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医師を志す者達  作者: まさな
第二章 もう一人のアリス
32/98

第十二話 医師の長期休暇

(視点が賢一に戻ります)


 木枯らしに身を縮めつつ、俺は帰宅を急ぐ。

 十月も終わりに差し掛かり、そろそろ本格的に寒くなってきた。


「カレーまんでも買って帰るかな」


 コンビニが見えたので、買って帰った。


「あれ?」


 アパートの鍵を回したが、鍵が(・・)掛かっていた(・・・・・・)。今朝は掛け忘れて行ったか?

 もう一度回して中に入る。


 玄関に赤いパンプスが乱暴に脱ぎ捨てられていた。


 すぐに犯人に思い至った。


「姉さん、来てるの?」


 ドアを開けると、床にはビール缶とつまみの袋が散乱していた。

 誰がこれを片付けるんでしょうね?


「あーら、賢ちゃん、お帰りぃ」


 赤いボディコン女がビール缶を掲げてにやける。

 どう見ても水商売の女にしか見えん。


「何しに来たんだ、というか、鍵、ひょっとして開けた?」


「うん、大家さんに頼んで、開けてもらったわ」


「うえ。勝手な事を…」


「まあいいから、駆けつけ三杯」


「いや、俺、明日も学校なんだけど」


「そんなの、サボりなさいよぉ」


「姉さん、今日は非番なの? 明日、響くよ、そんなに飲んだら」


「うわあ。気遣ってくれるんだ、あたしを、うふふ」


「ええ? 気色悪いなあ」


「うっさい。でも心配無用。二週間の長期休暇決定なのだー」


「長期休暇? 良く取れたね、そんな休み。しかも仕事の鬼の姉さんが」


「ふん。飲め!」


「いや、何を急に機嫌を悪くしてるんだ? なんかあった? 男にフラれたとか」


「バカね、男なら、新しく作ればいいじゃない」


「じゃあ、何だよ。仕事でミスったか?」


「………」


「え? マジ?」


「うるさい。私は悪くないんだよ。あの下田が悪いの」


「下田…? 誰それ?」


「白百合総合病院のいけ好かない麻酔医よ」


「ふうん、でも、姉さんがここまで荒れるって珍しいな」


「私、医師免許、取り上げられるかも知れない」


「えっ?」


「だからー、医者じゃなくなるかも。そうしたら、あんたんちで養ってね」


「おいおい、俺はまだ学生だぞ。つーか、何があったんだよ」


「んー、裁判になってさあ、向こうの遺族が怒ってんのよねー。んで、マスコミにたれ込まれて、どこか、ニュースやってないかな。テレビテレビっと。パソコンでもいっか。おお。これこれ、あはは、私が出てるー」



「――対して、真田医師側は過失はなかったとして全面的に争う構えを見せています。さて、ここで我々は新たな衝撃映像を入手致しました。これを見れば誰が悪いか、一目瞭然です」


 映像が切り替わり、手術室がモニタに映し出される。


「よし、ほらみろ。上がったじゃないか」


「少しな。くそ、ミスった。吸引してくれ。鉗子」


「今、スパズムじゃなかったですか?」


「分からん。念のためスキサメトニウムを用意しておけ」


「ああ、まただ。やっぱりスパズムだ。降圧による反射性頻脈ですよ」


「なっ、くそ…だが、今、血圧は」


「それはどっちでもいい。神経ブロックは麻酔医の担当だったな。下田先生。どうするんだ?」


「ちっ。セボは中止、ロピバカイン6ミリで、スキサメトニウムを投与する」


「輸液を追加しろ。よし、止血、完了。頼む、これで落ち着いてくれ…」


「血圧、60を切りました。まだ下がってます」


「エフェドリン4ミリ追加、変だな。セボフルランは止めてるんだな?」


「ああ、止めてるぞ。くそ、何で上がらない。どこか、出血があるんじゃないのか? ちゃんと縫合したんですか、真田先生」


「こちらは問題無いはずだ」


「私も確認しましたが、縫合は完璧ですよ。麻酔じゃないですか?」


「だから、セボは止めたんだ! 麻酔じゃない!」


 そこで映像は切れた。



「これって…」


 改めて見ると、随分と印象が違う。そこだけ切り取られていたせいだろうが、麻酔医と揉めて姉貴が焦ってミスしたように見える。


「アンタもいたから覚えてるだろ。冠動脈瘤と尿管結石の患者だ。ま、急性胃炎でもあったわけだが」


 姉貴が真面目な顔で言う。


「そんな。でも、あれは下田が悪いんじゃ…」


「確かに彼にも適切な麻酔を施さなかった責任、手術前の患者の状態を誤診した責任はある。ただ、あれは、私が主治医として執刀した手術だからな…どう言い訳しても、私の責任は逃れられん」


