第四話 天使と悪魔
講義を逃げるようにして食堂にやってきた俺は、アリスにジュースを奢ってやった。
ま、俺を公開羞恥プレイのどん底に突き落としてくれた張本人だが、相手は幼女、それもちょっと知能に問題がありそうな子だしな。
この子に怒りをぶつけても仕方が無い。
「なー」
アリスは笑顔で上機嫌だ。ジュースの紙コップを両手で持って飲んでいる。不覚にもその笑顔に和んでしまった。
いや、あくまで惚れているわけでは無い。小さい子が笑顔でいたら、絆されたというだけの話だ。
決して、恋愛感情では……無いはずだ。
「しかし、どうするかな……」
コイツを連れて次の授業に行くわけにもいかなくなった。またあんな思いをするのはごめんだし、大学や他の学生に迷惑は掛けられない。
かといって、警察に行くのも早計だ。どうせこいつ、隙あらば俺に付いてくるし。
俺に気があんのか? お嬢ちゃん?
どうだろうなあ…たまたま気に入ったのか、ま、そんなところだろう。どう見ても俺に対する恋愛感情で無いことだけは確かだ。そこは勘違いはしないようにしないとな。
「あの、真田君」
清楚な声。
また面倒臭い奴がやってきた。見た目は清純派美少女、悪意のかけらも無さそうな人畜無害の人間に見えるが、その美貌と性格は時に思わぬトラブルを誘発する。
「おい、見ろよ、白百合さんだ」
さっそく、食堂にいた何人かの男子学生が言い、一斉に視線が集まってくる。
三年連続ミス三鷹を勝ち取っているとなれば、まあ、視線が集まるのも頷けようというものだ。
「いつ見ても癒やされるなぁ」
「天使だな」
「グッとくるぜ」
「くそっ、オレもああいう女と付き合いてぇ!」
「その辺のアイドルよりずっと可愛いだろ。なんでテレビに出ないんだろ?」
ま、俺は芸能人やミスコンに自分で出るような金目当ての出しゃばり女には全く興味が無いのだが、詩織の場合、実はエントリーをしているのは親友の中田珠美だったりする。
彼女はなぜ自分がエントリーされているか疑問に思いつつも学祭委員会に土下座されて断り切れずにミスコンに出ている純粋な被害者である。
学祭委員会も俺もそこは本人に内緒にしているのがまたなんとも。水着審査は本当に罪作りな制度だと思う。廃止はしないで欲しい。
「真田君、今日はどうしたの」
俺は聞こえないフリをして座っていたが、俺の席の前に座られてしまった。
気づかないフリはできても、無視はできない。そこが俺の弱さだ。
「おい、またアイツだ」
「真田賢一だろ。死ねよ」
「なんであんな奴が白百合さんと知り合いなんだ?」
「レベル低いよな。顔はまあまあだが、ファッションがダサすぎだ」
「ひょろい感じだしな!」
まさに悪意の台風である。中心は穏やかで何ともないのだが、その目が近づくにつれ強烈な風当たりで被害が発生する。
俺は諦めて彼女を見た。腰まであるストレートのロングヘア。いつも自信の無さそうな顔をしていて、その不安そうな瞳が男心をくすぐってくる。
「どうもしてない。サボっただけだ」
俺は無愛想に応じた。そうしようというつもりではなく、どうも彼女に見つめられると平静を保てず、そうなってしまうのだ。
さらに、周りの目もある。落ち着かない。
