第四話 記憶の分類
2017/1/1 若干修正。
俺と詩織は図書館に行き、記憶や多重人格についての医学書を読んだ。
いきなり多重人格の本を持ち出しては詩織に怪しまれるので、記憶についての本を先に読んでおく。
記憶には、『エピソード記憶』と『意味記憶』という分類がある。
エピソード記憶は、個人的な出来事を中心にした体験で、例えば『アリスは俺が公園で保護した少女で、その時は小学生のようであった。美人だったのでドキッとした』
アリスに対する俺の感情や、その時のアリスの行動なども記憶に残っていればエピソード記憶だ。
これに対して意味記憶は、『アリスは銀髪だから外国人である』『アリスは女性である』『ここは三鷹市である』という客観的な情報の記憶だ。教科書や辞書のような言葉を通じて覚えるモノと言ってもいいだろう。
今のアリスは受け答えから考えて意味記憶の方はある程度回復していると思われる。
俺が保護した直後の幼女アリスは意味記憶が欠落していた。まぁ、俺はまだ医師では無いので、早計な判断はできないが。
さらにもう一つ、『手続き記憶』というモノが有り、これは体で覚えた記憶で、自転車の乗り方や、お辞儀など。これも今のアリスは回復していると思う。
記憶障害とは、これらの記憶が『思い出せない症状』と、『新しく記憶ができない症状』に分けられるが、アリスに関して言えば、『思い出せない症状』だ。
症状が起きた以前の記憶が無いため、『逆行性健忘』であり、肉体的な脳器官の損傷が無いなら心因性の『機能性逆行性健忘』となるが、アリスの状態は葵に聞いてみないと詳しい事は分からない。
記憶障害については治療法は確立されておらず、思い出話や再体験、親しい人との会話などがあるようだが、誘導して狙ってもそれで記憶を回復させるのは難しいらしい。
また、エピソード記憶であれば記憶が戻らなくても日常生活には問題無いので、入院で無くても良いようだ。
「明日、アリスちゃんとお話ししてみましょう。それで何か思い出してくれるかも。それに退院も早くできそうですよ」
詩織がそこを見つけて言ってくる。
だが、アリスはただの逆行性健忘ではない。
多重人格、正式には解離性同一障害であり、解離性健忘である。
何らかの精神的ショックやストレスを原因として、それに耐えられなかったアリスが自己防衛機制の一つとして新しい自分を創り出し、記憶を失っている可能性がある。
また、信じたくはないことだが、記憶とは結局、本人の自己申告でなければ確認しようがない。
全てが演技という可能性も残る。
アリスが自作自演で幼女を演じていた?
そんな馬鹿な。
何のために?
あり得ないな。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
翌日、解剖実習とオスキー対策の授業を終え、詩織と二人でまた病院にやってきた。
オスキー対策では、俺は男子と組むつもりだったのだが、黒崎がスカートを脱がされた事を根に持ってしまったようでそれを許さなかった。
さらに、黒崎は、俺と詩織の破局でも狙ったのか、乳がんという設定にして、ブラを外して俺に乳房を揉ませるという夢のような…いや、悪夢の展開にしてくれた。
わざとなのだろうが、黒崎が敏感に反応して喘いだため、珠美や周囲の学生が面白がってはやしたてまくるし、詩織も本気で怒ってしまい、ここにやってくるまで口をろくに利いてくれなくなっている。
このまま別れることになったら、黒崎に絶対文句を言ってやる。いや、そんな事では許されないな。全裸にして…いやいやいや。
俺は詩織の機嫌を取ろうと話しかけた。
「なあ、詩織、いい加減、機嫌を直してくれよ。わざとじゃ無いんだし」
「……」
詩織が頑なな態度を取ってくるが、普段の彼女が優しく従順なために、その落差がキツイ。
俺は少し茶化しつつ、割と本気で言う。
「俺が揉みたいのはお前の胸だけだ」
「!……も、もう。アリスちゃんの胸はどうなんですか」
