第十二話 セリア=ハーランド
2016/11/3 若干修正。
夏期講習の申込書を学生課に出したが、お試し期間無しの選択はちょっと嫌だった。科目の説明書だけでは、内容がよく分からない物もあるし、年度初めのような体験版が欲しいところだ。ま、選択をミスってもひと月で受講は終わるから、学生側の要望はそれほど強くなく、黙殺されているのだろう。
こういう時、部活に所属していれば先輩から色々教えてもらえるんだろうが、普段の活動が面倒だ。
詩織は今日は門限があるそうで、途中まで一緒に帰ったが、そこで別れた。一応、家まで送っていこうかと俺は申し出たが「いつもは悪いですし、日の出ている間は心配要らないですから」と詩織に断られている。携帯はもう返してもらったそうで、夜にでも電話……話すことが特に無いな。メールだけにしておこう。
いつもの公園に差し掛かり、自販機でジュースを買って水分を補給することにする。
スポーツドリンクはやっぱり飲みやすい。吸収も早い。
だからこそ飲み過ぎには注意しないとな。糖尿病になったら最悪だ。帰ったら歯も磨いておこう。歯をきちんと磨いていても間食の回数が多すぎると、歯の再石灰化が間に合わず虫歯になるけど。
「あれ、また外国人か……」
金髪碧眼で、俺よりやや背の低い女の子が、メモを片手にきょろきょろと見回している。ちょうどアリスと出会ったのもこの公園だった。
アリスとはあれから会っていない。
連絡先も聞かなかったし、聞けないだろ。保護者の葵はアリスを心配していたようだし、無事に保護者の下へ戻った以上、俺が心配する事でも無いのだが……。
その事を思い出すと、ちょっと縁起でもない気がして、俺は目を合わせないようにして、さりげなく家に帰ろうとする。
「そこのあなた。ちょっと! 聞こえないのですか、そこの、黒のリュックの、学生風の、今、まさに私の隣を、あからさまに無視して通り過ぎようとしているあなたです!」
「いや、そこはさあ、諦めて他の人を捕まえようよ、俺、忙しいかも知れないよ?」
知的な感じなので、大丈夫だろうと思って立ち止まって俺は振り向く。
「忙しい? とてもそうは見えませんが。ジュースを買ってくつろいでいましたし、時間から言って、学校が終わった時間ではないですか?」
「ほう、ワトソン君、今日の君はなかなか勘が良いね」
「あなたがホームズですか? それはいささか、いえ、かなり抗議したいところですが、私はセリア=ハーランド、三鷹医大に編入してきたばかりの留学生です。怪しい者ではありません」
「ああ、うちの留学生か。何か用? ええと…」
「セリアで結構です。ハーランドとは発音しにくいでしょうから」
「そうでもないけど、で、セリアさん、学校ならすぐそこだよ」
「あなたは…私をバカにしているのですか? それくらい、見れば分かります」
「いや、迷子かと思ってね……失礼」
「いえ。迷子というのは半分正解ですので。少々、道をお尋ねしたいのですが、構わないですか? 私は今朝、日本に着いたばかりで、ここの地理には疎いのです」
「まあ、そこまで詳しく説明してくれなくても分かるけど、ふうん、今朝か。どこから来たの?」
「イギリスから」
「ほー。それにしては、滅茶苦茶、日本語が流暢じゃないか?」
「有能な教師に恵まれました。それに、桐谷から日本の剣術と日本語を教わっています。彼は日本人ですので」
「ああ、そうなんだ、剣術、ねえ…」
わざわざイギリスに、いや、イギリスだと東洋の侍は良い商売になるのかも知れない。
「ええ、機会があれば、いずれ披露させて頂きましょう」
「いや、それは遠慮するけど。俺、剣客違うし。んで、どこに行きたいの。学校ならすぐそこだけど」
「ですから…。わざとですね? そうでしょう? さきほど、私は学校ではないと…」
真面目に説明し始めるセリアに、ちょっと辟易する。
「あーはいはい、そうだよ。ちょっとからかっただけじゃないか」
「日本人は誠実だと思っていたのに。私の理想を汚さないで下さい。やはり、あなたや桐谷のような例外は存在するようですね」
「日本に憧れを持ってくれるのはいいけど、君の理想はちょっと高すぎだなあ…後悔するよ」
「後悔はしません。理想と信じるということは違いますから。さて、あなたと日本語の練習をするのも心惹かれるのですが、時間的に厳しいものが有ります。人助けだと思って、次の場所を教えて下さい」
