第十四話 アリスの日記
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五月二十四日。晴れ時々曇り。
私は誰? 何百回と繰り返した自問。
でも、答えは返ってこない。今の生活に困っている訳ではないけれど、このまま記憶が戻らないとしたら、それはとても不安だ。
あの時、私を両手で痛いくらいに掴んで愕然とした女性。あれから会ってはいないし、顔も見せてはくれないけれど、きっと、私の知人のはず。だって、知り合いでもないのに、あんな事なんてしない。
大学の方は順調で、必要な単位は全て習得できる見込み。ちょっと実習が不安だが、聞いた話では、OSCEは手順さえ練習しておけばそれほど難しくないそうだ。あの詩織さんが合格できるのだから、私も大丈夫だろう。
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「これ、あの詩織さんって、私、あの子にどういう風に見られていたのかしら」
少し不服そうに詩織が言うが、アリスがそう思ったのも分からなくはない。詩織は優しい性格で、頭脳の良さは認めるが、本番には弱そうな印象がある。
「そこは関係ないと思います。もっと下を」
麗華が言う。
「待って。大学の話が出ているし、何か手がかりになるかも。見落とすのも怖いから、昨日の日付の日記くらい通して見ておいた方がいいんじゃないかしら?」
プライバシーを気にしている場合ではないと判断したのか、詩織がそう言うので俺も同意する。
「そうだな」
長い日記だけに、関係ないと思って見落とすのではプライバシーを侵害してまで見た意味が無くなってしまう。授業の不満や不安の話がだらだらと続き、納得できる部分もあるが、これを書いたのがアリスだとはちょっと思えない。今のアリスは愚痴一つ言わない子、そういう認識だった。思ったよりも内向的で、くよくよするタイプだったらしい。
日記を読んでいると空也という名が出てきた。
「ん? 空也ってさっきの奴だよな?」
「あ、ええ。ふふ、空也さん、フラれちゃいましたね」
麗華は俺より先に下の方を読んでいたようでそんな事を言う。
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今日も食事はどうかと空也さんに誘われた。麗華さんたちの友人でもあるし、根は良い人なので、無下にはできないのだが、どうも自分に好意を持たれているようでそこは気になる。気になると言ってもそういう浮かれた意味合いではなく、困ったなあ、と言うのが正直なところ。だって、私には好きな人がいるから。一度きっぱりと断ろうかとも思うが、そこは自意識過剰と見られても嫌だし、何より、彼が申し込みをしていないのに断るというのも、なんだか違う気がする。
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「バカだな。アリスもはっきり言えばいいのに。勘違いするから、ああいう輩は」
好きな人がいる、と言うところでちょっと知らないアリスを発見してしまったようで、居心地の悪さをごまかすように俺は言う。少なくとも空也には、なびかないで欲しいところだ。
「賢一さん…そういう、突っ込みは良いから。ああもう、この好きな人って、絶対……」
「あれ? 詩織は知ってるのか?」
付き合ってはいない様子で、片思いのようだから、でも気にはなるが、いやいや。
「呆れた。どう思います? 麗華さん」
「うーん、私は何ともコメントしづらいですね。でも、アリスの周りにいる男性って空也さんと賢一さんしかいないし、決まりでしょうね、これは」
「それって……ええ!? アリスが俺のことを?」
「他に誰がいるのよ。彼女が記憶を無くして心細く思ってるところへ、つけ込んだくせに」
「ちょっと待ってくれ。俺は何もそんなつもりじゃ…」
「でも、確かに、記憶が無くしたときに出てきたあなたは、強烈な印象がありましたね。私にも。てっきり、昔の彼氏かと思いましたもの」
「麗華…」
それは気を回しすぎ、と思ったが、日記にもそのような事が書いてあった。
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賢一さんが熱心に話しかけているのを見て、この人は私の親しい恋人だったのでは、などと勝手に想像したこともあったが、彼の話を聞く限り、私は幼稚園児程度の女の子だったようで、ああ、もう顔から火が出る、顔から火が出る、顔から火が出る…うん、忘れよう、そう言うこと。あの人には、詩織さんという人がいる。それが私には―――
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「賢一、あなたは読まなくて良いから」
「ちょっと待てよ」
「駄目」
「いや、なら、お前は良いのか? 麗華さんに読んでもらった方が良いぞ、それは」
「ううん、それもそうね。じゃあ、麗華さん」
「ええ。私も立場的には微妙なんですけど、名前、出てきてませんから」
