第十話 治療方針
俺は連休明け、白百合総合病院の熊川医師を訪ねて、アリスの病状の報告をした。
葵さんもこの場にいる。彼女にはディスティニーランドからこちらに戻ってすぐに電話でアリスの話を伝えておいた。アリスが自分の事を覚えていたという話には素直に喜んだ葵さんだが、新しい人格には困惑していたように思える。
詳しい話は一度、熊川先生と話そうという事になって、今日に至る。
「そうか、そんなことが…」
熊川医師があごひげを触りながら難しい顔で考え込む。
「勝手な事をしてすみませんでした」
俺は謝っておく。熊川医師の治療方針と食い違っていると、治療の妨害と怒られても仕方がない。
「いや、未知の人格と交渉をした点は少し軽率な気もするが、会話してみないことには何も分からないからね、僕らは。君の話を聞く限りでは、かなり良い結果が引き出せたと思うよ」
「そうですか、ふう」
「ま、確かに聞く限りではそのナオって奴は、悪い性格には思えない。アリスの記憶があるなら、そこまで心配いらないんじゃないですか、熊川先生」
葵さんも言う。バイクでやってきた彼女は今も黒いライダースーツを着ていて、どうも医者という感じはしないのだが……精神科の専門医だ。
「うん、まあ、すぐにどうこうと言うことは無いと思う。ただ、判断するのはもう少し様子を見た方がいいね。それから賢一君、自傷行為についてだが、あまり話題に出して禁止するような持ちかけはやめてくれ」
熊川医師がハッキリと言うので俺もすぐに頷く。
「はい、分かりました」
「ナオ君はロックが好きみたいだし、権威や上からの押しつけには反抗心が芽生えるかもしれない」
熊川医師が理由を説明してくれた。
ナオに向かって「怪我をさせるなよ、絶対にするなよ?」と言えば言うほど、ナオはやってみたくなるかも、って事だな。そこは想像してなかった…。
「アイツは元々、ロックなんて聴いてなかったし、そこがちょっとアタシには気になるんだよな。ピアノは小さいときに習ってたと思うが、ギターは習ってない。上手かったのか?」
葵が俺に質問してきた。
「いえ、実際に演奏を聴いたわけじゃ無いので。でも、ギターを鳴らすとストレス発散になるって、そんな感じのことを言ってました」
「ふむ。これはあくまで僕の憶測だが、大人しいアリス君が強い人格を求めて、憧れを抱いた結果かも知れないね。対照的な性格というのは」
熊川が言うが。
「それだとアリスが望んで新しい人格を作ってるように聞こえますよ、熊川先生。態度は全然違うんだよな、賢一?」
葵が俺にその点を確認した。俺も頷く。
「ええ、活発な感じで、ハッキリ物を言う子でしたし、考え方もアリスとは違う気がします。正直、僕には同じ人物には見えない。彼女自身が言ってましたが、どこからか別の魂が入り込んだ感じです」
「馬鹿、お前、霊媒師でも呼ぶつもりか?」
軽く拳で小突かれた。ま、医学の世界で魂とか言ってたらダメだよな。
「はは、まあ、賢一君にとってはそう見えたということであって、魂の証明なんて僕らには手に余る話だ。治療の観点から見ていくとして、アリス君が自分の意思かどうかはともかく、トラウマを克服しようと新しい段階へ踏み出したんだと思う。複雑にはなってるが、まずはナオという人格について詳しく知るべきだろうね」
熊川医師が言った。そうだな、医師は現象をただ眺めてるだけじゃダメだ。患者を救わないと。
「それは同感ですが……幼女のアリスと、記憶を失ったアリスと、今回のナオ。どうもアタシには、次から次へと人格が分裂して、症状が悪化してるように思える」
葵が渋い顔をしたが、肯定的に捉える熊川と、否定的に捉える葵で判断が少し異なってきそうだ。
お淑やかなアリスからしてみれば、時間を奪ってしまうナオは悪化であり不要かも。
ただ、葵の話では『お淑やかアリス』は元々より少しお淑やかになりすぎているので、それも彼女のオリジナルからは少し外れているという。
年齢の成長もあるだろうし、お嬢様の麗華と親しくしていることで、精神病とは無関係に麗華の影響を受けた可能性もある。
