第九話 動揺
鈴原夫妻の視線が俺に向いているのが分かる。
その視線に真っ向から向き合うことができず、俺は小皿のうどんを箸でつついた。
「そうか。それならいい。だが、少し冷静になりたまえ。君は親しい友人としてそのAさんに接したいのか、それとも治療を考える医師として彼女を見るのか。私達に求めているのはセカンドオピニオンだろう? ま、友人としての悩みや愚痴だと言うのであれば、それはそれで私も君の上司として、人生の先輩としても、相談に乗るが」
「…すみません。一人の患者として見た時の、医師としての意見を聞かせて下さい」
「ふむ。いいだろう。診察しないことには何も診断できないが、多重人格と記憶喪失、それに自殺願望だったね。今は小康状態にある、と。メインパーソナリティや、サブパーソナリティについて、もう少し詳しく教えてくれないか」
「はい…彼女は医大生で、どれがメインなのかは僕には判断しようがないのですが、彼女の幼なじみの話によれば、現在の状態はそのメインパーソナリティに近いのだと思います。なぜなら、記憶を失う以前の彼女も医大生で医師を目指していました。しゃべり方や態度、仮に現在の記憶を失った状態の性格をAマイナスと名付けるとして、元のAとそれほど違いはないようです。幼なじみで保護者をしていたBをして『元に戻ったように見えた』と熊川、失礼、K医師に話しています」
「それだと、記憶喪失以外、特に問題は出てこないのよね? 自殺願望はどうなってるの?」
さつきが聞く。
「いえ、全くその兆候はありません。ですから、保護者B、現在の保護者とは言い難いですが…親友Bはその状態を変えることを極端に嫌っています。いえ、怯えている、と言った方が良い」
「性格はその二つだけかね?」
「いえ、もう二つあります。私が知っているのはオリジナル以外の三つになりますが、幼児期のアリス、いえ、幼女Aが発現していたこともあります。完全に思考が子供で、しゃべり方や態度も幼稚園児と言った感じで…ふふ、いや、すみません。その時は友人Bについての記憶は保持していますが、家族を失った事故のことはまるで覚えていなかったようです」
幼女アリスを思い出して、ちょっと笑ってしまう。
「退行か…その幼児期のAについてもう少し聞かせてくれ。それが発現するのはどれくらいの頻度なんだね? また、それは過去の実際のAの幼児の頃の性格と比べて変化はあるのかね?」
「いえ…頻度は高くありません。継続して一年足らず、そのような状態になっていて、途中で入れ替わったりと言う事は無かったようです。僕が接していたのはほんの数日という短い期間なので確実とは言えませんが…幼児の頃の性格と同じかどうか、それは分からないです。すみません」
相談するにしても、詳しく話せるほど材料がない。
「いや、構わないよ。君の立場としては、Aと面識がある友人Cと言う事で良いのだろう? Aマイナスと幼児Aを知る」
「はい」
「でも、賢一君は自殺願望を持っていた最初のA、オリジナルのAさんは知らないわけね?」
「ええ…。それともう一人、お淑やかなAマイナスと対照的な性格の不良少女Aというか、アグレッシブAがいます。現在、Aマイナスと交代で高い頻度で出てきています。アグレッシブAは、Aマイナスの記憶を共有し、親友Bも覚えていますが、家族の記憶はありません」
ナオは悪い子では無いが、オリジナルのアリスとは違う性格だ。
「メインパーソナリティには違いないが、Aマイナスをメインにするかどうか、そこは少し考えた方が良いな。現在のAマイナスは記憶の欠落以外に、問題点はあるのかね?」
「いえ…全く無いと思われます」
「本人が不安を訴えたり、記憶の手がかりを探して生活や仕事に支障が出ているかね?」
「いえ…それも全く…」
結局、俺は何を考えているのだろう。これでは、問題のない生活をしている患者を危険な場所へ追いやろうとしているように見える。
「しかし、君は記憶の欠落は彼女にとって望ましくないと考えるわけだ。その一番の理由は何かね」
「それは、彼女の親友Bとの関係です。Aマイナスでは接触すらできず、Bは陰から見守るという立場を強いられ少なからずストレスも溜まっているようです。もう一つは、別人として生きることをAが望んでいるのかどうか。通院は続けていますし、医大の、心療内科を選択したのは、過去を知りたいと思う気持ちの表れかも知れません。それに彼女が医大生で医師を目指す、と言うのであれば、完治が望ましい」
「完治しない、としたら?」
鈴原が言うが。
「え?」
「どう治療しても、完治しない場合は、君はどう言う選択をするかね?」
鈴原の言葉に、崖っぷちに立たされて追い詰められたような気分になった。
「…い、いや、待って下さい。ちょっと記憶を失っているだけなら…」
「どうだろうね。確かに、ちょっと記憶を失っているだけなら、ほんのちょっとしたきっかけで、あるいは時間が経てば戻るかもしれない。だが、それを彼女の心が受け付けず、また逃避、と言う防衛機制を取るとしたら、オリジナルの安定は保てないかもしれない」
後遺症、不治の病、そんな事は考えたことも無かったが、しかし、実際に俺は長期療養で完治の見込みのない患者もこの目で見ている。現代の医学では、特に、精神病の分野はまだ歴史が浅く、現代の精神医学では限界が明確に存在すると言う事。
「そんな…」