「うん、そんな前置きせずに、ここどこですかって聞けば早い気がするけど」
「それでは言語が上達しません。むっ、何をする」
メモを取り上げようとすると、さっと彼女は隠してしまう。
「いや、そのメモの場所なんだろ? 見てやろうかと」
「私が読み上げるのを待つという礼儀はないのですか。人の所有物を勝手に断りもなく取り上げるのは窃盗だと思いますが」
「んー、面倒な奴だな…じゃあ、言えよ」
彼女が番地を告げる。
「ああ、なんだ、そこか。んん? それって、俺のアパートだぞ。この向こうだ」
「いえ、そんなはずはありません。あなたの名前は?」
「ああ、俺は真田賢一。三鷹大の学生ね。そうじゃなくて、俺もそこのアパートに住んでいるという話。305号室。クレールだろ、そのアパートの名前」
「ああ、ええ、なるほど」
「日本だと、アパートの名前を言わないと、郵便物が届かないこともあるから要注意な。アパート名と部屋番号は必須だ」
「心得ました。ただ、桐谷から、見知らぬ者にはむやみに住所を教えぬように、ぼかすようにと忠告を受けたことがありますので。レディの嗜み、と教えられましたが…意味が分かりますか?」
「ああ、ま、むやみやたらに決闘を申し込まれないように、って配慮だろ」
「おお、なるほど…」
信じちゃったよ…訂正して怒られるのが怖いので、黙っておく。
「では、かたじけない」
「ああ、待った。そこまで一緒について行ってやろう」
「いえ、不要です」
「まあそう言わずに、方向は一緒なんだからさ」
「ナンパならお断りですが。ああ、これは桐谷から教わっただけで、間違っていたら申し訳ない。ただ、しつこくつきまとう男にはこう言えと」
「うん、正解だと思うけど……ナンパじゃないぞ。まあ、好きにしてくれ」
「ええ、好きにさせてもらいます。ところで三鷹の学生と聞きましたが」
「うん」
歩きながら話す。
「何年生でしょうか」
「今、四年だけど、それが?」
「いえ、少し興味本位で聞いたまでです。ですが、奇遇ですね。私の編入する学年と同じです」
「あ、そうなんだ。ちょっと若い感じだけど…」
「年齢ですか? 22です」
「一個下か。俺、23ね」
「そうですか。ちなみに――」
医学について、突っ込んだ話を質問された。
「――だったと思うけど…」
「ふむ、おおむね、私の大学と同じ知識のようですね。安心しました」
「ああ、君は専攻は何?」
「心臓外科です」
「うえ、また大変なところを選ぶねえ」
「一つでも多くの命を救うのが私の目標ですから」
「ご立派、ご立派」
「あなたはそうではないのですか」
「まあ、助けられれば助けるけど、そこまではね。俺は皮膚科と心療内科」
「ほう、皮膚科。最近の日本ではアレルギーが多いと聞きます。素晴らしい」
「いや…まあいいや」
ちょっぴり見直された感じが嬉しいので、楽そうだからという理由は伏せておく。
「そう言えば真田さん、ラブホとは何ですか?」
セリアの口からそんな場違いな単語が出てくるのでちょっと焦る。
「えっ、なんでそんな事を聞くんだ?」
「駅前でこんなポケットティッシュをもらったので」
「ああ、業者の宣伝かぁ。そういうの、捨てて良いと思うよ。もらわないのが一番だね。ラブホってのは、ラブホテルの略だ」
「ラブホテルとは?」
「そこからか……メイクラヴ専用って分かるか?」
「よく分かりません。売春宿の事でしょうか?」
「んー、少し違うな。売春婦も使うけど、一般のカップルも使えるホテル、かな」
「なるほど、恋人のいない私には不要です。あなたに差し上げます」
俺も不要だが、もらっておく。
「ここだ」
俺のアパートに到着した。
「助かりました。それに有意義な会話もできました。感謝します」
「いやいや、この程度で良ければいつでも。それで、荷物はいつ来るの?」
「六時半の時間指定をしていましたので、もうすぐかと。イギリスの携帯が使えないのが残念です」
「あー、使える機種もあるんだろうけどね。そりゃ残念だ。手伝おうか、引っ越し?」
「いえ…そこまで甘えるわけには」
「いいよ、同じ大学のよしみでさ。男手もいるだろ?」
「さて、人手はあった方が良いかもしれませんが、あなたは少々、いえ、かなり運動不足とお見受けします」
「まあ、否定はしないけど。お、あれじゃないか?」
引っ越し業者のトラックがやってきた。
「む、しかし、時間が早い」
「そりゃ、ぴったりには来ないと思うけど」
