第十三話 夏期講習
「最初に言っておくが、ケミカルハザードを防止するため、実習中は化粧を禁じる。つまり、この講義がある日は化粧をしてくるなと言うことだ」
偏屈そうな壮年の教官が言い放つ。夏期集中講座の人体解剖の実習だ。
「ええっ?」
「それって…」
「毎年、この講義で女子から抗議の声が上がるが、外科医になるなら化粧はできんぞ」
澄まし顔で言う教官。
「ぬあにぃー! ちょっとー! 聞いてないぞー!」
さっそく珠美がやかましく抗議の声を挙げる。というか、お約束で付き合ってる感じがしないでもない。遅刻してきた日などは、すっぴんの時があるし。
「むむ、そこまで考えてなかったわ。迂闊…」
ツインテールの黒崎が親指の爪を噛んで言う。
「黒崎さん、日本の女性は化粧が義務なのですか?」
セリアが黒崎に聞いたが、この二人はもう知り合いになったようだ。授業前、俺が来たとき何か二人で話していた。
「そうじゃないけど…いえ、義務よ」
義務なのか。
「なるほど、それは大変ですね。ところで、真田さん、あなたの友人は授業を妨害している。そろそろ静かにさせてもらいたいが」
「ああ。おい、珠美、後ろからうるさいって文句が来てるぞ」
「ふん、知ったことか。女性の権利を守れ~」
「その辺にしとけ。日本刀で斬られるぞ」
「ん? 何それ」
「剣術を学んでるそうだ」
「誰が?」
「あいつが」
「ああ…うっわ、綺麗な金髪…あたし、珠美、よろしくね!」
「授業中ですよ…セリアです。よろしく」
その日の昼食は、俺と詩織と珠美に加えて、黒崎とセリアも一緒に食べた。
「えっ? じゃあ、セリアってイギリスの医師免許を持ってるのに、日本に勉強に来たわけ?」
珠美がセリアに色々と質問していると、彼女がすでに本国で医師であるということが分かった。黒崎はそれを聞いて顔が険しくなる。
「はい、剣術の師である桐谷の影響もありますが、平均寿命が長い日本の医療技術に学ぶべきところがあるのではないかと考えました」
「偉い! 偉いけど、わざわざ大学にこなくても、そのまま病院に勤めればいいんじゃないの?」
「そうは行きません。日本語のレベル、文化や慣習の違い、それらを理解せずしていきなりメスを持つのは患者の命を危険にさらすことになりかねない。それに、私はもう少し座学が必要だと感じていますので」
「座学! ひぃ! そのマゾい思考はあたしには分かんないやー」
珠美がわざとらしく顔を引きつらせてのけぞる。
「マゾい思考とは何でしょうか?」
「マゾヒズムの形容詞形かしらね」
セリアの質問に黒崎が説明してやった。
「む、私は変態ではありませんが」
「いやいや立派な変態だから、そこまで行くと」
「意味が理解できません。どこに性的な要素があると言うのです」
「真面目に考えなくて良いぞ。珠美は勉強嫌いってだけだから」
ややこしくなりそうだったので俺はそこを指摘しておく。
「ああ」
それで理解したようだ。
「それにしても、賢ちゃんと一つ屋根の下とはねえ、ふふふ」
珠美が茶化す。
「アパートを一つ屋根の下とは言わないだろ」
「そうです」
俺が言い、詩織も味方に付いてくれる。
「でも、荷ほどきと引っ越しそばで、独身女性の部屋に上げたわけだ、独身男性を」
珠美がなおも追及するが、セリアは慌てずに否定する。
「そういう意味合いではありません。それに先ほど、真田さんは白百合さんと恋人関係にあると聞きましたが」
「だから面白くなるんじゃない、ねえ?」
珠美は黒崎の方を見て言う。
「私に同意を求めないで。別に、誰と誰が付き合おうと私は気にしないけど、でも、よくもまあ、そんな遊んでる時間があるわね。ホント、羨ましいわ。せいぜい、三鷹医大のレベルを下げないようにして欲しいものね」
どこかとげとげしい黒崎だが、ま、俺も詩織と付き合う前にお惚気話を聞かされたらそんな気分だっただろうな。
