第七話 手術見学
第二章第四話『アリスの中のアリス』を割り込みで追加しています。
前話の、飛行機事故を交通事故に変更しています。
公園から戻ってきて、夕食を詩織が作っている。
「賢一さんと詩織さんって、恋人同士なんですよね?」
こたつ台の向かいに座ったアリスが少し小声で聞いてきた。
「ああ、そうだよ」
「そうですかぁ。お似合いですね」
「いやぁ。ありがとう」
ちょっと照れくさい。
「私も、彼氏、できるかなあ…」
「そりゃできるよ。アリスは美人だし」
「わ、ありがとうございます。えへへ」
でも、できて欲しくはない。詩織の親父さんの気持ちが少し分かった気がする。
「記憶を失う前の私には…うーん、無いかな」
以前のアリスに恋人はいなかったはずだ。いて堪るか。
「葵さんは何も言ってないし、たぶん、そうだろう。だって恋人ならすぐに迎えに来るだろ?」
俺は言う。
「はい。そうですね。あっ、わ、私、ここに泊まるのってお邪魔でしたか?」
アリスが困ったように目をそらして言うので、俺は笑った。
「全然。俺と詩織はまだキスもしてないよ」
「ああ、そうなんですか。でも、その割にはもう夫婦みたいな感じですね」
「えっ、そ、そうか」
「はい。とっても仲が良いし、息がピッタリな気がします」
「おお。まあ、詩織とは上手くやれそうな気がするんだ。良い子だからね」
「はい。あのぅ、私は良い子でしょうか?」
「ああ。アリスも良い子だよ」
アリスと夫婦でも上手くやっていける自信がある。
いや、それはまずいか。詩織に対して不誠実だろう。アリスは俺にとって娘、いや、妹という感じだな。そうしておこう。
「あ、ど、どうも…」
アリスは顔を赤くして黙り込んでしまった。
ちょっと気まずい。
話題も思いつかないので、俺は医学書に手を伸ばす。
「私も読んで良いですか」
「ああ、まあ、構わないが…」
断り続けるのも不自然だし、アリスが望むなら制限はあまりしたくない。
「どうも」
アリスも医学書を読み始めた。
「ふう、良かった。二人とも黙り込んで、何をしているのかと思ったら」
詩織がボウルを持って来た。
「何をだよ。変な心配はしないでくれ」
「分かってるくせに」
詩織も言うようになったな。だが、こちらにやましいことはない。
「あ、手伝います」
「ああ、うん、ありがとう、アリスちゃん」
器も持って来て、今日はそうめんと天ぷらだ。トマトサラダも付いている。
「「「 頂きます 」」」
三人で食べる。
食べ終わって少しくつろいだ後、アリスから順に風呂に入ることにした。
「心頭滅却して下さい」
と俺の目の前の詩織が顔を近づけてきて言う。ニコニコとして言うのでちょっと怖い。
アリスの裸が俺の脳裏を駆け巡っているが、何とか表面上は平静を装った。
風呂から上がり、三人でトランプで遊ぶことにした。
アリスも詩織もパジャマ姿なのが何とも。アリスに妙に色香があって、なるべく俺は詩織の体を見るようにした。
「あ、やった。これで上がりですね!」
アリスは神経衰弱で以前とは比べものにならない強さを見せてきた。
「く、くそ、もう一回だ!」
「賢一さん…大人げないです」
「ええ?」
詩織の俺に対する評価が下がっている様子だが、だが、ここは引き下がれない。なんか悔しい。
トランプの後でまた医学書を三人で読みふけり、十一時になったところで寝ることにした。
いちいち言わなくても良いが、ただの睡眠だ。
詩織もアリスも意識した様子で緊張していたが、二人にベッドを使わせて、俺は床。
アリスが降りてこないので、安心して眠れる。
「アリス、ずっとここにいてもいいからな」
またアリスにいなくなられても困るので俺は先に言っておく。
「あ、は、はい…」
「もう、それ…プロポーズみたいな言葉なんですけど…仕方ないなあ」
詩織も不満はあるようだが許してくれた。事情は分かってくれている。
翌朝、アリスがベッドの上でちゃんと眠っていたので俺もほっとする。
気持ち良さそうに詩織と二人で寄り添って眠っていた。
どちらも凄い美人だ。
特にアリスの半開きの唇が無防備で、いやいやいや…。
俺はさっさとジーパンとTシャツに着替え、朝ご飯を作ることにした。
「お早うございます。起こしてくれれば良かったんですけど」
「ああ、お早う詩織。アリスは?」
「まだ眠ってます。気持ち良さそうだったので、起こすのも可哀想だと思って」
「そうか。うん、良かった」
アリスがそこにいてくれるだけでほっとする。
「ええ。良かったです。じゃ、手伝いますね」
「ああ」
味噌汁を作って、アリスも起きてきたので、三人で食べた。
昼過ぎにアリスは麗華の家に帰っていった。
記憶はあまり戻らなかったようだが、焦らなくても良いなと俺は思っている。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
今日は手術の見学で俺達は白百合総合病院にやってきている。
手術室に入るのではなく、その隣に見学のためのガラス張りの部屋が作られており、そちらにだ。もちろん患者にも同意を得ている。
「うう、私、帰りたい…」
