第十七話 医師と弁護士
応接室に入ってきた白衣の医師。
「ああ、姉さん」
「ここだと聞いたんでな。佐伯さんの手術、ひとまず成功だ」
「そう」
姉貴が受け持つなら問題は無いと俺は思っていた。
「ミス、してないでしょうね?」
だが時坂は疑ったようだ。
「してないと思うが、それが分かるのはもう少し先だ。明日までは念のためICUで様子を見る。来週に左足大腿部の再手術を行って、ま、一ヶ月もすれば、問題が無いかどうか分かるでしょうね」
「ええ? そんなに待たないと分からないの…? 死んじゃう可能性も?」
「おいおい、姉さん、変に脅してどうすんだよ。命の別状はもう無いんだろ?」
「そうだな。感染症になったりしなければ、あのくらいの年齢の健康体なら、命にかかわることはないだろう」
堅い物言いをする静は、時坂の祖父の失敗が尾を引いている様子。
「そっか、良かった…あー、力が抜けた」
それでも時坂は安心できたようだ。姉貴もその様子を見てふっと表情が緩み笑顔になる。
「先ほど、佐伯さんのご両親にも連絡が取れて、そう説明したところよ。今日中にこちらに来るそうだけど、県外だそうだからこの雪だと明日になるかもね。さて…時坂さん、ビデオの説明をお望みだと聞いてきたのだけれど…」
「ああ、ええ。そうね。説明してもらおうかしら」
「分かりました。ではどうしようかしら…一度、通して見られましたか?」
「ええ、さっき見たけど、それが?」
「なら、もう一度、私が解説しながら、聞いてもらっても良いでしょうね。もし、疑いがあるなら、セカンドオピニオンとして、別の医師の、ここではない病院の専門医に見てもらうことをお薦めします」
「ふん」
「ええと、あら、何か入ってるわね」
持って来たDVDを入れようとした静姉が首をひねる。
「ああ、それ、ロビーでもらって来たやつだから。同じだよ」
俺が言う。
「そう、じゃ、これで見てみましょうか」
先ほどの映像を、静姉がどう判断し、何を目的としていたのか、詳しく説明しながら再生する。時折、一時停止したり、巻き戻したりしたので、結構な時間が掛かった。
「こんなところかしら。まだ何か、質問がある?」
「ううん…」
「もし、今思いつかないなら、またいつでもいらっしゃい。その時に、手術中や診察中でなければ、できる限り対応させてもらいます」
「ちょっと待ってよ。できる限りって…うーん」
「おい、姉さんも他の仕事が有るんだぞ。悩むなら、一人で悩め。時間の無駄だ」
「なっ、そんな言い方しなくたって…」
「そうよ、賢一、彼女には説明を求める権利があるわ。あなたも医大生なら、自覚しておきなさい」
「ああ、うん、悪かった。でも、仕事の方は良いのか? 他の手術とか」
「ふふ、内科のあたしが、そんなに立て続けに手術なんて受け持ってるはずもないでしょ。今回は救急の手が塞がってて、どうしてもと言う事だったから応援よ。最近は、メスは全然持ってないもの。病院の方も、またやらかしたらと警戒してるのかもね」
「そんな…」
俺は病院の姿勢に疑問を覚えた。
「だったら、内科だけやってればいいのに。この藪医者」
「おい…むう」
藪医者と言えと言った手前、何も言えない。
「ええ、しばらく手術は謹慎中だから。今回は大目に見て頂戴。他の外科医がどうしても都合が付かなかったのよ」
「まあ、それは……。ホントに佐伯さん、生きてるんでしょうね?」
「おい…」
「疑うなら、そうね、ICUに顔を見に行きましょう。麻酔で眠ってるから、生きてるかどうかは素人目には分からないかも知れないけど…」
「でも姉さん」
「良いのよ。こんなに佐伯さんのことを心配しているんですもの。親しい友人なのよね?」
「ええ。大事な友人です」
雑菌が入ったらどうするのかと俺は心配したが、ICUの外側の窓から見るだけだった。
「今は麻酔で眠ってるから、声をかけても起きないわ。雑菌が入って感染症を起こすのが怖いから、ここで我慢して頂戴。あさってには、普通に面会できるし、そのように許可しておくわ」
「明日は?」
「明日も、念のためだけど、ここで一日、お休みね。麻酔は緩めるから、手を振るくらいの合図はできると思う」
「じゃ、明日、見に来ます」
「そう。そうね…じゃ、面会時間の1時から5時の間、それか、私に連絡を入れてくれれば、できるだけ対応するわ」