制服の業者に声を掛けてみると思った通り、セリアの荷物だった。引っ越し屋が中に運び、荷物も少なかったので、俺はあんまりすることがなかった。
「礼を言います。色々と助かりました。あなたがいなかったら面倒な事になるところでした」
「荷ほどきは? それも手伝ってやろうか」
「いえ、それは自分でできますから」
「まあまあ、ついでだから」
遠慮するセリアに、ついつい親切心を押しつけたくなる。
「ですが、あなたも忙しいのではないですか?」
「いや、もう明日から夏休みだしな。あれ? そう言えば君も変な時期に編入してきたな」
「変、ですか? こちらの夏期講習の時間に合わせてやってきたつもりですが」
「ああ、なるほどね」
「もし、私が適応できなかったり、こちらのレベルが低いようなら、夏休み一杯で母国に帰るつもりです」
「そう。トンボ返りにならないと良いね」
「それは…ええ、ありがとうございます」
「じゃ、始めようか」
「はい。では、あなたはそちらの方を。ああ、道具がありませんね。迂闊でした」
「じゃ、買いに行こう。色々、物いりになると思うし」
「はい」
うちのアパートを選ぶくらいだ、上質な物より安上がりの方が良いのだろうと思い、まずは百円ショップに案内してやった。
「これはいくらですか?」
セリアが急須が気に入ったのか手に取って言う。
「百円だ。税別だけどね」
「や、安いですね…本当ですか?」
「嘘だと思うなら、店員さんに聞いてみろ」
俺も本当の値段なのか気になったくらいだ。
セリアは俺を疑ったようでカウンターにそれを持って行く。
「すみません、これはいくらですか?」
「百円になります」
「おお…」
戻って来た。
「では、こちらの湯飲みは?」
セリアがまた俺に聞いてくる。
「それも百円だ」
「この招き猫は――」
「百円。その隣のコップも百円」
「よもやとは思いますが、真田さん、私をからかっているわけではありませんね?」
「いいや。上の看板を見てみろ。ここの商品は全部百円均一だ。値段が違ったなら俺が支払ってやるよ」
「なんと…そ、そうですか。タオルやシャンプーもありますね…日本の物価は高いと聞いていましたが、どうやら桐谷に私は騙されたようです」
「いやいや、言っておくが、質は値段相応だぞ? 別の店だと高いよ」
「なるほど。では、ここで揃うモノは全部揃えましょう」
ハサミとカッターナイフなどの日用雑貨も手に入れ、次に家具屋にも寄ってカーテンやパイプベッドや布団なども買い込む。アパートと往復して食料品も買っておく。
必要な物を買い込んでアパートに戻った。
カーテンの取り付けはやや背が低いセリアには難しく、俺が取り付けてやった。
「よし、カーテンはこれでいいな」
「はい。手伝ってもらって助かりました」
「いや、気にするなよ。次は…この段ボール、全部、開けて良いのか?」
「はい、食器と着替えと書物だけですが。あなたはそちらをお願いします」
「ああ」
段ボール箱を開けて見ると、青いスカートや白いブラウスが入っている。服だな。
「これ、どこに入れるんだ?」
俺はブラウスをセリアに見せて聞いた。部屋には備え付けのクローゼットがあるが引き出しは三段に分かれている。
「そのクローゼットに適当にお願いします」
適当ね。まあいい、段ボールの中には同じ色の服しか入ってないし、コイツはファッションには全く興味が無さそうだ。
入れていく。
次は白いハンカチ…と思ったら、下着だった。俺から見てもデザインがどうなのか、と思う子供パンツ。
「下着は…、自分で頼むぞ」
「それも適当でいいですから」
「ええ?」
コイツも変わってるなぁ。いや、途中でそんな感じはしてたけど。セリアは食器をキッチンの戸棚に入れていて忙しそうなので、俺が適当に下着を分類して入れておくことにする。
「ありがとうございます、真田さん。私が自分で店から探していたら相当な時間と労力を取られてしまうところでした。お礼に食事を奢りますので」
「ああ、じゃ、俺が作ってやるよ」
インスタントラーメンの袋麺やパスタなどすぐ調理できそうなモノもある。
「それではお礼の意味がありません。パスタを引っ越しそばということで、すぐ作りますから」
「よく知ってるな。桐谷って人か」
「ええ。最近はやらない風習だとも聞きましたが」
「そうだな。ま、じゃあ、ご馳走になるよ」
「ええ、そうして下さい」
パスタを二人で一緒に食べ、俺は自分の部屋に戻った。