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医師を志す者達  作者: まさな
第一章 偽りの自分
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第十四話 解剖実習

描写あっさりですが、解剖が苦手な方はご注意下さい。

今回を読み飛ばしてもシナリオは次の話で掴めるようにしてあります。


2017/1/13 若干修正。

 翌日も遅くまで本を読んでいたので眠い。

 今日は人体解剖実習の二日目だ。

 更衣室で緑の術服をビニールの包装を破って取りだし――使用後はクリーニングに出される。サイズが書いてあるだけで、使い回しなので詩織は少し嫌がっていた――、帽子をかぶり、手を洗う。ゴム手袋を付け、アルコールで洗浄し、両手を胸の前でくっつけないように注意しつつ、両扉を背中で押して開ける。構造は他の実習室と同じだが、ここには遺体が有ると言う事で、他の学生も言葉少なだ。


「よ」


 先に来ていた珠美もいつもの大きな声ではなく、小声で挨拶してくる。


「よう」


「大丈夫、大丈夫、大丈夫、怖くない、怖くない、怖くない…」


 その隣で詩織が目を閉じて念仏のようにぶつぶつと言っている。


「あれ、大丈夫か」


 珠美に聞く。


「さあねえ、ま、なるようになるでしょ」


 とは言え、俺もテーブルの上に黒のビニールっぽい袋に入れられている人体らしき物を見て、少なからず動揺している。


「準備はできたな。できてなくても時間がないから、脱落者は捨てていくぞ。まず、喜べ、諸君、君たちのために有志の先輩が、本来君らがやるべき肉体労働をこなしてお膳立てをしてくれている。それぞれのテーブルの上に載せられている袋、それがご遺体だ。次から、君らが自分で抱きかかえてご遺体を運ぶから、そのつもりで」


 術服を着た教官が言う。


「うえー、重いんだろうなあ。あたし、アンタのために、美人の裸が見放題って冗談を用意してきたんだけど、なんか言う気が失せた」


 珠美が低めのテンションで言う。


「ああ、それがいい。たぶん、言われても面白くない」


 俺もおざなりに言う。


「静かに。では、我々と医学の発展のために体を提供して下さった方々に感謝。黙祷」


 教官が言い、全員黙祷。


「ありがたや、ありがたや…」


 ()祷だぞ、珠美。


「黙祷、終わり。では、補習組、ばらけてそれぞれのご遺体を担当しろ。今日は君らの先輩が腕前を披露して下さるから、それの見学だ。と言っても、赤点の奴らばっかりだから、あまり参考にはならんがな。適当にグループに分かれてテーブルに着きなさい」


 16あるテーブルに、率先して素早く移動する補習組の学生達。俺は珠美たちとは別のテーブルに行こうとしたが、服を掴まれた。


「おい、掴むな、バカ」


「どうせ今日はメスを持たないんだし、構わないわよ。アンタはこっち」


 教官にどやされるかと思ったが、叱責は飛んでこない。まあ、飛んでこないからと言って油断はできない。ちょっと態度が悪いとそれだけで赤点にされる事も珍しくない。俺は一教科、珠美のせいで追試に回されたことがあった。


「俺が先だ」

「俺が先だっての」


 補習組の学生がテーブルの前で言い争い始めた。


「だいたい、ばらけたな。そこ、言い争ってないで、じゃんけんだ」


 教官が言う。


「ぐは、負けたぁ」

「よしっ。危ねー」


 なぜ遺体の取り合いをするのかが不思議だが、なにがしか理由が有るのだろう。


「では、今日は腹部の横隔膜の切開まで行くぞ」


「ええー? 無理だよ…」

「3時間でできるわけないだろ…」


 補習組が揃って(うめ)き声を挙げる。キツイみたいだな。ステンレステーブルを見ると、端の方からブーンと微かな音が聞こえている。何だろ?