前を譲り、手持ち無沙汰になった俺は部屋を見回す。綺麗に整頓された部屋だ。イルカの形をしたクッションがソファーの上に置かれている。壁際にはギターケースも置かれていた。
「これは…ああ、いけない」
麗華が変な事を言い出すので、気になった。
「どうかしたのか」
「いえ、彼女、なぜ自分が記憶喪失に至ったか、その原因を医学的に検証しようとしていたみたいで。幼児期のショック、もしくは性的虐待を疑っていたようです」
「む。そうか……。医大生だもんな……」
「でも、性的虐待って……そうなの?」
「違う違う。詩織、何を言ってるんだ。両親の交通事故が原因だ。それまでは普通だったんだから」
「でも、賢一はそれ、葵さんから聞いた話でしょう?」
「そうだが、あの人は嘘は言わないって」
「信用してるのね。まあ、そういう嘘をつける人でもないか…」
詩織も葵の性格はよく知っているのだから、説明は要らない。
「駄目ですね。手がかりになるような物は何も。私は少し、遡って読んでみようかと思いますが…お二方には申し訳ありませんが、ご遠慮頂けませんか? あまり、何人にも見られたくないとアリスも思うでしょうし」
「そうね。特に賢一には」
「…そうだな。でも、アリスの好きって憧れの方だと思うんだが…」
「絶対違う」
詩織が怒りの籠もった目で断言するので、ここで言い争いは避けたい。
結局、応接間の葵と熊川の話し合いも結論は出ず、また明日、電話で連絡を取り合おうと決まったという。
「しかしなあ…またかよ」
小康状態、それが一番適切な言い方なのだろうが、こうやって彼女の身を案じてやきもきさせられるくらいなら、普通に医大生をやっていてもらいたかった。
「はっ、何が治療したいだ。俺は葵さんのこと、何にも分かってなかったな」
所詮、他人事で言っていただけかもしれない。そう思うと恥ずかしさがこみ上げてくる。後で葵には謝っておこう。ただ今は電話をかけても、彼女に余計な心配をかけるだけだ。
「ふう。寝よ…」
アパートに戻ったが、風呂に入る気力も起きず、随分と疲労していることに俺は気付いた。
着替えてベッドに潜り込む。
呼び鈴のチャイムが鳴った。
「って、誰だよ、こんな時に……。あっ! まさか、アリスか?」
飛び起きて、玄関に向かう。
「アリス! って…なんだ、セリアか」
紛らわしい金髪。夜中だと色が薄くなり、銀色に見えてしまう。
「その様子だとやはり探していたようですね。ほら、アリス。どうした? 会いたいと言ったのはあなたのはずですが」
「にゅ、すみません…」
おずおずとアリスが戸口の前に出てくる。
「え? ああ、アリス……なんだ、ここにいたのか。まったく……」
全身の力が抜ける。アリスがここに来たときには俺と入れ違いになったようだ。
「お前なあ。麗華や他の人がどんだけ心配したと」
「ん? 麗華?」
小首を傾げるアリス。どうも、雰囲気が違う。
「お、おいおい、冗談は止めてくれよ。麗華だよ、麗華。お前が居候してるところの…まさか、覚えてないのか?」
俺は問うが、アリスが頷いた。
「そうか…うーん」
つまり、人格が変わっている、と考えるべきだろう。
「どう言うことなのですか?」
セリアも説明を求めているが。
「いけないこと? 賢一、困る?」
不安そうなアリス。
「いや、とにかくだ、連絡入れないと。セリアも悪かったな、こいつの面倒見てくれて」
「いえ、面倒と言うほどのことはないですが……例のあれですか? 私はただ、賢一に会いに来た、と言うから、病が出たとは……オホン」
セリアも本人の前でそれはまずいと気が付いたのか、言葉を咳払いで濁す。
「じゃ、上がって少し待っててくれ。お茶を出すから。それに連絡を……」
「いえ、では、私は遠慮しておきましょう。実を言うと明日、もう今日になりますが、朝一番で新幹線に乗らねばならないので。連続勤務で少々、眠いのです」
「ああ、それはすまなかったな。休んでくれ。この借りはいつか必ず」
「ふふ、それは気にしなくて構いませんが」
「にゅっ、セリア、迷惑かけちゃった? ごめんなさい」
「ああ、いいのですよ。それにしても、あなたは…いえ、また明日、明後日に話を聞くとしましょうか。お休みなさい、二人とも」
「お休み」
セリアに手を振って、俺は携帯を取ってくる。
「ああ、つながった。ごめん、寝てたか、麗華」
「いえ、大丈夫です」
麗華に熊川医師への連絡を任せ、俺は次に葵に電話する。
「アリス、とりあえず中に入れ」
「あ、はい。お邪魔、します…」
人格が変わったのかとも思ったが、態度はそれほど変化がない。
「分かった。すぐ行く」
葵はすぐこちらに向かう言う。
「ええ? 明日でも…まあいいか」
人格が変わったかも、という話はしたが、変に期待されてもあれだ。後でおかしな事にならなきゃ良いが…。
「賢一、今の人…」
「ちょっと待ってくれよ。もう一人、連絡しておかないと、今の葵さんの様子じゃ、飛び出してきそうだからな。もしもし、真田です。夜分遅くに申し訳ありません。ええ、それが今、アリスが見つかったところで。ええ。無事です」
橘医師に連絡を入れ、一息つく。