「えっ、いや、それは…」
風呂上がりの時に全裸を目撃してしまったが、それほど豊かな胸ではなかった。実に慎ましい胸だった。白い肌とピンク色の――ゲフン、あれはあれで捨てがたいが、俺の恋人は詩織だ。アリスの年齢はどうやら法的な安全圏に入ったようだが、詩織という最高の相手がいるのに、そういう浮気は駄目だと思う。
「もちろん、アウトオブ眼中だ」
俺は自信を持って答えた。恋人として完璧な答えだろう。
「今、答えるまで数秒かかりましたよね?」
「う、いや、そこは、虚を突かれたというか、真剣に考えた結果を尊重して欲しいと言うかな…」
また選択肢を間違えてしまった。次は即答で行こう。
「もう。ロリコンでは無かったようですけど、余計に私、不安です」
「んん? いや、俺のアリスに対する気持ちは、妹や保護したいという気持ちであって、恋愛感情とは違うぞ?」
言えた。うん、良いことを言った。その通りだ。俺はやましい気持ちでアリスを保護しようとしたわけじゃない。色々と動揺はしたけど。
「それは信じますけど、でも、賢一さんが医師になったら、普通に女性の胸も診察するわけですよね?」
「ん? そうなる…か…」
「そうなります。その時、私はいつも、ああいうもやもやした黒い気分を味わうのかと思うと、はあぁ…。いえ、ごめんなさい。あなたが医師になるのは決定事項で、それに私がとやかく言えるようなことではなかったですね」
「ああ、いや…」
君のためなら医師を止めても構わない、そう断言できる奴なら、格好良いのだろうが、アリスの治療を考えると、専門的な精神医学をかなり詳しく学ぶ必要があると思う。
そのためには、真面目に医師の勉強をした方がいい気がしてきた。もっと俺が普段から精神医学の医学書をきちんと読んで、レポートもきっちり調べて出していれば、具体的な治療法についても知識を得ていたかも知れない。
だが、そう思うと…そう思ってしまうと、それはアリスの為の行動であり、詩織に対して不誠実な気もしてくる。
アリスを助けてやりたい、治療してやりたいと思うのは、恋愛感情なのだろうか?
詩織がもし、同じ解離性同一障害になったら、俺は迷わず全てを医学に投じて全力で医師になって、治療してやろうと思うだろう。医師になれなくても、働いて金を稼いで、良い病院に入れてやろうと思うだろう。ま、コイツは大病院の院長の娘だから、そういう金には困らないはずだけど。
ううん…。
「じゃ、賢一さん、アリスちゃんには私達の問題は持ち込まないでおきましょう。彼女は今、大変なときですし」
「そうだな」
詩織はまだわだかまりが残っているようだが、アリスに対する気持ちはありがたかった。
病院のロビーに入ると、麗華がこちらにやってきた。
「真田さん」
「ああ、麗華さん」
昨日は無地のブラウスだったが、今日は派手な柄物だ。丈の短いフレアスカートから伸びるすらりとした足に思わず目が行ってしまった。ブルーのハイヒールがおしゃれだ。
「オホン、それじゃ、アリスちゃんのお見舞いに行きましょうか」
「お、おう」
絶対、今、詩織に視線を見られたなぁ。
咳払いがわざとらしかった。
このままだとフラれてもおかしくない。気を付けよう。
アリスの病室にノックして入ると、アリスが笑顔で迎えてくれた。以前の満面のニパーッ!とした笑顔ではないが、優しく遠慮がちに微笑むアリスも可愛いと思う。
元気そうで少しほっとした。
「やあ、元気そうだね」
俺も笑顔で声を掛ける。
「はい。ええと、おかげさまで」
アリスが一瞬、どう受け答えしていいか迷ったようだが、俺に気を遣う必要はどこにも無い。
「ああいや、そう堅苦しくならなくていいよ。僕らは知り合いだからね」
「はあ」
この病室は個室だ。病室と言うよりもホテルの一室のような印象を受ける。それは病室と言うと白色という先入観があったからかもしれないが、柔らかな亜麻色に統一され、床もカーペットが敷いてある。
昨日はアリスの事で頭がいっぱいで、病室を観察する余裕も無かったが、この環境の方が良いだろうと思った。