「実際の手術で切開に一時間もかけてたら、助かる命も助からんぞ。では、きちんと後輩たちに説明しつつ、始めること。質問もきちんと答えるように」


 教官が言うが、この教科で赤点は避けたいな。


「ええと、じゃ、自己紹介しておこうかな。執刀を担当する吉住です。6年、留年1回。必修の正常解剖Aを落としちゃってね。このざまだ。だから、全然参考にはならないから、そのつもりで。どうせ教官が後で言うだろうから、簡単に説明するね。遺体はそこの保管室の冷蔵庫に入ってる。そこから担ぎ出して、ストレッチャーを使ってここまで運ぶ。この遺体は、さっき俺たちが運び出した。有志なんて言ってるけど、つまり君らも必修を落として補習となれば、余計な時間を取られるし、それが必修の時間だった日にはもう最悪ってわけだ。あ、そうそう、それから…」


「吉住先輩、単位を落としたことのアドバイスは先輩と違って私達には不要ですから、実習を進めて下さい」


 昨日、俺たちと一緒に飯を食った黒崎が口を挟む。親切そうな吉住だが、医師として有能なのは、おそらく黒崎の方だろう。


「ああ、ごめん、そうだね。じゃ、作業しながら説明する。この保護袋は頭をこっち側にして収めるのが原則だから覚えておいて。じゃ、開けるぞ…」


 ジッパーを降ろす。二十代後半の髪の長い女性。豊満な胸。目は閉じていた。いくら遺体でも、いきなり上半身裸を見ると目のやり場に困る。


「よし、綺麗なご遺体だ、助かった…」


 吉住がほっとしたように言うが。


「それ、セクハラですけど」


 黒崎が冷たい視線を送る。


「ああ、いやいや、その意味じゃないよ。たまに裂傷のあるご遺体や、火傷や水死体みたいなのも回ってくるからね。太った遺体は避けた方が身のためだ」


「ああ、それで取り合いになってたのか。なあんだ。あたしは先輩たちが綺麗な女の子を必死で捜してるのかと思っちゃった。あはは」


 珠美が笑った。


「ないない。そりゃ、最初は見とれるかも知れないけど…いや、おほん、馴れたら、ただの遺体だよ。それに眺めてる余裕なんて無いから。じゃ、袋から出すのを手伝ってくれ。そのまま遺体の下に置いておく。どうせ、すぐまた収めないと行けないし。その後ステンレスの棺に戻すんだ。じゃ、ジッパー、そっち、頼む」


「では、私が」


 物怖じしないセリアがジッパーを足まで開ける。


「ほら、時間無いぞ。僕の作業が遅れると、君らもやり方が覚えられないだろうから、手伝ってくれ」


 道理だと思い、袋から体を出すのを手伝う。全裸の女性。理科室のような薬品の匂いがする。ホルマリンとアルコールだな。

 埃がテーブルの上をスッと滑るように動いて消えたが、ああ、このテーブルの微かな音は、その気体を吸い込む換気扇の音だったらしい。この匂いはなるべく吸い込まないようにしておこう。どう見ても有害だ。


