第一話 ヒポクラテスの誓い
一話4000字~6000字くらいです。
医学用語が出てきますが、本作はフィクションであり、作者が医療関係者でないことを良くご理解していただき、用法用量を気にせず読んで下さい。
残虐な表現はほとんど無いと思いますが、その手のシーンはなるべく前書きで事前に注意書きしていこうと思います。
2019/12/27 若干修正。
あなたは何かに誓ったことはあるだろうか?
結婚の誓い――。
禁煙の誓い――。
宿題をやるぞという誓い――。
日々、自分がこれだけはやっておこう、あるいは、これだけはやるまい、そう心に決めている何か――。
正直な話、俺にはそういうものは今まで一度も無かった。
せいぜい犯罪はダメだと思う程度だが、それは意識して選択肢を選ぶことはないので、誓いとは違う気がしている。
そんないい加減な俺が、今、頭に叩き込もうとしている誓い。
それは『ヒポクラテスの誓い』だ。
ヒポクラテスとは古代ギリシャに実在した医師である。医学の祖とも言われる。
そのヒポクラテスの誓いとは、医術に関する誓いである。
これは実際に現代の医大で教えられている事で、現代の医師としても必要な倫理なのである。
内容はこうだ。
『医の神アポロン、アスクレーピオス、ヒギエイア、パナケイア、及び全ての神々よ。
私自身の能力と判断に従って、この誓約を守ることを誓う。
この医術を教えてくれた師を実の親のように敬い、自らの財産を分け与えて、必要ある時には助ける。
師の子孫を自身の兄弟のように見て、彼らが学ばんとすれば報酬なしにこの術を教える。
著作や講義その他あらゆる方法で、医術の知識を師や自らの息子、また、医の規則に則って誓約で結ばれている弟子達に分かち与え、
それ以外の誰にも与えない。
自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。
依頼されても人を殺す薬を与えない。
同様に婦人を流産させる道具を与えない。
生涯を純粋と神聖を貫き、医術を行う。
どんな家を訪れる時もそこの自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。
医に関するか否かに関わらず、他人の生活についての秘密を遵守する。
この誓いを守り続ける限り、私は人生と医術とを享受し、全ての人から尊敬されるであろう!
しかし、万が一、この誓いを破る時、私はその反対の運命を賜るだろう』
――以上
……『報酬なしにこの術を教える』という点が引っかかるが、良いことが書いてあると俺も思う。
正しいことだと思う。覚えないよりは覚えておいた方が良いとも思う。
ただ、これを一字一句暗記させて、テストに出すのは疑問だ。
こんなもの、治療する上で何にも役に立ちゃしない。
他の大学ではそこまでしないとも聞いた。
覚えたからって守るとは限らない。
入る大学を間違えたか?
でも、うちの兄貴も姉貴も三鷹医大なんだよな。
それできちんと医者に成れているから、ま、課題は真面目にやっておくか。
精神症状Ⅱのレポートも期限が近いし、免疫学Ⅲも予習が必要だ。
遊んでる時間はもちろん、バイトする時間も無い。大学生はエンジョイしてるものだと思ったが、医大生は別物らしい。
何で医者なんか目指しちゃったかね?
家族みんなが医者だから、当然、俺もそれを期待され、ごくごく自然に選ばされた……気がしないでもない。
――いや、他になりたいものが無く、レールに乗っているのが楽だった点は否定できない。
そんな惰性で生きている俺が、このような大袈裟な契約を求められると「そんな自分と生活を縛られるものは嫌だな」と感じてしまったのだ。
まあいい。本当にこれを四六時中守ってる医師なんていやしないだろう。
大学が無償でない時点で嘘っぱちなのだ。
ちょうど、公園に差し掛かった。
ここを突っ切れば俺のアパートへ近道できる。
俺は当然のように足を踏み入れ、帰宅を急いだ。
「アハハ! やったなー?」
ランドセルを背負ったまま公園の砂場で遊んでいる小学生が目に付いた。
砂には雑菌が大量に潜んでいる。
トキソプラズマという原虫、細菌よりは大きいが目に見えないその病原体は、妊婦が感染すると流産や先天性の神経疾患を引き起こす可能性がある。
ただ、手洗いをすれば問題無い。昔にネコを飼っていれば免疫ができていて平気な場合もある。
大自然は病原菌がいるのが当たり前なのだ。
「ちょっと! 悠ちゃん、邪魔。相撲なんてあっちでやってよ」
男児と女児のグループがいたが、女児のグループは砂のお城を作っていたようで、ま、揉めるだろう。
「ああ、ごめんごめん。じゃ、あっちでミニモンやろうぜ」
男児のグループが別の場所に行き、女児のグループが残ったが……んん?