「賢一君、最初の事故はともかく、幼児Aが発現した経緯をあなたは知っているのよね?」
さつきが別の質問をしてくれたので助け船とばかりに飛びつく。
「いえ、僕が知っているのは途中で保護した幼児Aから、なんです。つまり、発現した経緯は知りません」
「そう。じゃ、Aマイナスが出てきた時の経緯も?」
「あ、いえ、それは少しだけ、知っています。幼児Aが突然家出して…いや、すみません、何も知らないですね。麗華に聞けば…いや、分からないか」
「麗華?」
「ああ、ええ、家出した彼女を保護してくれた僕の友人です。友人と言っても、アリスを通じて知り合ったので、彼女は幼児AもオリジナルAも知りません。その時にはもうアリスはAマイナスの性格になっていて、記憶も失っていました」
もう面倒なので名前も俺との関係も普通に喋る。
「誰も変化した瞬間は見ていない、と言う事かね?」
「ええ、そうです」
「幼児Aが家出した原因は何だったの?」
「それは…それも分かりません。すみません…」
「喧嘩をした、ふさぎ込んでいた、何か環境に変化があった、そんな事は無かったかね? いや、君は知る立場に無かったか」
「いえ、家出したときのAは僕の家にいましたから。保護者Bから預かって、本来なら、僕が目を光らせているべきだったんですが…」
今から思い出そうにも、アリスがなぜあの時、家出したのかはちょっと思い出せない。
「その保護者BがAを君に預けた理由は?」
「橘クリニックの主治医と治療方針で揉めたBが一時的にアリスを避難させるためだったそうです。別の病院に転院させるという話になって、それが気に入らなかった」
「それがきっかけかしら」
「いや、違うだろう。それを患者の前で争う医者がいるものか。賢一君、君はその前にAを保護したんだったね?」
「はい。さすがですね。さらっと話しただけなのに、状況を掴んでるなんて」
「なに、注意して聞いていれば、すぐに分かるさ。保護すると預かるじゃニュアンスが違う。そのAは最初、保護者の手を離れて君の前に現れたんじゃないのかね?」
「ええ。幼児Aが僕の前に現れたとき、保護者Bの手を勝手に離れてしまっていた。最初は警察に届けようとしたんですが、Aが警察から自分で逃げ出したり、色々有って…Bが必死になって探して見つかったときに僕は一発、派手に殴られました」
「あらあら。それはとんだ役回りね」
「だが、誤解が解けたから再びBが預けに来たと。どうしてBがそこまで君のことを信用したかがよく解らないが、それに値する何かを君は持っていたのだろうね」
「いや、買いかぶり過ぎですよ。Bは、がさつで考え無しなところもあるので、僕を安直に避難先に選んだだけですよ」
「それはどうかしら。女の子を初対面の独身男性に預けるなんて…ああ、ごめんなさい、ご家族と一緒の暮らしだった?」
「いえ、そうではないんですが…」
「あらあらあら?」
「さつき、あまり関係のないところを追及するのは止めなさい。彼は院長の娘さんと親しいから、その意味での独身男性には見えなかったという事だろう。そうだったよね?」
「いや、先生、その手のゴシップに全然食いつかなかったくせに、しっかり聞き耳、立ててるんですね…」
「おいおい、人聞きの悪い事は言わないでくれ。君と院長の確執は救急応援の嫌がらせによって部長たる私にも実害を与えている。気付かないはず無いだろう」
「ええ? それってどういうことなの? 院長との確執って」
「ああ、いや、色々、人材の駆け引きがあってね。表向きはそう言う噂が流れているという事さ。事実は院長が外科としての才能を買って、賢一君を外科医に仕立てようと画策している」
「そう。じゃあ、その娘さんも今度、一緒にうちに招きましょうよ」
「いや、あまりプライベートで派手に動くのはまずいよ。話がそれたな。確か…ああ、そうだ、Aの変化の原因だったな。ま、特に思い当たらなくても不思議じゃない。外部の要因とは限らないわけだしな」
鈴原がそう言うと、さつきが頷いた。
「別のパーソナリティが安定しているならいいけど、自殺願望を持ったパーソナリティや破壊的なパーソナリティが出てくると問題ね。最近の様子はどうなの? 記憶は?」
「ああいえ、特に変化は…無かったと思います」
「最後に会ったのはいつだね?」
「ええと…いつだったかな…」
「正確でなくても構わないが。週に一度くらいは会っているかね?」
「いえ、今は月に一度、くらいですかね。なかなか時間が取れなくて」
「あら、それじゃ変化を掴むなんて無理じゃない。彼女がごまかしてたり、記憶について黙ってたら、分からないんじゃないの?」
「いや、それは…でも、あいつが俺に隠し事をするとは、ううむ…」
医大への編入、隠されてしまっていたな。
「思い当たる節があるなら、確か、別の保護者が今はいるんだったね? その人と、緊密に連絡を取ることかな。ま、白百合病院の熊…K医師なら、抜かりなくやっていると思うが」
「もう熊川さんでいいじゃないですか。K医師、K医師ってまるで犯罪者みたい」
「それでも、まあ、守秘義務だ」
「それじゃ、医者同士の会議だってできなくなるし、学会の発表も無理じゃない」
「少なくとも我々、いや、君と私は治療を担当している人間ではないからね。アリス君の友人、という立場でもない。そこのけじめはつけるべきだ」
「でも、今更でしょう」
「ふむ。では、あくまで仮名の、一般論としての話にしておこう」




