8.彼を知る
「お嬢様。ノワゼット侯爵が、お嬢様が体当たりして押し倒したと言っておりましたけれど」
「あちらの思い込みよ」
ララは残念そうな面持ちで、頷いた。
カロリナは馬車で移動中、始終不機嫌だった。フェルナンとの会話を思い出す度に、むかむかと怒りが込み上げてくる。
彼の言葉は、時間をおいて考えてみれば間違ったことは言っていなかった。ただ、それが今はますますカロリナの怒りを膨らませる。
「カロリナお嬢様が、ここまで感情あらわに怒られるのも珍しいですね」
「え?」
「いつも多少なにかあっても、お嬢様は人前で柔らかな笑顔を崩されないでしょう?」
そうだっただろうか、とカロリナは自分の頰に手を当てて笑顔を作ってみたが、少し引きつったものになった。
シトロニエ家に帰ると、カロリナはすぐさまデジレの部屋に向かった。
今日この時間ならきっと部屋にいる、と思った通り、在室だったデジレは笑顔で迎え入れてくれた。
カロリナが部屋に控える彼の侍従に席を外させると、彼女の固い表情に気付いたようで、デジレは不思議そうな顔をした。
「姉上、本日、ノワゼット侯爵家を訪問されたのですよね。ノワゼット侯爵はいかがでしたか?」
「最悪よ! 絶対に、あんな方と結婚なんてできないわ!」
「えっ、結婚?」
目をまんまるにしているデジレを見て、カロリナはしまったと口を噤む。
生涯の伴侶だから結婚云々はシトロニエの祝福に関わる話で、デジレは知らない。
慌ててカロリナは早口でまくし立てる。
「一般的な意見として結婚相手と見た場合ね。やっぱり遊んでいる方だもの無理よ。それなりに夫の移り気は許容しなさいと言われているけれど私は私だけを見てくれる方がいいの」
「ああ、成る程」
カロリナは自分で言いながら、本当にそうだと納得した。誠実な人が良いと考えているからこそ、フェルナンのような女性を多数取っ替え引っ替えするような男性は嫌いなのだ。
「それで、ノワゼット侯爵はどんな風に見えましたか?」
「どんな風って」
カロリナは何度も思い出したフェルナンの容姿を再度思い起こす。
寝起きのような纏まりのない赤髪に、はっきりとした碧の瞳――とにかく印象深い不細工な眼鏡。
「気を抜いた、寝起きのような格好だったわ。誰だかわからないほどに、締まっていない様子だったわね」
「実家ならば気を緩める人が多いでしょう。姉上も、社交界では鈴蘭と言われていますが、ここではしおらしさがないですし」
むっとしたカロリナだったが、目の前の弟は内でも外でも変わらないので、押し黙った。最近では自分のことを俺ということがあると風の噂で聞いたが、こうして話していると、果たして本当かと疑問が浮かぶ。
「……そういえば、侯爵様はおいくつなの? 大分若く見えたけれど」
「はい、ノワゼット侯爵は私よりも七つ年上なので、二十三歳です」
予想以上に若くて、カロリナは驚いた。
夜会で遠目に見るフェルナンは、その鋭い目付きと爵位からして三十前後に見えていた。確かに先程会った彼は、目がはっきりと開いていて若く見えると思ったが。
カロリナの驚きを悟ってか、デジレが説明を続ける。
「フェルナン・ノワゼット殿が爵位を継いだのは三年前、彼が二十歳の時です。元々大変優秀な方で、幼少の頃から先代侯爵の領地経営を手伝っていまして、二十歳になった時には既に完璧だった彼に、先代侯爵はすぐに跡を譲ったそうです」
優秀、とカロリナは呟くが、すぐに首を横に振った。
「いくら優秀といったって、女性を弄んで良いはずないでしょう。謝りに行ったのに、押し倒されに来たのかですって! 本当に信じられない!」
「侯爵がそんなことを言ったのですか?」
「間違いなく言ったわ。押し倒したことは周りに言わないって言ってたけれど、そんなものどこまで……」
言葉の途中でカロリナはデジレに会いに来た目的を思い出した。聞きたいことがあったのだと、恐る恐るといった顔で、デジレを窺う。
「デジレ。もし、よ。私が侯爵様を押し倒したと噂になってしまったら。私はどうなると思う?」
デジレはその秀美な眉をひそめて少し考え、言いづらそうに口を開いた。
「侯爵が誰にも言わないと言っているそうなので、想像はしたくありませんが。……そんな姉上の醜聞が広まれば、結婚が難しくなります。できても、訳ありの相手か、噂の相手の侯爵か。どうしても耐え切れないなら修道院でしょうか」
「絶対に嫌」
きっぱりと否定すると、カロリナは立ち上がった。手は力が入り、拳が作られている。
「私も同じ考えに行き着いたの。だからこそ、押し倒したなんて噂は絶対に広めさせてはいけないの」
「ええ、でも侯爵は噂にしないと」
「信用できるはずないじゃない。そうよ、私、なぜすぐに戻ってきたのかしら。――監視が必要よ。私がノワゼット侯爵が噂しないように監視しなくては。私の命運がかかっているのだもの!」
一人頷きながら納得しているカロリナは、興奮していた。監視なんて、という仰天したデジレの制止は、残念ながら何の用もなしていない。
「デジレ、ありがとう。私、もう一度侯爵様のところに行ってくるわ!」
「え? ええ、お気を付けて」
一陣の風の様に部屋を去った姉を見送って、デジレは女心はよく分からないと首を捻るのだった。