俺の隣にいた詩織が身震いして言う。
「まーた、詩織は…適当にスプラッター映画だと思って見てりゃいいのよ、こんなもん。あたしは大好きだけどな、ポリクリって。見てるだけで単位ゲットできちゃうし」
珠美が言うが、例えが凄く不適当だから止めろと。それに詩織はその手の映画は苦手だろうに。
「気楽だな、お前も。ノートも持って来ないなんて。覚えることがたくさんあって、俺は嫌いだが」
言う。
「そりゃ、眼科だもん、あたし」
「そりゃそうだが…」
「今日の患者さん、心臓の手術だそうよ。これはラッキーだったわ」
ツインテールの黒崎が言うが。
「おい、黒崎、今の発言はちょっと不謹慎だぞ」
俺は言っておく。患者にとっては手術はやりたくてやることでは無い。
「ええ? ああ、ええ、そう言うつもりじゃ無かったけど」
「ありゃ? こっちに手を振ってくれてる。どもー」
ガラス越しで声は聞こえないが、珠美が挨拶する。と、向こうの医師が拳を振り上げて怒るジェスチャー。
「ありゃりゃん?」
「どうしたのかしら。何か私達、失礼なことしたかな…」
詩織も心配するが、変な医者だ。その医師は二言三言、同僚と話をして、その同僚がぽんと手を叩いて、何かを思い出したように壁際に行く。
「いやー、済みません、忘れてました。これで向こうにも音声、入ったはずですよ」
「おい、聞こえるか、賢一」
「げ、姉さん…」
青の手術服で帽子もかぶっていたので、気付かなかった。
「そっちの声は聞こえないみたいだが、ふん、今日、お前んちに行くから、ビール、用意しとけ」
「あなたのお姉さんなの?」
黒崎が聞いてくるが。
「いや、他人だぞ。絶対に他人。何でこういうときに、私用の連絡に使うんだよ…」
恥ずかしい。
患者も運び込まれてきた。
医師は三人、看護師が二人。全身麻酔を掛ける様子。
こちらのモニタにも脈拍などのバイタルの数値が表示される仕組みだ。
天井からのカメラもあり、大きな映像モニタもある。
心電図用の電極や、電気メスの対極板、気管挿管、点滴などを患者に装着し準備していくが、結構やることが多い。
看護師も各自てきぱきと進めていくが、くそ、メモが間に合わん。一人ずつやって欲しい…。
「賢ちゃん、そんな真面目にメモらなくても全部、看護師さんがやってくれるっての」
うるせえよ、珠美。
「じゃ、始めましょう」
三十分ほどして準備が完了し、手術が開始された。姉貴が慣れた手つきでメスを入れていく。
「さすがね…あなたのお姉さん。速いし的確だわ」
黒崎が褒めるが、褒められても俺は肩をすくめるしかない。悪い気はしないけど。
一見、手術は順調に進んでいるかのように見えた。
「おい、やっぱり麻酔、強すぎるんじゃないのか?」
先ほどから姉貴がしきりに患者の状態を気にしている。横柄な口の利き方だが文句は言われない様子。
「いえ、正常値ですよ」
患者の頭の側に立っている麻酔医が答えた。
「どうも、脈拍が安定しないわね」
俺も気になっていたが、黒崎が口に出して言う。
「真田先生、血圧低下、上120下60です」
最初は上160だったが…。
「顔面蒼白、呼吸も怪しい。サチュレーション、確認して」
姉貴が言う。
「92%です」
「心拍数は?」
「あれ、おかしいな…」
「おい、ハートレート! 心拍数!」
「は、はい、102です」
「エフェドリン4ミリ追加。ヘスパンダー全開にしろ。セボフルランを抑えて、局部麻酔で切り抜けるぞ。ロピバカイン6ミリ」
にわかに慌ただしくなってきた。
「待って下さい真田先生。麻酔医は僕ですよ」
「主治医は私だ。従ってもらう」
「あなたは代理ですよ。うちじゃ、神経ブロックは麻酔医の担当ですからね。血圧を気にしすぎだ。正常値じゃないですか」
「この患者は高齢で動脈硬化もかなり進んでいる。数値だけを見ていると危ないぞ。呼吸も少し速くなった。危険な状態だ」
「数値だけ見てる訳じゃ無い。私はこの患者さんをよく知ってる。体力は有る方だ」
「心拍数、上がってます。105、110、頻脈ですね。危険じゃないですか?」
姉貴の助手の医師が言う。
「大丈夫です。頻脈なら、ワソランはどうですか」
麻酔科医が言った。確か、カルシウム拮抗薬。血管の膨張を促す。だが、これは降圧剤になるのではないか。
「バカな。血圧が下がってるんだぞ」
「降圧効果は低い。危険だと言うなら、まずは安定させましょうよ、真田先生」
「分かった。だが、血圧が50を切ったら、全身麻酔はストップだ。いいな」
「分かりました、分かりましたよ。ったく、内科の先生はこれだから。心配のしすぎですよ。こっちは何度もICUを経験してるんだ」
静姉の物言いもどうかと思うが、麻酔科医も意地になって良くない感じだ。
「血圧は? 誰か見ててくれ」
「はい、私が見ています。65、少し上がりました」
「よし、ほらみろ。上がったじゃないか」
「少しな。くそ、ミスった。吸引してくれ。鉗子」
らしくない。姉貴の腕は知らないが、苛ついてミスというタマではない。
手術が色々と間違っていますが、あくまでフィクションです(;´Д`)