「む…まあ、一応、今だけは礼を言っておくわ。佐伯さんを助けてくれてありがとう」
「あら…いいえ、当然のことをしたまでです」
「ふん、あたしのおじいちゃんは殺して当然なんだ?」
「おい、時坂…」
「…ふう、いいえ、私は助けたかったのよ、本当に。至らなかったけれど、それだけは分かって頂きたいですね…」
「知らないっての。このひ…藪医者!」
人殺しと罵られなくてほっとするが、俺が静の立場なら、藪医者と罵声を投げかけられるのもちょっと辛いだろう。
「どいて、帰る」
「大丈夫? 姉さん」
「ふっ、何を人の心配してんのよ。これくらいでへこたれるわけ無いでしょ。それより、あの子が心配だわ。あれは、あの子の服じゃないの?」
「あっ、そうだ。あいつ、鞄まで忘れてってるよ…」
「持って行ってあげなさい。動揺してるだろうから、家まで送ってあげるのよ」
「そこまでしなくても良いと思うが…了解」
走って行くと、ロビーで追いついた。時坂もすぐに気付いて、引き返してきていた。
「今、取りに行こうと思ってたんだから…あの女がいるから、ちょっとトイレに行っただけで」
顔を赤らめてばつの悪そうに言う時坂は自分でも姉貴との接し方に困っているらしい。
「ああ、いちいち言い訳しなくて良いから。ほれ」
「ん」
「おや、時坂さん、いやあ、良かった良かった。事故があったと伺って心配していましたよ」
チタンフレームの眼鏡をかけた男が、わざとらしく両手を広げて言う。綺麗に髪を整え、ちょっと神経質そうな顔。随分と上等なスーツを着ている。胸のバッジを見る限り、弁護士か。
「ああ、黒井先生。私は大丈夫ですけど、友達が…」
時坂が簡単に事情を説明した。
「ええ、それは心配ですね。具合の方は…?」
「それが足の骨折で、来週にまた手術だそうです」
「ええ? そりゃ酷い。重傷だ。命に別状がないと良いのですが…最近は医療事故が多いですからね、こういう大きな病院は特に」
「おい、何を根拠に…」
不安を煽る言い方に俺はむっとした。
「あなたは? 時坂さんのご友人でしょうか?」
「いえ、こいつはそういうのじゃなくて…あ、ただの通行人、佐伯さんを助けるのを手伝ってくれただけですから」
時坂が言う。真田静の弟だと紹介しないところを見ると、こいつは時坂の裁判を担当している弁護士でもないのか。
「ああ、そうでしたか。一応、礼は言っておきますが、無知はいけませんねえ。統計を見れば一目瞭然。ここの病院で亡くなった患者は、それはもう、とても多いのですよ」
「ちょっと待てよ。そりゃ病院なんだから、死亡する人もいるだろ」
「おやおや、何を言っているのですか、人を助けるのが病院じゃないですか。死んで当たり前などと、そんな思い上がったことでは困るのですよ。高い税金と高い医療費と高い診察料を搾取しているのですから」
「そうよ。うん、先生の言うとおり」
確かに感情としてはしっくり来る話かもしれないが…。
「搾取って…そりゃ、ボランティアじゃないから、そうだろうけど…税金と医療費って同じものだろ」
「いえいえ、保険料というのがあるのを知りませんかね? 全く別物ですよ」
「むう」
俺は反論に詰まってしまった。
「さて、時坂さんはこれからどちらに? ご友人のお見舞いですか?」
「あ、いえ、もう帰るところです」
「そうですか。ご友人のご両親はお見えでしたか?」
「ああ、いいえ、彼女の両親は実家の方にいるので、今夜、ここに来るそうです」
「今夜ですか…ああ、連絡先などは…?」
「いえ、それはちょっと私は分からないので、済みません」
「ちょっといいか? 弁護士のアンタが、何で佐伯さんの両親と連絡を取りたがる?」
「おやおや、それは当然ではないですか? 君は学生さんかな?」
「ええ、まあ」
「では、わからないだろうねえ…この社会では、色々と物いりになるのですよ。ちょっとした入院、ちょっとした怪我、それを暴利を貪る医者という連中が、貧しい人々から金を取ろうと手ぐすね引いて待っているわけですから」
「いや、アンタの言い方は…相当、偏見が入ってないか? 日本は国民健康保険があるから、安く医療が受けられる方だぞ」
「おやおや、君は、あれですね、日本医師会のプロパガンダにまんまと騙されてますよ。日本の医療費はずば抜けて高いんです。知ってますか? イギリスは医療費がとても安い。少し前までは無料だったんですよ」