「裁判はどうなるんだ?」


「さて、病院の弁護士の話では五分五分だそうだ。普通、こういう訴訟では病院側が勝つのが当たり前らしいがな。おかげで私は事実上の謹慎処分、勤務もダメだそうだ」


「…下田は?」


「お咎め無し」


「ええ? なんで」


「映像を見ただろ。ミスしたのは私で、彼はそれを責めているように見える」


「逆じゃん」


「いや、彼は致命的なミスをした訳じゃ無い。麻酔にはそれほど問題が無かった。我々が急性胃炎の出血を見逃し、高カリウム血症を引き起こしたのが心停止の直接の原因だ」


「待てよ。それだと、血圧を管理してた下田やCaブロックで治療の幅を狭めた下田が…」


 言っている途中で、それは致命的でないと気が付いてしまった。


「気付いたみたいだな。麻酔医は致命的なミスは犯していない。あれで下田を責めるのは無理がある」


「いや、それだと、姉さんだって、そうじゃないのか」


「主治医だと言っただろう。患者の状態をカルテだけに頼り、脈拍の異常に気付いていながら、適切な処理が取れなかった。私の責任だ」


「いや、それは…全身麻酔をもっと早く止めて、カルシウム拮抗薬を使っていなければ、事故は防げたはずだ。い、いや、事故じゃなくて…」


「誤診だよ。事故と言えなくも無いが、誤診なんだ。それに運が悪かった。排便の血液に気付いていれば、結果も違っただろうが、尿管結石では便の検査はまずしないからな。溶血が起きていても、尿管の出血による物と結論づけてしまう。それに、高血圧だったのが災いした。通常より患者の体力が落ちていたのに、数値が正常に見えたんだな」


「それは、麻酔医の…」


「いや、私も、油断が有った。高血圧というのは頭に入っていたが、動脈硬化のレベルを見誤っていた。高齢だったということもな。まったく、今思い返しても、色々と悔やまれるよ」


「姉さん…」


「ま、そういうわけだ」


 ニュースが変わったところで姉貴はウインドウを閉じた。


「俺、姉さんは悪くないと思う」


「ほお? 身内びいきか?」


「そんなんじゃない。客観的な感想だよ」


「じゃ、あの麻酔医が私だったとして、下田が主治医なら、同じ事が言えるか?」


「いや…それなら、どうして引き継ぎをしっかりしなかったのか、問うかもしれないな…」


「それだよ。自信はあったが、私は基本的に内科の人間だ。イレギュラーではあったが、緊急ではなかったのだから、引き受けるべきではなかった、のかもな」


「ちょっと待って。姉さんが引き受けなくても、急性胃炎でおかしくなってたんだろ?」


「それだが、腹部を開いたのが負担になった可能性が大きい。急性胃炎だけなら、出血があっても、そんなに早く心停止には至らなかっただろうし、手術前のプレッシャーと誤解がなければ、胃炎と気付いたかも知れない」


「それは、こじつけだよ。姉さんは最善を尽くしてる。致命的なミスはどこにもないさ」


「ふふ、ありがたいな。ありがたいよ、こうして味方がいてくれるのは」


「何だよ、味方、いるだろ? あの補助してた医師とか…」


「彼は研修医でね。それに、前から私に好意を開けっぴろげにしていて、ことあるごとにプロポーズしていたから、証言としては弱いと弁護士に言われたよ」


「研修医…でも、姉さんの味方はしてくれてるんだろ?」


「まあな。ただ、元々外部である私を援護しているせいで、少し立場も悪くなっているし、何分、研修医だからな。あまり発言は求められんよ」


「じゃあ、二人の看護師は?」


「中立だな。彼らは元々、白百合病院の人間だし、医師に使われる側だ。揉め事は望んでないさ。それに、ベテランの方はともかく、新人のナースの方は医療の判断ができるほどじゃない。ほら、飲め」


