっと、そうなのだろう。私自身、障害で働く場所がなくて、家に引きこもっていた。ポケモンを追いかけて、外に出るようになった。そんなものは、ただの電子データで本物じゃないと言って、バカにする人もいる。本物って何だろう。本物のカブトムシとか、クワガタムシのこと? 生き物に触れることで育まれる感性。そういうのとはちょっと違う。コレクション要素は多分にある。昆虫採集と似ているかもしれないし、まったく似ていないかもしれない。本物の昆虫採集に似ているからいいとか、似ていないから悪いということでもない。あれこれ考えても仕方ない。私が楽しいと思ったことを伝えることしか、私にはできない。私の動画を見て、少しでも多くの人におもしろいと思ってもらえるなら、それでいい。病気や障害でふさぎ込んでいる人がいれば、あなたの周りにはこんなに楽しい冒険の世界が広がっているのですよと言ってあげたい。ポケモンGOが日常を冒険の世界に変えてくれるから。私自身もパニック障害で発達障害。その現実が変わることはない。私自身がそうであることを哀しいとは思わない。障害がなかったらとか考えても仕方がない。仕事が上手く行かなかった時は、もう少し普通に生まれて来たらよかったと少しは考えた。でも、障害が原因で私の役割がどこにもないというのは、どうにも納得できない。私には役割も与えられず、居場所も与えられないというのであれば、こんな中途半端な知性を私に授けた神様に苦情を言いたくなる。私に、この世に存在することを自覚させるのであれば、私にしっかりとした居場所を与えてほしいと切に思う。もちろん、私の方で何もしないという訳ではない。私は障害を理由に、安心して暮らしていけるだけのお金を無条件におねだりするようなことはしない。そして私は、かつての惨めなすっかり自信を失くしてしまった私と同じように、役割も与えられず、居場所もない人たちが、他にもたくさんいるのだということを知っている。その人たちは、もしかしたら、かつての私がそうであったように今もずっと路頭に迷っているかもしれない。記憶のないまま、過ごしているかもしれない。そんなことは許せない。私はそんな世界を容認するのはもう嫌だ。私は、私自身のためだけではなく、そういう人たちのためにも精一杯やって行かなければならない。みなさんが楽しめる動画を出して行かなければならない。
【美咲】
来る日も来る日も、プリント基板を作っている。私はプリント基板を作るために生まれて来たのかもしれない。つまらない人生だ。製品を加工する装置に一日、付き添っている。装置の一部となって、装置の補助的な働きをして一日が終わる。払い出し、ラミネート、露光・現像、エッチング・剥離、検査、あらゆる製造工程に精通しているベテランの作業者だ。でも、そんなにたいしたことではない。慣れれば誰にでもできる。誰にでもではないか。できなかった子もいた。あの時、まったく仕事のできなかった子が、私たちの足手まといになっていた子が、ユーチューバーとして活躍している。たくさんの視聴者から、コメントや支持をもらっている。きっと私はこのままずっと変わらないのだろう。冴えない会社の冴えない工場で、ずっとプリント基板を作り続けている。私が生きていることなんて、誰も知らない。私は、あの子がうらやましいのだろうか。あの子に嫉妬しているのだろうか。私よりもずっと仕事のできなかった子が、世間の注目を浴びていることが許せないのだろうか。そういう気持ちがないと言えば嘘になる。私はあの子を見下していた。与えられたノルマをこなすには、戦力になる作業者が必要だった。七人のチームで一人が使えないとしたら、残りの六人の負荷が少しずつ増えてしまう。同じ給料をもらっているのにとても不公平なことだ。私たちは、ほとんど休憩時間も与えられず、ぎりぎりのところでやっている。それなのにあんな子を寄こしやがってと上層部に恨み言をいいたくなったこともある。もう、そのことは考えないようにしよう。楽しかったことを考えよう。ポケモンGOで知り合った黒川さんと何度か一緒に出掛けた。男の人と出掛けるなんて、しばらくなかったことだ。屋外で一緒にゲームをしただけで、デートをした訳ではないが。