「あ、そりゃ駄目だ、アタシがいる限り、三鷹医大のレベルはガンガン下がっていくから、そのつもりで。いいかね、諸君、大学を頼らず、自分の足で立って世間の荒波に立ち向かい給え、はーっはっはっはっ」
笑う珠美に呆れてジト目で見やる黒崎。自分で言ってりゃ世話無いよな。
「もう、珠美ったら。セリアさん、もし、分からないことがあれば、何でも聞いて下さいね。あ、医学以外でですけど…」
親切な詩織が気を利かせるが、勉強に関してはむしろこちらが教わる方だろうな。
「ありがとう。ですが、お隣さんである真田さんが色々と教えてくれますし、そこまで気を遣って頂かなくても大丈夫です」
「いやいや、日本の裏社会と最新ファッションならこのアタシに任せなさい」
珠美が自分の胸を叩いて言うが。
「ファッションは良いけど、裏社会なんて知ってどうするんだよ」
俺がツッコミを入れる。
「ええ? 大事だよ? ナンパで落とした時、どこのラブホが雰囲気が良いかとか、重要でしょ」
「いや、セリアは女性だろが」
「そうですね。私も、ラブホには全く興味がありませんし、ナンパで落とされることも無いでしょうから」
「えー、セリアちゃ~ん、ホントにラブホの意味、分かってる?」
「ええ、カップルが性的目的で使用するホテルだと、真田さんに昨日親切に教えてもらいましたので」
などとセリアが答えてしまうので。
「え?」
皆のクエスチョンマーク付きの視線が俺に集まってくるので、首を横に振る。
「いや、駅前でそういう業者のティッシュをもらったんだと。それだけだよ」
「あー、びっくりした。賢ちゃんがもう落としてホテルに連れ込んだのかと」
「どうしてそうなるんだ。もうちょっと友人に対する信用をだな」
「だって、ねえ? セリアちゃんが逆ナンってちょっと想像付かないし。あ、でも、赤や黒の下着で脱いだら凄いとか、あはは」
「私は白の下着しか持っていません。着替え、見ましたよね?」
そこでセリアが俺に話を振ってくるし。
皆のギョッとした視線が来るので俺も少し焦る。
「違う、いや、着替えを見たわけじゃ無くて、荷ほどきの時に服を出したから…」
今にして思えば、恋人がいるのに、軽率だったな。いや、ここまで反応されるような事はしてないぞ…。
「お、オーケーオーケー、うん、ま、荷ほどきを手伝って偶然ね。はいはい。じゃ、今度、可愛い下着を売ってる所、案内してあげるから。セリアちゃんも日本に馴染もうと思ったら、ファッションにも気を遣った方が良いよー?」
珠美がわざとなのか、少し焦った様子で言うし。詩織は怒ってはいないが、疑問の表情。後で謝っておこう。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ごめんなさい、お待たせしました」
「いや、急がなくて良いよ」
正門で詩織と待ち合わせ、二人で帰る。珠美は一時限目が終わるとドロンしてしまい、真面目に勉強するつもりは無いらしい。あいつは絶対に医者にしてはいけないと思う。世のためだ。
その日も詩織が門限だというので、放課後は家の途中まで送り、夜はメールも送っておいた。「昼間のことは全然気にしてませんから」という返事をもらってほっとする。
詩織と待ち合わせやメールのやりとりができるだけで、なんだか幸せだ。
「さて、もう少しやっておくか」
明日はいよいよ人体解剖の実習だ。座学は一年の時からやっているし、カエルやマウスの解剖実習も何度もやっている。
が、人間の解剖というのは今回が初めてとなる。
内臓の位置と名称を教科書を見るだけで無く、ノートに書いて写して覚えておくことにする。
本当の解剖実習はもっと早く入学二年目くらいから始めるらしいです。
手術を受ける患者は顔色を見るため、化粧はタブーだそうです。手術する医者の方は分かりません。
あくまでもこの作品はフィクションです。