真ん中の女の子、小学生にしてはデカいな。
身長は150センチを超えているだろう。他の二人のお友達と比べると、頭一つ体が大きい。
「じゃ、あなたはこっちで塔を作ってね」
その声に無言で頷いた真ん中の女の子。銀髪青眼で、北欧系と思われる。優しそうな瞳にすらりとした鼻、小さく可愛らしい唇が、それぞれバランス良く整っていて、凄い美形だ。
ふと、彼女と目が合った。
ドキリとしたが、彼女はニッコリと笑ってくれた。
にわかに俺の体温が上昇し、動悸が激しくなる。
何か、体の中を強い風が通り抜けたような気がした。
生まれて初めてぶつかった感覚だった。
俺はどうしていいか分からず、すぐに目をそらしてその場を立ち去ることにした。
くそっ、確かに可愛かったが、相手は小学生だぞ?
俺は口元を手で覆う。
このご時世、小学生にときめきを覚えただけでも危険な気がする。
だが、先ほどの彼女の笑顔が脳裏に焼き付いてしまって、おいおい小学生に一目惚れとか、まずいだろっての!
「くそ。勉強のしすぎだな、そうに違いない。きっとそうだ。そういうことにしておこう」
アパートで鞄を置いた俺はレポートを後回しにして、パソコンを立ち上げ、健全にエロゲーをやることにした。
画面の中の美少女ヒロイン、ス○ちゃんなら何をしようが全く問題ない。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
あっけなく自分の劣情と欲望に負けた俺は、再び先ほどの公園にやってきた。
もちろん、時間をしっかり費やした後なので、外は日がすでに落ちている。あの可愛い銀髪の子も家に帰っているだろう。
そう思ったのだが。
「えっ?」
彼女は砂場にまだいた。
一生懸命に、お城を作っている様子。
ううん……。
もちろん、俺は彼女に会いたくてここにやってきたわけではないのだ。
ちょっと夕食のコンビニ弁当を買いに外に出だけで、危険な欲望の方はとっくに処理して収まっている。
周囲を見回す。
彼女の母親らしき人間はいない。
向こうのベンチで大学生らしきカップルがイチャイチャしているが、ムカつくな。
そこに保護すべき小学生がいると言うのに、自分達は見て見ぬフリか。
夜だぞ?
小学生が一人で遊んでいたら、注意くらいしろよ。
いや、視界に入っていないのだろう。あれだ、お互いの相手しか見えないってヤツだ。
けっ。
俺もできることなら、銀髪の小学生を無視してコンビニに行きたいところだったが、このご時世、こんな時間に小学生女児が一人でいたら危険だと思った。特に彼女はとびきりの美少女なのだ。
危険すぎる。
それに、俺は彼女を狙う側の犯罪者共とは違う。
他人に無関心な奴らとも違う。
俺は意を決して彼女に近づいた。
「君」
声を掛ける。
反応が無い。彼女はまだお城をつついている。かなりの出来映えだ。
窓や塔まで作って、賞も取れそうなくらい。将来は芸術家になれそうなレベルだ。
「君!」
……またスルーされた。
むむ。小学生に「君」は無かったか?