「じゃ、君、補助、頼めるかな。手術概論と手術器具、もう取ってるよね?」


 吉住が聞く。


「ええ。もちろん」


 隣にいた黒崎が頷く。


「オーケー。じゃ、カミソリとローションで、下腹部の毛の処理を頼む」


「ああ…でも、それ、先輩がやることでは?」


「いや、補助で良いんだよ。ほら、向こうのテーブルもやらせてるでしょ。いちいち手袋を交換するのも、時間の無駄だから」


「ふう、分かりました」


「黒崎さん、気が進まないなら、私がやるが」


 セリアが言うが。


「いえ、大丈夫よ」


「賢ちゃんはやりたくないの?」


「それがセクハラだろ。遊びじゃないんだぞ、珠美」


「うわ、怒られたよ。軽ーい、冗談なのに」


「ご遺体の前なのに、不謹慎よ、珠美」


 詩織も(とが)める。当然だろう。


「むう。申し訳ございませんでした」


 黒崎は手早くローションを左手に振りかけ、その左手で女性の陰毛をなでつけてしみ込ませる。


「手袋」


 その左手を俺の鼻先に突き出すのでちょっとびっくりしたが、交換を要求しているのだと気付く。


「え? ああ。了解」


 手間取ったが手袋を取ってやる。


「もう、不器用ね」


「あの、これ」


 詩織が新しい手袋を差し出す。


「つけて」


「あ、はい」


「もう、あなたも不器用ね。まったく」


「す、済みません…」


 結局自分で手袋を引っ張った黒崎はカミソリをもう一度取り、大胆に剃っていく。


「あ、あまり、早くやると、危ないよ。引っかかりやすいから」


 吉住が心配する。


「大丈夫です。ガーゼ」


「あ、はい、どうぞ」


「これでいいですね」


「へえ、凄いな、黒崎さん。あ、じゃあ、そのゴミはそこのゴミ箱に」


「ええ、言われなくても分かります」


「うん、じゃ、切開するよ。君たちは人体は初めてなんだよね?」


「ええ、私はそうですけど」


「私は経験が有ります」


「あれ? ああ、留学生の人か。じゃ、君は知ってるだろうけど、死体は皮膚が結構硬いんだ。力を入れないと切れないよ。でも、入れすぎると、下の組織や神経までやっちゃうからね、その力加減が難しい。ここかなあ…」


 脇腹を触り、メスを入れる場所を探る吉住。嫌らしさはない。珠美も突っ込みを入れない。妙に静かなのは、やはり遺体を目の前にしているせいだろう。どこのテーブルも私語はほとんど無い。


「ああ、くそ、切りすぎた。解剖の腹部切開は、こう、ここまで切って、こう、それで、どいてくれ。移動してこっちから、こう。いいね? じゃ、()ぐよ…むむ」


「手伝いましょう」


 セリアが手を貸す。結構、力を入れている感じで剥がし、脂肪らしき、黄色い皮下組織が見えてくる。


「ありがとう。ふう、じゃ、こうして浅くメスを入れて…まず、静脈をより分けていく。こいつは切れやすいからね。黒ずんでいるのが静脈、こっちのが神経。管っぽい方が動脈、ちょっと見分けが付かないけど、馴れてくると分かると思う」


 丁寧に脂肪を切り取り、静脈や神経を選り分ける地道な作業が続く。


「ふう、こんなところかな。後は…」


「ここが残ってます」


「あ、そうだ」


「先輩、汗、拭きますよ」


 汗が見えたので俺がティッシュを使う。


「ああ、ありがとう。ふう、術服はやっぱきついわ。他の学校だと白衣でやるところもあるらしいよ」


「でも、司法解剖は別として、手術をこなすなら、術服でないとダメでしょう」


 黒崎が言う。


「まあ、そうだけどね。さて、ここを終わらせるぞ。よし、終わり。まあ、この辺を失敗しちゃったけど、君らはこういう事しないように。じゃ、横隔膜、行くよ…」


「時間だ。それまで。片付けに入れ」


 教官が言ったが、もうそんな時間か。


「うへ…あとちょっとだったのに。じゃ、仕方ない。ガーゼ当てて、保護して」


 遺体を袋に戻し、吉住組と張り紙を付け、ストレッチャーを持って来て冷蔵庫へ戻す。


「うう、やっぱり、直に触るんだ…、ああ、どうすればいいの…神様…」


 詩織がそれを見てつぶやく。頑張れ。


「んなの、触ったくらいじゃ死にゃしないんだから」


 珠美が言うがコイツの方が医者に向いてそうだなぁ。


「先輩、掃除、終わりました」


「ご苦労さん、いやー、君たちは手際良いね。僕が必修でやってたときは、片付けが終わんなくて、次の講義はいつも遅刻してたからなあ」


「片付けが済んだ班から、解散して良いぞ」


 教官が言う。


「お、じゃ、解散ね。質問は受け付けない。教官に聞いて。それじゃ」


「もう、あの先輩じゃ、役に立たないわ…」


 黒崎が不満そうに言う。


「それほど、腕が悪いようには見えなかったが」


 セリアが言ったが、こいつに聞いた方がいいかもな。

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