第85話 セクハラ
幸盛は仕事の開始前や休憩時間などに、「邪魔するんじゃねーぞ」オーラを発しながら小説をひたすら読んでいる。そのうえ数年前に、半ば必要に迫られて小説を書いていることを身近な同僚に白状したため、ごくまれに、職場の数少ない読書家から声を掛けられることと相成った。
「今は何を読んでいるんですか?」
「今も小説を書いているんですか?」
とはいえ、わざわざ声を掛けてくるのはA君とB君の二人だけで、しかも幸盛が男子更衣室で寝転がって小説を読んでいる時に限られていて、B君には有川浩の小説をドサッと貸したことがあるが、A君の場合は少し切り込んできた。
「本は出したことがあるんですか?」と聞いてきたので、『妻は宇宙人』の存在を教えた。すると半月後くらいに、「読みましたよ」と声をかけてきたので、「おもしろかっただろ」と威圧的に出てみると、「読みやすい文章ですね」と文体が似ているらしい聞いたことのない作家の名を挙げて批評してきた。わざわざアマゾンで買ってくれたことに感謝しつつ、コイツ、かなり読んでるな、と彼を見直したものである。
そのA君だが、昨年十一月下旬の昼休みに食事中の職員の前で所長から、十二月から来年の三月までの四カ月間本庁のナントカ分室に行くことになった、と紹介された。おかしなことに、通常ならこんな場合はA君に一言挨拶させるべきところなのに、所長は、代わりの職員は来ません、と言い捨てるとさっさと所長室に引っ込んでしまった。
これは後から考えて思ったことで、その時はただ妙な違和感が残っただけだった。だから、その翌日に、更衣室でたまたまA君と二人だけになったので直接尋ねてみた。
「なんちゃら分室って何よ? 何かの研修なの?」
「それが、僕もよく分からないんですよ」
と彼は、本当に何も知らされていないようだった。
そして十二月二十二日のことだ。身近な同僚の一人が鬼の首を取ったような勢いで声を潜めて話しかけてきた。
「食肉公社のオバサンたちが、Aさんのことが新聞に載っとるって騒いどるに」
その新聞を手渡された。見ると、十二月二十一日付け中日新聞市民版に、『盗撮やセクハラ 3人を懲戒処分 市が発表』という見出しで、その中の二人目の記事が赤鉛筆で囲ってある。
【また、同局の獣医師の男性(32)は、昨年秋から今年十月にかけ、同僚の女性に対し、女性の体形についてわいせつな発言を繰り返し、今年四月ごろからは、女性の腹部や背中を触るなどしたという。女性が上司に訴え、発覚した。処分は停職二カ月。】
名前は伏せてあるが獣医師の職場は限られているし、A君の年齢は確かにそれくらいだし、何より停職二カ月というのがこの四カ月間に含まれる点からしてまさしく符合する。
当然、『被害者』は誰かと詮索したくなるのが人情で、ひそひそとささやかれる中で、夫と三人の子どもがいるCさんの名が挙がっているのは意外だった。幸盛は新人で独身のDさんとばかり思っていたからだ。ゆえに幸盛は邪推する、Dさんを好奇の目から守るために、Cさんに承諾を得た上で意図的に流したデマではないのか、と。
真相はさておき、セクハラについてネットで調べてみると山と出ているが、中でもYAHOO!知恵袋の質問とそのベストアンサーに選ばれた回答がおもしろいので紹介する。
【セクハラの定義は「女性がセクハラと感じた言動が全てセクハラ」だと聞きましたが、これは本当ですか? ちなみに何年か前、新聞の投書欄に『女性の気分次第で男性が犯罪者にされてしまうのは不公平だ』という意見が載っていました。このように、セクハラの法律は女性が男性を自由気ままに裁く事を保証しているのですか?】
【(前半略)。セクハラを回避することは非常に難しいと言わざるを得ないですね。「身長いくつ?」「彼氏(彼女)いるの?」「私服かわいいね」などと話しかけて相手が不快になればセクハラになりますが、会社が制服を着用するように強要する事も不快と感じればそれすらセクハラになるそうですから、もうばかばかしくて笑いすら出てきますね。馬鹿な考え方ですね。日本人にはそぐわない考え方ですね。もてないじじいのセクハラ言動はもちろん非難されるべきですが、もてないブスがセクハラと騒ぐのも同じように腹が立ちますね。】
【回答ありがとうございました。はっきり定義が示されていて大変参考になりました。学校や企業内とか、職務上の上下関係とか、意外と細かいんですね。拡大解釈を容認してもいいという他の回答者さんの意見も一理あると思うのですが、そうするといつか女性自身の首を絞める事態が起きないとも限らないので、やはりそれは賛成できません。】
『労働問題相談所』のトップページにも象徴的な一言が載っている。暗い表情でうつむいた男性の写真の横に、
【「髪切った?」って言っただけなのに……】と。
くわばらくわばら。