心電図などの装置も無く、アリスは包帯を巻いておらず、病人という印象も無い。黄色のパジャマを身につけている。
「アリスちゃん、気分はどう?」
詩織が具合を聞いた。
「ええ、おかげさまで、問題ありません。ただ、昔のことを思い出そうとすると頭痛がしてきて、熊川先生にも無理に思い出さないようにと言われました」
「そう。うん、大丈夫、焦らなくて良いと思うから」
詩織は頷いて優しく言う。
「はい」
「私、ケーキを買って来ましたの。みんなでお茶にしませんか」
麗華が紙袋を見せて言う。
「ああ、いいですね。アリスは食べても大丈夫かな?」
服用している薬の関係で、食べられないモノもあるのではないかと少し気になった。
「ああ、はい、軽い精神安定剤をもらっていますが、食べ物は大丈夫だそうです」
アリスが自分で答えた。随分としっかりしている。
「じゃ、お茶を入れますね。ポットを借ります」
詩織がお茶の準備をして、麗華がケーキを出すが、俺は手持ち無沙汰だ。アリスと目が合う。
「何か、あれから思い出した?」
質問してみる。
「いえ、何も…ごめんなさい」
「ああ、気にしなくて良いよ」
「このケーキ、フランスで賞を獲られた方がパティシエをなさっていて、とても美味しくて評判ですのよ」
麗華がケーキの話題を振ってくれて気まずくならずに済んだ。
「ああ、これは美味しいな」
チョコクリームが複雑な形に掛けられていて、栗色のパウダーが香ばしい。今まで食べたことの無い味だ。
「んー、美味しいです!」
アリスが少し感動したように言う。今の表情、幼女アリスの時とよく似てたな。
「うん、本当に」
詩織も頷いている。
「アリスさんはお菓子は何が好物ですか? 言ってくれたら、また持って来ますわよ」
「ありがとうございます、麗華さん。うーん、そうですね…なんだろう。チョコは好きなんですけど」
「パフェはどうだ? 果物がたくさん入った白いクリームの」
俺が思い出してくれることを期待して、言ってみる。
「ああ、それも美味しそうですね」
アリスはニコッと笑って頷いたが、俺とファミレスで食べた事は思い出さなかったようだ。残念。
他に、俺といたときに、何かあったかな…。
「ああ、そうだ、アリス、早口言葉、ちょっと言ってみてくれないか」
「早口言葉ですか?」
きょとんとしたアリスだが。
「青巻紙、赤巻紙、黄巻紙って言える?」
「青巻紙、赤巻紙、黄巻紙、ですか?」
言えた。
「ああー、そうか、いや、俺が教えたときには、間違えて教えちゃって、黄色のところが、黄マキマキになってたんだ」
「ああ…ごめんなさい、覚えてないです」
「やっぱり、別人なのかしら?」
「その可能性もありそうですわね」
詩織と麗華はその可能性を考えたようだが、精神病のことは伏せておくか。
記憶のことばかり話していてもアリスがつまらないだろうから、大学の話題も混ぜる。
「第一食堂の唐揚げ弁当はマヨネーズが標準で付いてるし、第二食堂のハンバーグ定食はボリューム満点だからお得なんだ」
「へえ。一度食べてみたいです」
アリスも興味を示してくれた。
「ああ、退院したら、一度、食べに行こう」
「はい」
「やあ、ちょうど良かった」
熊川医師がやってきた。
「ああ、先生」
「心理テストの結果が出た。特に問題は無いよ。それで考えてみたんだが、今の状態でも生活に問題は無いはずだし、どうだろう? 退院して、通院で様子見と行きたいんだが」
熊川医師が俺達を見回して言う。
「ああ、それが良いですわね。病室に籠もりっきりになるより、真田さんと大学に行ってみたりしたら、何か思い出すかも知れませんし」
麗華が言う。
「そうですね。賢一さんのアパートにも、寄ってみましょうか」
詩織も賛成のようだが。
「熊川先生、葵さんは…」
俺は葵の意見が気になった。
「ああ、大丈夫だ、彼女とも話をしている」
なら、俺が反対する理由も無いな。
「そうですか」