「でも、真田君がサボるなんて、珍しいですよね」
「どうだかな。それより、お前はどうしたんだ」
「うん、私もサボっちゃった」
俺の返事が嬉しかったか軽く肩をすくめて笑う優等生。怒る気が失せてしまった。
「好きにしろ」
「ええ、好きにさせてもらいます。ところで――そのぅ…その子は?」
詩織も質問をなるべく先送りにしていたようだが、まあ、避けては通れない疑問だろうな。
謎の銀髪幼女。
俺に懐いたらしく、今も俺の上着を引っ張ったり、リュックを興味津々でいじっている。
どう説明したものかね。
まともに説明しようとすればするほど、ややこしくなるし、台風の停滞時間も長くなってしまう。
それに、なんだか、詩織が俺に興味を抱いているようで、その自分の勘違いが気に入らなかった。
こいつは中田珠美の親友で、俺が中田珠美と仲が良いから、その珠美のおまけでしかない。
詩織が俺と親しくしようとしているのは、珠美のお友達だからだ。それ以上でもそれ以下でも無い。
親友のお友達に説明するレベルとして、俺は適当な言い訳をした。
「親戚の子だ」
「嘘です」
速攻で否定された。コイツなら、疑っていても「そ、そう」と言って引き下がると思っていたのに、予想外だ。
「なぜそう思う?」
「だって、どう見ても外国人でしょう? 真田君と顔つきも似てないし、親戚の子なら、名前も紹介してくれると思うから」
まあ、確かにこの銀髪と青い瞳は、俺とは似ても似つかないな。だが、俺の家族が外国人と結婚している可能性だってあるだろう。
そこは食い下がっても仕方ないので、スルーで。
「名前はアリスだ」
「名字は?」
「名字は…知らん。俺が知りたい」
「ええ? まさか、その辺の公園で声を掛けて連れて来ちゃったわけじゃないでしょう? あれ? 真田君? 頭でも痛いの?」
なんだろう、決してそうでは無いのに、説明しづらくなるこの雰囲気は。少なくともナンパでは無いぞー。
「違う。痛いけど問題無い。というか、お前にいちいち説明する義務は無いだろう」
「あります。未成年を騙して連れ回してるなら、通報ですよ?」
「勝手にしてくれ」
「ううん…真面目に本当のことを」
どうしてそこまで首を突っ込んでくるかなぁ。気になるのは分かるぞ? 知り合いの男子学生が小学生女児を連れていたら、当然、関係を問うだろう。
あ、そうだな。
「俺の隠し子だ」
もう自分でも何を言ってるかよく分からない冗談なのだが、ちょっと場を和ませようと思ってノリで言ってみる。
「えっ! えええ!」
「いや、驚きすぎ。あと、真に受けるなよ。俺が十年前に産ませたってなると、俺はそのとき十二歳だぞ?」
「ああ、でも、ううん、この子、何歳なんですか?」
詩織はなんだかまだ疑ってるし。
「分からん。おい、アリス、お前、いくつだ」
「んー? んー? よく分かんない」
自分の歳も分からないか。嘘をついている風では無い。アリスも首をひねっている。
「見た感じ…中学生くらいでしょうか。高校生…」
詩織が言う。
「えっ? そう? 小学生だと思ってたんだが」
「ええ? だって、体も大きいじゃないですか」
言われてみれば、俺達とそう背丈は変わらない。あれれ?