「なんか、理不尽だな」


「全くだ。本来の主治医にはどうして急性胃炎に気が付かなかったと叱られるし、院長には軽々しく謝罪するなと怒られるし、正直、へこみそうだ」


「そう。じゃあ、飲もう」


 こんな弱気な姉さんを見たのは初めてだ。いつもは散々、俺をからかっているのに。


「それにしても、アンタと酒が飲めるなんてね。煙草やビールを勧めたら、怒ってたくせに」


「そりゃ未成年だったからだろ。高校生にビールや煙草なんぞ、勧めるな」


「あら、それくらいなら、経験として必要でしょうに」


「いらんわ。健康にも悪い」


「そうねえ。あ、そうだ、あの幼女はどうしたの? もう会ってない?」


「いや…その話は…」


 俺は目をそらした。


「あらあらあら? ふふ、その反応は、お姉さん、根掘り葉掘り聞きたくなっちゃうなぁ」


「いや…なんて言うか、守秘義務とか絡んでくるから、あんまり話したくない」


「何それ。アンタ、まだ医学生でしょうが」


「それでも、話せないこともあるよ」


「生意気。言いなさいよ。会ったか会ってないかくらい、ああ、会ってるのね? やっちゃってるんだ?」


「バカ。会ってることは会ってるが、あいつは、本当の保護者が見つかって、今のところは、幸せのはずなんだよ…」


「なあに、その黄昏れた言い方は。好きなら、押し倒せばいいじゃない」


「アホか。そういう話をしてんじゃねーよ」


「じゃあ、どういう話をしてんのよ」


「例えばだ、いや、それは言えねえ」


「ちょっとー、もったいぶらずに教えなさいよ」


「うわ、こら、抱きつくなっての」


「そんな、マジで焦んなくったっていいのに。ぷっ」


「てめえ…お前なんか、医師免許取り上げられて、キャバクラでもやってろ」


「酷い言いぐさねえ。でも、それはそれでありかもね。そこそこのお店のママは狙える自信があるわよ」


「いや、まあ、アンタならできるんだろうけどな。ところで姉さんは、最初は心療内科だったよな?」


「んん? そうだったかもね」


「いや、別に産婦人科にどうして鞍替えしたかなんて聞くつもりはないから。それより、ちょっと気になる症例を聞いてもらえるか」


「いいけど。タダじゃね…」


「いや、弟から金取るのかよ」


「ふふ、じゃあ、一つ貸しね」


「ああ。借りとく。とある少女…いや、人間がいるとしてな。そいつが自殺願望を持ってるとするだろ」


「んん? それってあんたの話なの?」


「だから、誰かって追及するのは止めてくれよ。あくまで一般論として聞いてくれ。俺じゃないぞ」


「あら、そう。なら、どうでもいいけど。それで?」


「そいつが記憶喪失になって、自殺の原因を忘れて普通に暮らしているとしてだ、その記憶って、戻した方が良いのかな?」


「うーん、それはまた、面倒な質問ねえ。そう言うのは兄さんか父さんに聞いてよ」


「まあ、そうだけど、姉さんの意見も聞かせてくれよ」


「あたしねえ。あんまり参考にはならないわよ?」


「ああ。それでいいから」


「そうね、あたしなら、そのまんまにしておくわね。自殺願望でしょ? 思いだして自殺されたら、敵わないじゃない」


「ふむ…」


 葵と同じか。


「でも、姉さん、それだと、記憶喪失で色々と不都合じゃないか? 例えば、そいつが急に不安になったり、親の名前も思い出せないんだぜ? 幼いときの記憶、小中高の記憶、友人の記憶、なーんもない。自分がそうなったら、と仮定して考えてみてくれないか」


「んなもん、急に言われてもできるわけないでしょ。ま、私としては、こうしてアンタと話して、アンタと酒を飲めれば、それでいいかな」


「おい…真面目に頼むよ。一人の人間の人生がかかってるんだから」


「やけに真面目ねえ。うーん、いや、うーん、まあ、思い出は大切よね。アンタにスカート穿かせて、可愛かったのなんのって」


「いや、人を着せ替え人形にして遊んだ思い出は、そんな大切じゃないでしょ。もっとさぁ、初恋や…」


「ぷっ」


「いや、そこ笑うところ違うんだが」


「笑うところよ。初恋なんてね、後生大事に取っておくものじゃないんだから。付き合ってる相手が昔の恋人の話をして悦に入ってたら、気分良いわけないでしょうに。それに、どの思い出が大切かなんて、他人が決めることじゃないでしょ。忘れてる方が幸せな思い出だってあるのよ」


「それは…そうかもだけど」


「ま、そこは新しい思い出を作ってあげたらどうかしら」


 俺の欲していた答えではないが、それはそれで大切な気がした。


「ああ、そうだな。ありがとう、姉さん」


「張り切るのは良いけど、避妊はちゃんとするのよ?」


「だからそういう話じゃねえって言ってるだろ!」


 感謝して損した。

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