「でも、医者の報酬だってそんなに低くないだろ。医療費って言うなら、アメリカの方が高いじゃないか」
「ああ、ああ、ええ、良くそう言う誤解した人たちがいるんですよ。なまじ、自分がよく知っていると思ってるから、困るんですけどね。アメリカでは、医療ミスがあったら、弁護士がすぐに出てきて訴訟を起こすんです。日本ではどうですか? 泣き寝入りでしょう。アメリカと一律に比べるのは間違いなんですよ」
論は通っているが、微妙に反論したくなってくる。
「さて、大きな誤解をしているあなたに色々と救いの手を差し伸べたいところですが、その前に、時坂さん、佐伯さんの病室、分かりますでしょうか?」
「ああ、はい、えっと…あれ、なんて言うんだっけ?」
「今はICUで面会謝絶だぞ。知ってどうするんだ? …ビジネスか?」
「ちょっと、アンタ、なんて事言うのよ」
「そうですよ、酷いじゃありませんか。私はただ、佐伯さんの安否を気遣っただけでビジネスなどと、そんなつもりは一向に」
「じゃ、彼女は手術が成功して今は眠ってるから、邪魔せずに帰るんだな。安否はもう明らかだ」
「ふむ、少し、あなたのプライドを傷つけてしまったようですね。いやはや、弁護士というのは知的な職業ですから、人をバカにしていると誤解されやすいようです。私の解説が、お気に障ったのなら謝罪しますよ。佐伯さんの救助を手伝うなんて、なかなか見上げた若者じゃあないですか」
嫌味な奴かと思ったら、お世辞も上手い。これは俺よりはずっとやり手なのだろう。ただ、ちょっとあからさま過ぎる。それに何かこう、嘘くさい。
「ほら、先生もわざわざ謝ってくれてるんだから、アンタも謝りなさいよ」
「え? 俺も?」
「そうよ。ビジネスとか、変な事言ったじゃない」
「いや、でもそれは」
「いやいや、構いませんよ。きっと美少女の前で色気を出して、格好良いところを見せたかったのでしょう。弁護士を言い負かせば、それはもう高得点でしょうから」
「わ。美少女って。ちょっとやだあ、先生ったら」
「いや、それは無い」
俺は真顔できっちり言っておいた。
「む」
「さて、眠っておられるのなら、確かに邪魔をしては申し訳ないですね。また日を改めてと言う事に致しましょう。では、時坂さん、私はこれで」
「あ、はい、失礼します」
「ああ、そうだ、黒井先生でしたね」
俺はこの胡散臭い弁護士にもう少し食い下がってみることにした。
「ええ。何か?」
「色々と先生にご教授頂きたいので、連絡先か、ああ、名刺でも頂けませんか」
「私は人々を助けるという責務があるから、結構忙しいのだがね」
明らかに嫌がった顔。
「そうよ、何言ってるのよ、忙しいのよ、弁護士は」
「でも、日本医師会のプロパガンダに騙された可哀想な子羊を救って下さるのが先生の責務なのでは?」
「確かに、それも重要な仕事だけどね、それ以上に、私は訴訟をたくさん抱えている。その準備もあるのだよ。分かってくれたまえ。ああ、もし、私の話に耳を傾けたかったら、手前味噌で悪いが、何冊か著書も出版しているのでね。それを読んで下さい」
「はあ」
「それでは失礼」
黒井弁護士はさっさと行ってしまった。
色々と問い詰めたかったが、赤子の手を捻られるようにやられた感じ。
「もー、何先生に突っかかってるのよ。そりゃまあ、医者の卵なら、仕方ないかも知れないけどさあ。あの先生、良い人なのよ」
時坂が黒井を庇うように言うが。
「そうかあ?」
「む。ふん。じゃ、私はもう帰るから。佐伯さんのこと、一応! アンタにも礼を言っておくわね。ありがとう」
「いや。ふうん、そう言うところは律儀で礼儀正しいんだな」
「いちいち引っかかる言い方するわね」
「いや、褒めたんだぞ?」
「あっそ。じゃ」
「ああ、待て、家まで送ってやろう」
「はあ? んん? あっ…ちょっ、そ、それって、あたしに気が有るって事?」
緊張して戸惑った様子の時坂は誤解してるし。
「バーカ。雪も降ってるし、友達が事故にあったばかりだろ。不注意でまた君まで事故にあったら大変じゃないか。と、うちの姉が気を利かせておりましたとさ」
「ああ…余計なお世話です! じゃ。付いてこないでよ?」
ま、あの様子なら、特に心配は要らないだろう。下手に付いていくとストーカー扱いされそうだ。放っておくことにする。