「うん、じゃ、決まりだ。こちらとしては今すぐ退院してもらっても構わないから、アリスさん、帰り支度をしておいてくれ」
「はい」
「それと、鬼岩君と真田君、ちょっと退院の手続きで話があるから、診察室の方へ来てもらえるかな」
「ええ、分かりました」
「はい」
詩織とアリスにここを任せ、熊川医師と診察室へ向かう。
廊下で看護師が熊川医師に話しかけてきた。
「先生、115号室の患者さんですけど、やっぱり腹痛が酷いそうで」
「ああ、じゃ、腹部のCTを頼む」
「分かりました」
看護師が頷いて立ち去ると、今度は患者らしい腰の曲がったお婆さんが熊川医師に話しかけてきた。
「熊川先生、この間はどうも」
「ああ、お婆ちゃん、今日はどうしたの?」
「腰が痛くてねえ」
「ああ。今、順番待ち?」
「そうそう」
「じゃ、整形の先生にしっかり看てもらって下さい。お大事に」
「はいはい」
やはり忙しそうだ。
「じゃ、入ってくれ」
「失礼します」
椅子を勧められ、俺と麗華は腰掛けた。
「アリスさんの事だけど、さっきも言ったとおり、退院ということにしようと思う。それで、手続きの方なんだがね、手続き上は鬼岩さんが保護者ということになっている。診察代の請求の方は橘さんが支払うそうだから、そこは気にしなくてもいい。支払い手続きもこちらでやっておく。ただ、アリスさんの引き受けなんだが……」
熊川医師が言い淀む。
「ええ、なんでしょうか。はっきり仰って下さい」
麗華が促した。
「うん、彼女の身元の引き受けなんだが、鬼岩さん、記憶が戻るまで彼女を預かってくれないかな」
「ああ。ええ、私は構いませんわ」
「いや、ちょっと待って下さい。葵さんはどうしたんですか」
おかしな話になっているので俺は問い詰めた。
「橘さんは君に代理を任せるそうだ」
「ええ?」
「だから真田君が引き取るという事であれば、君がアリスさんを預かってくれ」
「熊川先生、それは、その方がアリスのためになると考えた上での判断なんですよね?」
「もちろんそうだ。橘さんは覚えていない自分よりも、アリスさんが懐いている人物の方が良いだろうと言っていた。今朝もアリス君と話をしたんだが、君には良い印象を持っているようだ。橘さんよりもね。
今のアリス君にとって、橘さんは見知らぬ人でしか無いんだ」
葵は熊川とは話をしているようだが、アリスの見舞いには来ていないらしい。見知らぬと言ったって、会いに来て親しくなれば良いのでは無いかとも思うのだが……。
「うーん、分かりました。じゃあ、僕が引き取りますよ」
麗華もアリスとは仲良くなった様子だが、保護してくれただけの人だからな。無関係だ。いや、それだと俺も同じか?
「二人とも、気持ちはありがたいが、よく考えてから返事をして欲しいんだ。なぜなら、アリス君はこのまま記憶が戻らない可能性もゼロでは無い。極端な話だが、一生、彼女の面倒を見るということにもなりかねないんだ」
「ええ?」
そう言われてしまうと、考えてしまう。
一週間や二週間なら、全然問題無い。今のアリスはしっかりしている感じだし、留守番もできるだろう。だが、それが一年や二年となってくると、俺の生活にも影響が大きく出てしまう。
「構いませんわ。客人として一生でも歓迎致しますわ。うちの離れも使って頂いていいですし」
麗華が頷いて言うが、この人には敵わないなと思ってしまった。
「じゃ、当分の間、鬼岩さんに面倒を見てもらうとしよう。それでね、一つ、君には内緒にしていたことがあるんだが、保護者ということで話しておこう。それで気が変わるなら、言ってくれ」
「はい、何でしょうか」
熊川が多重人格、解離性同一障害についても説明したが、麗華は驚いたものの、拒否はしなかった。
「分かりました。アリスさんも大変なことになっていて可哀想ですし、これも何かの縁でしょう。私にできることはさせて頂きますわ」
「ありがとう」
熊川医師がお礼を言ったが、俺も同じ気持ちだった。口には出せなかったけれど。




