2.カロリナ・シトロニエ
「終わってしまったわ……!」
カロリナは自室にて、嘆きながら塞ぎ込んでいた。
ここはシトロニエ伯爵邸。そして、カロリナはシトロニエ家長女、カロリナ・シトロニエ。
古くから脈々と続く由緒正しいシトロニエ家は、王家によく仕え、信頼が厚い名門中の名門だ。実際、カロリナの弟のデジレは、王太子と歳が近く、幼い時より側近として仕えている。カロリナも、王太子の婚約者候補として名が挙がっている。
そんな名門シトロニエ家の令嬢として、カロリナは恥をかくことがないよう日々己を磨いてきた。
シトロニエ家特有の、白金のように輝く金髪をさらに美しく。エメラルドのような瞳をさらに輝かしく。絹のような白い肌をさらに柔らかく。礼儀作法は感嘆の声が他所から溢れるように。所作は美しく、可憐に。
カロリナが『朝摘みの鈴蘭』と呼ばれるようになったのは、その努力が実を結んだ結果だった。
身分は問わず好きな相手と結婚して良いという、名門の割には緩い結婚条件の下、今のカロリナならば独身男性の誰に声をかけても、結婚まで難なく進む程度の評判を持ち合わせていた。そして、シトロニエ家の者として堂々と胸を張って嫁いでいけた。
なのに。
「まさか殿方を、押し倒すなんて!」
突っ伏した枕に涙が染み込んでいく。
男性を押し倒すなど、淑女にあるまじき行為だ。それこそ噂が流れれば、『朝摘みの鈴蘭』などという肩書きは紙切れのように吹き飛んでしまう。そして不埒な令嬢として、暇を持て余す貴族の恰好の話題になるだろう。
いや、それだけならまだカロリナだけの話で終わるが、そんな軽率な令嬢の家としてシトロニエ家の評判まで地に堕ちてしまう。
なんという親不孝者。シトロニエ家のお荷物。
カロリナは夜会より逃げるように帰ってから、誰にも会わないようにして、ぐずぐずと自己嫌悪に陥っていた。
「お嬢様、カロリナお嬢様? ほら、ネリーですよ、入ってもよろしいですね?」
ノックと同時に扉の向こうから声が聞こえる。もちろん他の者と同じく拒否しようと顔を上げたカロリナだったが、言葉を発する前に思い切り扉が開け放たれる。
唖然としている間に、使用人ネリーはそのふくよかな身体を揺らして、カロリナに走り寄ってきた。
「まあ、まあ! カロリナお嬢様、おめめが真っ赤! お綺麗なお御髪もこんなに乱れて! さあ、さあ、ネリーにお話しくださいな。なにがあったのですか?」
そう言って、ネリーはふっくらとした手で、カロリナの背中を撫でる。
ネリーは先代シトロニエ伯爵から仕える古参の使用人だ。カロリナを我が孫のように扱う彼女に、カロリナはもう一人の祖母のように慕っていた。
だからか、そのあたたかさに、ついまた涙がこみ上げてくる。
「ネリー……私、大変なことをしてしまったの」
「あらまあ、どんなことをされたのです? ネリーだけに教えてくださいな」
カロリナはぐっと下唇を噛んで、少し逡巡したあと、思い切って口を開いた。
「殿方を……押し倒してしまったの!」
しばし、静けさが訪れた。
ネリーの反応がないと、カロリナがおそるおそる顔を上げると、ネリーは大きく目を見開いている。
やはりこんな破廉恥なことを言うべきではなかった、とカロリナは後悔した。
「まあ、まあ! カロリナお嬢様が、殿方を押し倒した!!」
「やめてネリー! 大声で言わないで!」
カロリナが慌てて止めるも、か細い令嬢の声などネリーには聞こえていないようだった。羞恥心に顔から火が出そうだ。
何故かネリーは興奮して、紅潮した顔を近付けてくる。
「カロリナお嬢様、それはお嬢様が自分の意思で押し倒したのですか?」
「そんなわけないでしょう! その、信じてもらえないかもしれないけれど、気付いたらそんなことに……」
「押し倒されたわけでもないのですね?」
「ええ……」
やけに早口で詰め寄るネリーに身を引きながら、カロリナは答えていく。
ネリーは、それはそれは嬉しそうににんまりして、納得したように何度も頷いた。
なにを喜ぶことがあるのかと、カロリナは怪訝に思う。
「まあ、まあ、カロリナお嬢様! ついにお嬢様にも来たのですね!」
「え、来た?」
「これは旦那様にご連絡しないといけません! さあカロリナお嬢様、今すぐに旦那様のところまで行きますよ。ええ、ええ、執務中なんて関係ありません、お嬢様の一大事ですもの!」
「待って、え、お父様にって、ネリー! まだ心の準備が……!」
細い令嬢の力が、図体の大きい使用人に敵うはずもなく。
カロリナは、ネリーに引き摺られるような格好で部屋から引っ張り出された。