耳なすびと鼻トマトと、西山スイカタワー
「死のう」
薄暗い部屋の中、那須崎みみ子は絶望していた。
「明日死のう」
夏休みが終わって、はや一か月。
秋口の真昼間、カーテンを全部締め切って、がくり、と両手両膝を自室の床につき、バッサバサの髪を振り乱した、美少女――とは到底口が裂けても言えない微妙な少女、那須崎みみ子は、絶望していた。その微妙さ加減を加速させるように、みみ子の両耳から実においしそうな、秋の味覚の一端を担うナスビが、でろんと二つ、両耳から垂れ下がっていた。
いやいやとみみ子が頭を振る度に、ナスビもいやいやながらに追従して揺れる。
ナスビだ。青紫色のご立派なナスビだ。
夏前から腫れていたみみ子の耳から、立派なナスビが生えてきてから。早二か月。
みみ子の両目の視界のはしにナスビが、ちらりちらりと映る様になって、二か月経過したという事だ。
故に、みみ子は絶望し、自室に引きこもっていた。
みみ子は通学して、友人たちに耳からナスビの生えた痴態を見せる訳にはいかなかった。夏休みから続く、みみ子の更なる登校拒否生活は続くのであった。
まぁ、父さん母さん両方ともその辺りは良く心得ていた。
子の気持ちがわかる親である。
少し位のヤンチャは許す。
みみ子が高校選びの際に関して、学力ではなく制服の可愛さを取った程度のヤンチャなら笑って許した。
だから、今回の不登校も許された。
年頃の娘が耳からナスビだ。それ位なら許してやろう、と。
付け加えると、みみ子の父さんと母さんも耳からなすびが生えている。
更に言うなら、父さんも母さんもなんとなく順応して、食卓にナスビが並ぶことが増えた。
両親二人とも、ごくごく普通に耳からナスビを垂らしながら、父は会社に行って、母はパートに行っている。
一家そろってナスビだ。
一家全員が取り乱すならまだしも、取り乱しているのはみみ子だけだ。
みみ子にはそこが理解できない。
大人になればみみ子にもわかるのだろうか?
自問する大人ならざる今のみみ子には、さっぱりわからないのであった。
わからないから、みみ子は更に絶望した。
その日、自室の前に置かれた、湯気が立つ朝食兼昼飯のマーボーナスを見て、食欲をなくしたみみ子は、締め切られたはずの自室の窓の、カーテンの隙間から空を見た。
真っ青、晴天、抜ける様にスカイブルー。
雲一つない青空であった。
「空はこんなに青いのに」
――私はなんでこんなに紫色なんだろう。
みみ子は自らの両耳から垂れるナスビを撫でて思う。自然界に青色が無いのは、神様が空に青色を使いすぎたからだ、と。
――だから私のナスビは青くないのだ。紫色なのだ。
「よし、今日、死のう」
ウインドパーカーを深く頭に被って、両耳からナスビを垂らしたみみ子は、取りあえず、自室脱出。耳からナスビが生えてから二か月目の快挙。
みみ子は、空に近づきたくなったのだ。
近づこうと思って、家から電車で三駅ほど離れた近所で一番空に近いはずのデパートは、閉鎖されていた。
昨今の不景気での倒産である。
耳からナスビが生える前まで、歩いて10分の学校と自宅をただ漫然と往復していたみみ子には、三駅ほど離れたデパート事情すら耳に入っていなかった。
ナスビが生えているからみみ子の耳にはこれ以上物は入らないのだが、更に絶望。
「今すぐ消えたい……」
みみ子の絶望はさらに深まった。
長八手(地名:みみ子の地元。みみ子が中学生になった時に町から市へとなった)の近辺にデパートより高い建築物は無い――――いや、ある。
西山スイカタワーだ。
西山スカイタワーになるはずだったのだが、ミャーミャーうるさい市長のとんでもないうっかりミスの為にスイカタワーになった、西山動物園の迷所だ。恐らく、逢知県中で一番高いタワーだろう。
スイカタワーは更に一駅ほどここから離れた所にある。
観覧料三百円也。
みみ子の財布の中に入ってるのは野口が一枚。