それに講義で学んだ心理学で子供と話すときは姿勢を低くした方が注意が向くという話も思い出した。
「お嬢ちゃん、お父さんかお母さんは迎えに来てないのかな?」
なるべく優しい声で、屈んでそう言ったのだが、いかにも自分が怪しげな不審人物のようで俺はうんざりした。
「えう?」
今度は反応あり。だが、首を傾げた彼女は、俺の言ったことが通じなかったらしい。
ひょっとして、英語じゃないとダメなのか?
あんまり得意じゃねえんだよな、英語。だが、医学英語もあるので勉強の方はしっかりやっている。
俺はもう一度、下手な英語で話しかけてみた。
「んー?」
通じなかったようだ。アレか、北欧の言葉じゃないとダメらしい。
だが、さすがに俺はそこら辺の外国語までは勉強していない。それは無理だ。
「パパ、ママ、これくらいは分かるだろ?」
仕方ないので、そう言ってみる。
「パパ、ママ、これくらいは分かるだろ?」
彼女はオウム返しにそう言ってきたが……。理解していないと言うことだろう。
どうしようかね……。
彼女はランドセルを担いでおらず、近くにも置いてなかった。
家が近所で、いったん帰宅してからまた遊びに来たようである。
とにかく、彼女の家か、保護者がいるところへ連れて行かないと。
俺がそこまでする義理はないのだが、事件があっては後味が悪い。
だが、住所は聞き出せそうにない。
「じゃ、警察に行こうか」
当然、交番だよな。間違っても俺の部屋ではない。当たり前のことだ。
「やっ……」
初めて彼女が自分の意思を見せた。肩をすくめ、後ろに下がる。
むむ。
「いや、こんな時間にずっとここにいるほうがマズいから。不審者が来たら困るだろう」
「や」
困った。ここで無理矢理連れて行こうとすると、事案発生になりかねない気がしてきた。
だが、放置すると……いや、日本は治安が良い方だ。すぐにどうにかなるって事はないだろう。
「分かったよ」
俺はそう言って彼女をそのままにして、コンビニに向かう。気にはなるんだが…。
「いらっしゃいませー」
店内には結構人がいて、漫画が置いてある所には小中学生とおぼしき背の低い私服の女児が二人いた。
こんな遅い時間までけしからん、と思ったが、最近の小中学生は、塾通いで遅くなるという話もあったっけ。
俺の方は週一回の塾通いで、日曜の午前中だけだったが。
気になったのは、その隣に小太りの大学生らしき男がいて、雑誌を見るフリをしながら、女の子のスカートの辺りをじっと見ていた。
「あっ!」
俺は驚いたが、コイツはポケットからスマホを出して、スカートの中を盗撮しようとしているようだ。
「じゃ、もう帰ろうっか」
「うん」
だが、すんでのところで女児の二人組は本を置くとコンビニを出て行った。残念そうな大学生風の男。
彼が女児の後を追おうとするので、俺はその肩をつかんだ。
「おい、お前」
「な、なんですか」
青白いぬめっとした肌に生気の感じられない目、よれたシャツ。
「お前、今、盗撮しようとしてなかったか?」
「な、何を根拠に」
「いや、見てたんだよ」
俺が強く言うとソイツは落ち着きなく目をそらした。
「ぼ、僕はそんなことは…」
どもりながら小声で言う。
「してだだろ!」
イライラする。
「お客さん、どうかされましたか」
黒縁眼鏡を掛けた中年の店員がやってきた。
「ええ、コイツが、さっきの女の子のスカートの中を盗撮しようとしてて」
「し、してない。言いがかりだ」
「ええ? ううん、女の子はどこに?」
店員が見回す。
「いや、もう、さっき帰りましたけど」
俺は言う。
「そうですか。うーん、じゃあ、一応、そのスマホ、見せてもらえますか? 念のため」
「いいですよ。ほら。何も写っちゃいないですよ」
小太り男はそう言ってスマホを店員に見せた。