でも、デートかもしれない。私にだって、何かいいことがあってもいいはずだ。一日に一回、レイドバトルをする。帰り道にレイドのたまごを見つけられたら、運が良い方だ。でも、ゲームも次第に新鮮味がなくなって来ているような気がする。強いポケモンが出尽くしてしまったのかもしれない。ゲームバランスを考えると、新しいポケモンがむやみに強いということでもない。でも、そんなに強くないのであれば、わざわざレイドバトルをして、それも何回もやって、個体値を厳選する必要があるのかと思ってしまう。少年漫画みたいに最強を超える最強みたいな展開になると疲れてしまう。でも、最強が年に何回も出ないのであれば、ちょっと休んでも良いのかなと思う。飽きて来たからと言って、止めるという訳でもない。やめてしまったら、黒川さんと一緒に出掛ける理由もなくなってしまう。それにしても、新鮮さがなくなって来ている。あの頃は特別だったものが、普通になって来ている。ポケモンも、生活のリズムの中に一定の位置を占めるようになった。顔を洗ったり、歯を磨いたり、食事を取るのと同じように。毎日、同じメニューでは飽きてしまう。その辺りを歩いていて遭遇するポケモンには、もうあまり興味を持てない。始めた頃は、マップの中にいるポケモンをタップする度にわくわくしたものだが、もうそういう気持ちは湧いて来ない。やめていった人もたくさんいる。爆発的にプレイヤーが増えた時期は一瞬で、今はその時の一割か二割程度のプレイヤーしか残っていないと聞く。ユーチューバーのみなさんは楽しそうにしている。ポケモンを専門でやっている人。いくつかあるゲームのうち、ポケモンも扱っている人。みんなが興味を持ってくれそうなものをピックアップして、実際にやってみて、その動画をほとんど休むことなく、毎日アップしている。色違いを求めて、同じ種類のポケモンを五百回も千回もタップしているユーチューバーもいる。それだけプレイした上に、動画の編集に八時間かけると言っていた。十分の動画を編集するのに、八時間というのはすごい。そこまでしてやるものなのか。確かにこだわっている様子はわかる。シーンに合わせたBGMとか、効果音とか、場面の見せ方、角度、言い回し、ストーリーとオチ。映像と言葉に一瞬のズレもない。それが仕事とは言え、毎日、そんなことをするのも大変だろう。でも、晴れ渡った青空の下で、緑の豊かな公園の中でプレイする姿は楽しそうだ。時折、頭上を鳥たちが編隊を組んで通り過ぎて行く。東屋で休んでいると爽やかな風が肌に触れる。ポケモンじゃなくても良い。退屈な日常を払拭できるようなもの。効率重視で息の詰まる毎日から一瞬の間だけでも逃れることのできるもの。そんなものを私たちは求めている。
【京香チャンネル・美咲】
「こんにちは。京香です。今日は、私のことについて、お話したいと思います。タイトルに出ていますが、私の病気のこと、障害のこと。それから、コメントでよく質問されることですが、なぜユーチューバーになったのかということについて、お伝えして行きたいと思います」
タイトルには「ADHD・パニック障害、私の病気とユーチューバーになった理由」と書かれている。いつもとは少し様子が違う。部屋の中。Tシャツを着ている。開放的な外の景色、お洒落な格好は鳴りを潜めている。ADHD。聞いたことはあるが、詳しくは知らない。どうして、彼女はこんなことをしているのだろう。
「大学を卒業してからですね。いよいよ私も働いて行かなければならないということで、就職しました。でも、私、その時はまだ自分のことがよくわかっていなかったのですね。子供の頃から、よく忘れ物をするというのはありました。人の話が雑音に聞こえる時もありました。人の顔と名前を覚えるのも苦手でした。それで同僚の名前もなかなか覚えられませんでした。仕事の方も、今日やること、午前中にやること、午後にやること、きちんとメモを取っていたのですが、うまくやれませんでした。作業の手順が書かれた要領書のコピーを持ち帰って、必死に覚えようとしましたけど、本番の作業で間違えてしまって、迷惑を掛けていました。それからしばらくして、嫌味を言われるようになりました。戦力にならないとか、そういう意味のことを言われました。ひとつのチームの作業者の人数は決まっているので、その中に私が入っていると、他の人間が迷惑するということでした。問題を起こされたら、余計な作業が増えるということもあったと思います。そうしているうちに次第に、私はそこにいないもののように扱われるようになりました。あなたもういいから、あっちで掃除していて、と言われるようになりました。それがとてもショックでした」
