第269回
名湯を堪能し、ゆったりと旅館の用意した浴衣を着て羽織りに手を通した。いい気分で部屋へ戻ると、仲居の老女が料理を運び込んだところだった。
「お湯は、いかかでございました?」
「いやあ…、ここのアルカリ泉は、なかなかのものです。辺りは絶景ですしねえ」
確かに絶景ではあったが、老女のあなたに云っても…とは思えた。座ったところで、まず一献とばかりにビールをコップに注がれ、喉へ通す。感無量の飲みごたえを得て、フゥ~っとひと息つくと、老女は手慣れた仕草で固形燃料に火をつけた。小鍋の魚介が美味そうに煮え始めた。煮える鍋…煮える魚、煮付けの魚、そうだ! 煮付先輩は今頃、どうしているだろう…と思えた。いつもなら、声をかければ快く付き合ってくれる煮付先輩だが、この時はあっさり断られたのだった。というよりも、小菅総理の女房役の官房長官だから、まったく空き時間が取れないらしい。私でも奇跡に近い三日をゲット出来たことを思えば、それも当然か…と思えた。その後、石焼きの細切れ和風ステーキを頬張り、絶品料理の数々に舌鼓を打った。この段階で、私はすっかりお告げのことを忘れていた。
「あとは、ご自由にお願いいたします。ボタンをお押し願えれば、すぐ、お下げいたします」
そう云うと、老女の仲居は襖を閉ざして消え失せた。妙齢ならば去った・・と云うべきところだが、この場合は消え失せたのだった。ただ、不思議なことに、色気を気にすることがなかったせいか、心は安らいだ。