「ハーイ! お二人さん、今日も仲がいいねえ!」
もう一つの台風がやってきた。いや、こっちは普通に騒がしいだけの女だな。
「ちょっとからかわないで、珠美。今、大事な話を問い詰めてるところなんだから」
詩織が言うが、尋問されてる立場なのか、俺は。
「ノンノン、今日から私は中田氏と呼んでね。ナカタだけど、タにてんてんを付けて、ダで! ほれ、言ってみ、しおりん」
「え? ナカダ――」
「言わんでいいぞ」
俺はぴしゃりと止める。
「ちょっとぉ。親友の愛称を呼ぶのを邪魔するって、どういうつもりかな? うん?」
「うるさい。お前はそんな名前で呼ばれて平気なのか」
「え? 平気だよ。私、本名が中田だから、中田氏。何の問題も無いよね? ナカダシ希望します! ナカ――もごもご」
あろうことか、学生が大勢いる食堂のど真ん中で叫び出すアホ。
再び視線が集中した。
「やかましい」
俺は珠美の口を後ろから羽交い締めにして塞ぐ。
詩織もようやく珠美の卑猥な魂胆に気づいたようで、顔を真っ赤にしてうつむいた。
「もう、放してよ、メイクが崩れちゃうでしょ。賢一の熱ーい想いはしかと受け止めたから、アハハ」
「お前な。そこに未成年もいるというのに」
「んん? おお、ハイ! 誰この子、かわいー」
「うう」
アリスの方は、珠美のあまりのハイテンションに怖がってしまったようで、俺の後ろに隠れる。
「真田君の隠し子ですって」
そのネタを引っ張る詩織。
「ええ? やるねー、賢一。親戚か誰か?」
珠美はすぐに冗談だと見抜いた。
「まあ、そんなところだ」
「ふうん。あ、私はりっちゃんで。珠美だけど、りっちゃん。オーケー?」
「りっちゃん?」
「うんうん」
「おい…アリスは冗談を理解しないと思うぞ」
「ええ? アリスちゃん、私の本名は?」
「りっちゃん!」
「おおー、ナイス切り返し。じゃ、愛称は?」
「りっちゃん!」
「いや、ホントは中田珠美なんだけどね?」
「りっちゃん!」
「お、おう、まあいいかー、アハハ」
「いいの!?」
詩織は驚いているが、もうそいつの名前はどうでもいいよ。
「じゃ、ご褒美にお姉さんが梅味の飴をあげよう。うめーって言ってみ、うめーって」
「うめー」
「はいよくできましたー。ちょっとちょっと」
アリスに飴を与え、俺と詩織を押して少し移動する珠美。
「あの子、知的障害か何か?」
声を落とし、そこは真面目に聞いてくる珠美。
「ああ、詳しくは知らないが、発達障害だろうな。LDとか」
「や、やめろぉ。私に医学用語の呪文を唱えるなぁああ」
珠美が頭を抱えて大袈裟に身震いして言う。
「いや、お前、医学生だろが。呪文って」
「それでも、だよ。もっと分かりやすく、いいかね? 私医者違う。ヒポポタマス、嘘つかない」
珠美が片手を挙げて言うが、ヒポクラテスの間違いだろ。まあいい。
「分かった分かった。とにかく脳に先天的な異常があるのかもしれないが、それはよく分からん。俺が昨日公園で保護したときからあんな感じで、家の連絡先も住所も不明だ」
ようやくまともに説明できた。アリスについて分かっていることは、緊急に処置が必要な脳卒中のような類いの病気では無いことだけだ。半身麻痺や痙攣、吐き気も見られないし、元気そうだった。
「ええ?」
「それ、親御さんが心配しているんじゃ…」
詩織の心配はもっともだが。
「警察にはもう連絡済みだが、あそこには置いておけないんだよ。灰皿の煙草とか、そのまんま畳の上に置いてて、アリスが口にしそうだったからな」
「だからって、何も真田君が」
詩織の言い分も分かるが、あそこで放置はできなかった。そこに問題も後悔も無い。
「ふうん、それで、預かってるの? まさか、趣味だから部屋に連れ帰ったとかじゃないよね?」
珠美が聞く。
「お、おう、もちろんだ」
「今、動揺した」
詩織の顔が仏頂面でとても怖い。
「動揺したねえ。まあ、これ上げるから、避妊はしっかりしておきなよ」
珠美がコンドームらしき包みを渡してきたが、慌てて俺は押し返す。
「そんなんじゃねえっての」
「アハハ、ま、ちゃんとした彼女さんがいるもんねえ」
「いねえっての」
「えー、しおりん、どうする? 彼氏があんなこと言ってるよ?」
「し、知りません」
「あっ! あっちゃーん! 数学のノート見せてー!」
珠美は知り合いを見つけたようでそちらに駆けていく。
今頃一般教養の単位とか、お前、本当に卒業できるのかよ。
「じゃ、真田君。アリスちゃんのことを真面目に話し合いましょうか」
詩織はニコニコと笑っているが、なぜか有無を言わせぬ迫力が漂っていた。