これは、いったい。何を話しているのか。あの時、あの子が仕事できないから、仕方がないから私たちだけであの子の分までやらなければならないと考えていた時のことか。邪魔だから追い出そうとした訳じゃない。私たちは腹をくくって、仕方がないから、あの子の分まで働こうとみんなで考えた。何か面倒を起こされても困るから、何もしないでくれればいいと思っていた。何もしないで給料をもらえるなんて、ありがたいことではないかと思った。あの子の分まで仕事をする私たちに感謝してほしいと思ったくらいだ。でも確かに、存在を無視されるのはつらいかもしれない。それが原因で辞めたのか。でも、私たちは追い出そうとした訳じゃない。
「そのことでしばらく泣いていました。部屋にこもって、一人で泣いていました。私は要らない人間なのだと思うと、哀しくて仕方がありませんでした。でも、しばらくすると哀しいという感情がなくなってしまいました。うれしいという感情もない。何も感じない状態になってしまって、私の中で何かが壊れてしまったのだと思います。それからのことは覚えていません。三年分の記憶が飛んでしまっています。家族の助けを借りながら、治療を受けていたのだと思います」
三年間、記憶がない。そんなことがあるのか。それは私たちのせいなのだろうか。私たちが追い込んでしまったということなのだろうか。そんなつもりはなかった。私たちが悪いのだろうか。病気とか、障害とか、そんなことは一切、聞いていない。私は知らなかった。
「感情を取り戻してからは、記憶があります。私の病気というのは、発達障害といいます。生まれ付きのものです。ADHDとも呼ばれています。ネットで検索してもらえると、もっと詳しいことがわかると思います。世の中には、障害者雇用促進法というのが、ございまして、障害者を雇用すると助成金がもらえます。その枠でなんとか働けないかと考えました。それで障害者として契約はしてもらえたのですが、どうも現場の方にはうまく伝わっていなかったようで、行き違いもあって、そこで働くということにもなりませんでした。それからもしばらく障害者が働いているパン屋さんとか、訪ねてみましたが、私が働ける場所は見つかりませんでした。まだまだこの先の人生が長いというのに、どうすれば良いのかと思いました。私の方に問題があるのは確かです。人の名前も仕事も、なかなか覚えられません。集中力が長く続きません。そうかと思えば、集中し過ぎてしまうこともあります。人の話が雑音に聞こえる時があります。うまくコミュニケーションを取ることができません。バスや電車の中で、長い間、立ったままでいると呼吸が苦しくなってしまいます。それがあって、約束の時間が守れないことがあります。でも、わざとそうしているのではないのです。生まれた時から、そうなのです。いつまで経っても仕事が見つからないので、また部屋にこもるようになっていました。もう外に出たくないと思っていました。私が引きこもってから半年くらい経って、数少ない友達の一人が私にゲームを紹介してくれました。それがポケモンGOでした。私はゲームに出現するポケモンを追いかけて、外に出るようになりました。ずっと引きこもっていたのに、ゲームに出現する架空の生き物を求めて外に出るようになりました。そうやって、私は再び外に出るようになりました。外はいいなと思いました。歩いてすぐのところにある公園にも一年に数回しか行っていなかったのに、毎日行くようになりました。そして、ゆっくりと景色を眺めることを思い出しました。心地良い風に打たれる感触を思い出しました。草地に隠れている虫たちの音色に耳を傾けることを思い出しました。頭上を編隊を組んで空を駆けて行く鳥の鳴き声に気が付くようになりました。小さな子供たちが砂地で遊んでいるのを見て、微笑んでいました。私に居場所がないなんて、いったい何を勘違いしていたのでしょうか。公園は私を待っていたようでした。地上は広いのです。私を待っている場所は、他にもたくさんあるのだと思えました」
その感覚には覚えがある。私も同じことを感じていた。最新のスマートフォンと最新のゲームソフトに導かれて、外に出る機会が増えた。知り合いが増えた。黒川さんと一緒に出掛けるようになった。夏の暑さと冬の寒さをそのままに受け止めるようになった。いままでに見過ごして来た景色が目に留まるようになった。この子の言う通りだ。