「分裂か。それについては、すぐに止める手立てが無い。問題は、ナオが僕らに対して、人格を消そうとしてくることを恐れていることだ。そうだね? 賢一君」
熊川が聞いてきたので俺も頷く。
「ええ、最初は熊川先生にも葵さんにも、内緒にしてくれと頼んできましたからね。まあ、彼女にしてみれば、自分が病気として消されるなら面白くないでしょうし。んん?」
そこまで言って、俺は、ナオがその心配をしたのは、俺が解離性同一障害という病名を告げてしまったせいだと気付く。
うえ。
「ああ、僕が病名を、病気として言ってしまったからか…」
思わず俺は頭を抱える。
「いや、それはもうナオが多重人格と気付いてただろ?」
葵が言うが、ナオは魂が入り込んだと認識していた。まあ、医者より霊媒師の方が怖いとナオは言うかもしれないが。
「その点についてだけど、僕もそろそろ、アリス君には解離性同一障害という事実を告げて、それに基づいたセッションを始めようかと思っていたんだ。アリス君はナオ君が出てきた事による『新しい記憶の消失』で、記憶喪失が悪化しているんじゃないかと不安がっていたからね」
「ああ…なるほど」
俺はそこまでアリスからは聞いていなかったが、通院していたアリスは熊川医師には相談していたようだ。
「さすがに、全くの別人格が出てくるとは僕も予想していなかった。『幼女アリス』の悪戯かなと思っていたんだ」
熊川が言ったが、状況としてはそちらを真っ先に疑うべきだった。俺もアリスやメイドさんから症状を指し示す話を聞いていたのに、とんだ体たらくだ。
「賢一、一つ聞くが、お前は医者になるつもりなんだな?」
葵が唐突に聞いてくる。
「そうですけど?」
「アリスも治療したいと思っているな?」
「ええ、まあ、皆さんの邪魔をしない程度に、ですけど…」
「なら、アリスの前でそんな顔は絶対にするなよ? 患者にとって医者は信頼できる奴じゃないとダメだ。医者が不安がったり、失敗してるかもっていちいち悩んでてみろ、お前、そんな医者に掛かりたいか?」
「あ、ああ…」
ハッとした。俺はアリスの立場というものを真剣に考えていなかった。アリスの目から見える俺の姿についても。
「治療を間違えたなら間違えたと素直に言って謝ればいい。成功確率が低いならそれも言えばいい。だが、患者に必要以上の不安を与えるな」
「はい」
「うん、為になるなあ」
熊川医師が感心したように笑うが、葵よりはベテランのはずだ。
「茶化さないで下さい、熊川先生。私としては、先生の治療法や治療方針が一番安心できます。アタシじゃ、アリスを治してやれない…」
「いやいや、私だってまだ治してないんだ。橘先生がダメと決まったわけでも無いよ。ま、信頼してもらっているなら、一つ、協力をお願いしたいんですがね、橘先生」
「なんでしょうか」
「明日アリス君が通院でここに来る予定になってる。その時に、橘先生も同席してセッションに参加して欲しいんですよ」
「ええ? 私が? それは…アリスの知り合いという理由ですか?」
「その通り。ま、専門医としての手腕も期待してのことだけどね。僕は脳神経外科だし、精神科の資格も持ってるとは言え少々古いからね。うちの心療内科の鈴原先生も多重人格はやったことが無いって言うし」
「ううん、知り合いとしてなら――いや、まあいいか。分かりました。何時に来れば良いですか?」
葵が少し渋ったが了承した。
「午後一時から二時間くらいを予定しているけど、都合が悪ければ言って下さい」
「いえ、それでいいですよ」
葵はすぐに頷いた。
「賢一君は、大丈夫かい?」
「僕も、ですか?」
「うん、君が直接、ナオ君と交渉しているし、初対面の僕ら二人が待ち構えているより、君がいた方がスムーズに行くだろうと思うがね」
「分かりました。来ます」
初対面か。ナオは葵のことは知っていると言っていたが、直に出てきて葵と直接話すのは初めてかもな。
俺はその場でナオに電話を掛け、俺と葵が同席することを伝えた。彼女は分かったと言い、恐れてはいない感じだ。
ま、ここでの通院の記憶もナオは持ってるだろうし、ナオにとっては、熊川は初対面ではないのかも。ややこしいな。
俺はできるだけのことをしてやろうと思いながら、病院を後にした。