そりゃそうだ。写す前に女児は帰っちゃったからな。だが、やろうとしてたのは確かだ。
俺もいちいちそんなことに首を突っ込みたくはないのだが、嘘をつく奴はどうにも信用できない。
「ええと…」
店員はスマホを受け取ったが、操作はよく分からない様子だった。
「貸して下さい」
俺が代わりに受け取り、ファイルを確認する。マイドキュメントには何も無かったが、代わりに美少女というフォルダの方に、いかがわしい盗撮写真が何枚も。
「そ、それは、ネットで見つけたヤツで…」
狼狽えてスマホを取り返そうとする小太り男。
「本当だろうな? お前が写したヤツじゃないのか?」
俺は確認を取る。
「ホントだって。盗撮でググってみろよ。同じのが出てくるから。あ、言っておくけど、そういうネタのAVで、本物じゃあないぞ?」
急に饒舌になった小太り男が、なんだか自分が正義とでも言わんばかりに堂々としてくるのが、ムカつく。
「む……」
「じゃ、お客さん、当店でのいかがわしい行為はご遠慮頂くと言うことで」
店員は俺からスマホを取り上げ、小太り男に返してしまった。
「当たり前だろ。心外だ! 名誉毀損だぞ!」
そう言って俺達を指差しつつも、そそくさと逃げ帰る奴。
「じゃ、お客さん、後はうちでも注意して見ておきますから」
「ああ、はい」
微妙に納得がいかないが、店の対応としてもそれ以上のことはできないだろう。俺としても盗撮が実際に行われていない以上、コンビニの防犯カメラの開示を求めるとか、警察に突き出すのは困難な気がした。
「ありがとうございましたー」
ハンバーグ弁当を買って、コンビニを出る。
俺は急いで公園に向かった。もし、さっきの小太り男が公園に行って、さっきの銀髪の小学生を見つけたらどうするか?
いきなりレイプとかはしないと思うが、自分の家に連れ帰ろうとしたり、また盗撮するかもしれない。
とにかく、確認だ。
いた――。
公園で不自然に立っている小太り男は、よりによって銀髪の少女を見つけてしまっていた。
食い入るようにじっと見てるのがなんとも。
「おい! 何してるんだ」
俺はすぐさま声を掛けた。
「うえ。アンタか。いいだろ。公園は公共の場所だぞ」
「そうだが、不審すぎるだろう、お前」
「君に言われたくはないね」
「むむ」
少女を見ているだけでは、何かの犯罪には問えないだろう。
向こうに行けと言って追い払うのも難しそうだ。コイツがいったん逃げたフリをしてまた戻って来れば同じ事だからな。
四六時中、俺がここで見張っている訳にも行かない。レポート、まだ残ってるしなぁ…。
「ふうー」
俺は決意すると、大きく息を吐いて、まだ砂場で遊んでいる少女の手を取った。
「ほれ、警察行くぞ」
「や!」
抵抗してくる。
「いいから、来い」
俺はその子の手を強く引っ張る。
「ねえ、アレ、ヤバくない?」
「ヤバいよ。警察、呼ぼう」
通りかかった女子大生らしき二人組が俺を見たが、不審者と勘違いしてしまったようだ。
「いや、俺は迷子の子を交番に連れて行こうと思っただけで」
すでに彼女達はスマホを出していたので、早口で事情を説明する。
「嘘ね」
いや、ホントだっての。
「コイツ、遊ぼうと言ったり、盗撮してましたよ」
小太り男が俺を指差して言う。
「はっ?!」
何言ってるんだコイツ。
俺は頭が真っ白になってしまった。
「うわ、ホントにいるんだ、こんな奴、サイテー」
「もしもし、警察ですか。はい、ええと、誘拐かな?」
二人組の女子大生もそれを信じてしまった様子。
「いや、誘拐はしてないぞ」
俺は否定するが。
「とにかく、すぐ! 来て下さい。女の子が襲われかけてて」
襲ってないってのに。
なんだか大袈裟になっていくような予感。まずいぞ。
俺は為す術も無く、その場に立ち尽くした。