「それから、その友人が私に言いました。ポケモンがそんなに好きだったら、ユーチューバーになればいいのにと。私がユーチューバーに?と思いました。私みたいに、さっき言ったことも忘れるような人間がユーチューバーになんてなれないよと言いました。あんな上手にしゃべれない。今、ユーチューバーとして活躍している人たちのように頭の回転が速くない。しょっちゅう言い間違いをする。パソコンも触ったことがない。そう言ったら、そんなことどうでもいいじゃないと言われた。京香がやりたいと思うかどうかだよと言われた。私はやりたいのだろうかと思った。いろいろな場所の景色を紹介してみたいと思った。私と同じように、障害を抱えている人が家に引きこもっているとしたら、一緒に外に出てみようと言ってあげたいと思った。それからユーチューバーだと、自分の都合の良い時間に活動することができる。バスや電車でパニック障害になって、約束の時間を守れないこともあるから、自分のペースで作業ができるユーチューバーであれば、私にもできるかもしれないと思いました。どうしてユーチューバーになったのですか? 動画のコメントでよく聞かれます。今までにお話したことが、私がユーチューバーになった理由です。このことはいつか皆さんにお伝えしなければいけないと思っていました。最後までご視聴いただき、ありがとうございました。明日からは、また通常の動画に戻ります。それではまた、京香でした」
次の動画が推奨されている。いったん止める。受けたことのない衝撃がまだ身体の中に残っている。哀しみと共に気持ち悪さが腹の中を満たしている。落ち着かない。私は加害者だったのだろうか。必死で生きようとする人の。今では二万人以上の視聴者に指示されているユーチューバーの。記憶がないという彼女の三年間を奪ってしまった原因は私の取った行動にあったのだろうか。
【美咲】
半袖だと朝夕は肌寒さを感じるようになって来た。あまりに強くてカーテンを開けるのが嫌だった陽射しも、幾分かは弱まって来ている。久屋大通公園のテレビ塔付近はずっと工事が続いている。民間の資本が入ってリニューアルした姿がそのうち見られるようになるだろう。噴水から水の滴り落ちる音が聞こえる。いつまでも続く規則的な自然の音を聴いていると何だか安心する。
「昨日、ポケモンの動画見た?」
黒川さんが言った。
「誰の動画?」
「京香さん。私は、パニック障害で発達障害ですと言って、急に告白を始めて驚いた」
「その動画は私も見た。いつも笑顔で話しているのにね。びっくりした」
私はあなたよりも、ずっとずっと驚いている。私たちは、あなたなんていない方がいいと言って彼女を追い込んだのだから。彼女の記憶が飛ぶきっかけを作ったのは、私たちなのだから。仕事のできない人間が紛れ込んでいると他の人間が迷惑すると、その考えは今も変わらない。
「彼女が働こうとしている時に、あなたはあっちで掃除でもしていて、ってちょっと酷いと思う。人格をまるで無視している。そういう心無い一言が彼女を追い込んでしまって、記憶が三年間ないって。まったくひどい人たちもいるものだ。そういう人たちって、きっと罪の意識がないのだろうな。自分がひどいことを言っているという自覚がないに違いない」
そのひどい人たちのうちの一人が、今、あなたの隣を歩いている。黒川さんがこのことを知ったら、どう思うだろうか。でも、私たちだって嫌な思いをしている。ただでさえ忙しいのに、どうして他人の分まで仕事をしなければならないのか、私には納得がいかない。それに私たちに彼女を追い込むつもりなんてなかった。悪意なんてなかった。そう言ったら、信じてもらえるだろうか。
「でも、その人たちだって困っていたかもしれない。決められた時間内に決められた作業をしなければならないのに、その中に障害者が一人いたら、周りの人たちに余計な負荷がかかってしまう」
「そうかもしれないけど、それじゃ障害者の役割は何もないということになってしまう。人格が与えられているのに役割を与えられず、存在しないもののように扱われてしまってもいいのだろうか。美咲さんは、そうなっても仕方がないと思っているの?」
久屋大通公園を南下する。バス停の横を通る。いくつかジムがあり、ポケストップがある。彫像がある。誰か有名な人が作ったのだろうか。きっと名前を聞いてもわからない。
「そんなふうには思っていない。でも、黒川さんの職場に障害者がいて、その人が何もできなくて、黒川さんがずっとその人の分まで仕事をしなければいけないとしたら、黒川さんはずっと手伝ってあげるの?」
スマートフォンを持った人が何人か集まっている。一生懸命画面を叩いている。きっとレイドバトルをやっているのだろう。
「当事者でもない者が無責任な発言をするなということかな?」
「そんなことは言ってない」