地下鉄初乗り二百四十円也。スイカタワー名物のスイカ饅頭(別段逢知の名産と言う訳ではないスイカを使っている)がタワー価格の三百円也。いけなくはない。帰りのお金が無くなるが、みみ子は絶望していた。帰りの事など、考えていなかった。
地下鉄に乗って西山動物園駅へ。頭を深くパーカーで隠した不審人物も、電車に乗ってしまえばだれも咎めることは無い。職無しのプー太郎だろうと、疲れた顔をした老人だろうと、耳からナスビを生やした女子高生だろうと何だろうと、地下鉄は誰にも開かれている。
切符を買えば、の話である。
「さようなら野口……」
貴重な野口にさようなら。こんにちは切符。
地下鉄はみみ子を飲み込んで一駅区間をあっという間に走り切る。大凡二分。その後がいけない。歩いて一五分ほど経過。
「まさか……中間地点にあるなんて」
冷静さを欠いていたみみ子は、干が丘と西山動物園の中間地点にある西山スイカタワーを呪う。地下鉄半分の無駄足。
この程度でも絶望して、みみ子は足が萎えてしまった。
ほんの二か月程度のひきこもり生活でも、足と心は萎えてしまうのだ。
みみ子の絶望は深い。平日日中歩道の脇で座り込んでしまう程度には、絶望してしまった。
「あのー……那須崎さん、大丈夫?」
と、路上でしゃがみこんでいるみみ子に、話しかける人物現る。
不審者であった。
大男であった。
耳が頭の上についていた。
全身毛むくじゃらであった。
っていうか、熊であった。
馬鹿でかい熊が、マスクをしてみみ子に話しかけて来たのであった。
「僕だよ、熊本だよ、久しぶり。那須崎さん。気にしてたんだ、学校に来なくなって」
その声は、クラスの隣席の熊本苫斗であった。声だけが、みみ子の知っている熊本であった。
驚きのあまり、みみ子は腰が抜けた。
「え、熊本君?」
三ヶ月ぶり位に会うクラスメートは大きく変貌していた。
男子三日会わざれば刮目して見よという格言もある。
記憶では線の細い美少年であった、熊本の体は大きくまさに熊の様に巨大になり、顔面が大きく変貌。
っていうか、熊だ。
熊が顔の下半分を覆うマスクをしている。ざっくりと説明をすますと、そういう事だ。
「え、何、そのマスク」
「今年の流行の。鼻かぜだよ」
みみ子の世界がぐにゃりと歪んだ。
と、その時熊本がくしゃみひとつ。マスクがずれる。鼻の穴から生えるプチトマトが二つ。鮮血の様に真っ赤なプチトマトが、マスクからのぞいていた。
「何そのトマト」
「生えてきた。今年の風邪はナス科らしいんだ」
熊本は鼻声で言った。鼻が詰まってるから、ある意味当然。ヘェックショーーイ、と随分オッサンみたいなくしゃみをした熊本の鼻からたわわに実る、プチトマト。
「食べる? 僕のトマト」
「へっ?」
無造作に鼻提灯の様に実ったプチトマトを、熊本は引きちぎってみみ子に渡したのだった。
みみ子の絶望は、混乱に覆いつくされた。
※意外と熊本の鼻プチトマトは、甘くて旨かった
「あのさ、僕も驚いたんだ」
「私も驚いたよ」
喋る熊になった熊本の話によると、「今年の風邪がナスだったから、プチトマトが鼻から生えてきた」という話で。クラスメイトの七割が鼻トマトだそうだ。世界はみみ子の認識力を超えていた。
「てっきり僕は、酷い病気でもやったんじゃないかって心配してたよ……」
熊本は大きくため息をつきながら、腰を抜かしたみみ子をおぶって駅まで送る事となった。
熊本の毛皮は少し臭い。
汗臭い。
獣臭い。
雄臭い。
モフモフとは言い難い。
みみ子の中で幻想が一つ潰れた。
「いや、うん、現実なんてこんなもんだよね」
鼻からプチトマトを垂らした熊と、耳からナスビを垂らした女子高生が街を歩く。
スイカタワーの作る影が、さっと二人を覆い隠した。
「その、耳からナスは、僕は可愛いと思う」
「でも、私は熊は恋愛対象には出来ないよ」
「……うん」
こうして、みみ子のひきこもり生活は終わりを告げた。
鼻からプチトマトが垂れてる人と、耳からなすびが垂れてる人を除けば、世界はあんまり変わってない。