スマートフォンの画面には、すぐ近くにあるジムが映っている。伝説のポケモンのレイドバトルをやっている。栄にはプレイヤーがたくさんいるので、討伐に必要な人数はすぐに集まる。黒川さんに一緒にレイドバトルをしようと言えばいいのに言えない。
「そうだな。健常者と同じように仕事をしてもらおうと思っても、なかなかうまく行かないだろうね。その辺りは管理者がきちんと考えなければならない。障害者を雇用して助成金をもらっているのだから。そのお金を着服しておいて、責任は現場になすりつけるというのは確かに納得のいくものではない」
黒川さんの言っていることは一般論にすぎない。自分が加害者になる可能性なんて微塵も考えていない。健常者しかいない安全地帯にいて、自分は決して立場を悪くしない位置に立って、当事者を批判しているだけだ。職場に障害者を割り当てられて、困っている弱い立場の労働者のことがまるでわかっていない。納得がいかないと言って、管理者に文句を言う訳でもあるまい。きっと障害者の分まで働くことになったら、不平不満を並べ立てるに違いない。でも、上には文句は言わない。でも、実際にそんな立場に立ったことはないから、障害者を差別してはいけない、共に働く仲間の人格を尊重しなければならないなんて言い続けるに違いない。
「美咲さんはどう思う?」
「何が?」
互いに黙り込む。道に沿って、惰性で歩いている。三越まで来た。もうすぐ公園の南端に着く。今日はいったい何しに来たのだろう。久しぶりに二人でゆっくり歩こうと言って、街中まで出て来たのに。
「今日は何だか、機嫌が悪いみたいだね。いつもの美咲さんじゃないみたい。僕が何か気に障ることを言ったのかな?」
言った。何度も言った。別に黒川さんのせいではないと思うけど。ただ、当事者でもないのに、勝手なことばかり言うのは許せない。まるで私が悪人だという言い方は許せない。黒川さんは知らないのだろうけど。
「黒川さんのせいじゃない。私が悪かったのよ。でも私だって生きるのに必死なのよ。自分のことで精一杯なの。障害者の分まで余計に働くのはごめんだわ」
久屋大通公園の南端にある円錐の形をした噴水の周りを囲んでいる大理石に座る。別に疲れてはいない。
「何か嫌なことがあったのだね。気が付かなくてごめん。昨日の京香さんの動画にびっくりしてしまって、自分は漠然と生きているだけで、軽い気持ちでゲームをしているだけで、でもこの人にとってはたいへんなことだったのかと思って、障害者のことも全然頭になかったけど、これからは考えていかなければいけない。そう思ったのだけれど、性急でかっこつけていただけだったね。君と話していて、僕には当事者になる覚悟が全然ないということに気付かされたような気がする」
「私は京香さんにひどいことをしたのよ。あの人が三年も記憶のない状態で生きなければならなかったのは、私のせいなのよ。私があの人の人格を無視して、あの人を追い込んでしまったのよ。でも、そんなことになるなんて知らなかったのよ。私たち、そんな悪い人間じゃないつもりだった。でも、実際にやったことはひどいことだった」
そう言って、私はずっと噴水のそばですすり泣いていた。泣き声をかき消すように、溢れ出た涙を洗い流してしまうように、噴水から水の滴る音が聞こえて来た。
【美咲】
「こんにちは。京香です。今日はレイドアワーに来ております。はたして、一時間の間に何戦できるでありましょうか? そして、私は色違いをゲットできるでありましょうか?」
京香さんは相変わらず素敵な笑顔でポケモンGOの活動の様子を伝えてくれる。私は彼女の笑顔がとても好きになった。後ろめたさのようなものはずっと残っている。すでにやってしまったことを取り消すことはできない。月に一度くらい、黒川さんと出掛ける。ポケモンをやり過ぎて疲れた後に、コーヒーを飲みながら、少し真面目な話をする。お互いに少しだけ相手のことがわかったような気がする。少しだけ二人の間を隔てている距離を縮められたような気がする。海外のイベントにも行ってみたいねなんてことも話している。そうなったら、朝まで二人きりで過ごすことになるかもしれない。楽しみ。ずっと同じ仕事を続けている。メンバーは少しずつ変わって行く。新しい人が入って来ても困らないように、作業手順書の見直しを進めている。誰がやっても間違いが起きないというのは、ちょっと無理だとは思うけれど、誰もがやらかしそうなミスはあらかじめ取り除けるようなものを目指している。京香さんが、この手順書を見て作業をしたなら、ミスをしないで済むようなものを目指している。