↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

薔薇の温室と、あたたかな木漏れ日

掲載日:2026/10/29

薔薇の温室と、あたたかな木漏れ日


秋の風は、思いのほか冷たかった。


オルランド公爵邸の広々としたテラスには、午後の柔らかな日差しが降り注いでいたが、セリアの指先はすっかり冷え切っていた。


純銀のティーポットからは、とうに湯気が消えている。


白磁の皿に並べられたスコーンも、焼きたての香ばしさを失っていた。


「……今日も、お見えにならないのね」


セリア・オルランドは、小さく呟いた。


淡い紫色のドレスは、婚約者である第三王子ルーファスの好みに合わせて仕立てたものだった。


胸元のサファイアのブローチも、以前彼が何気なく口にした「青い宝石は悪くない」という言葉を覚えていたからこそ、身につけている。


約束は午後二時。


今は、午後五時を過ぎていた。


これで、今月四度目のすっぽかしだった。


「お嬢様……もう、お部屋へお戻りくださいませ」


侍女のエマが、そっとショールを肩に掛ける。


「風邪を召してしまいます」


「でも……」


セリアは門の方角を見つめた。


「王宮で急なお仕事が入ったのかもしれないわ。あるいは、馬車が故障してしまったのかも……」


「お嬢様」


「きっと、もうすぐいらっしゃるわ」


そう言って微笑もうとした。


けれど、唇がうまく動かなかった。


エマは何も言わず、悲しそうに目を伏せた。


そのときだった。


「セリア」


低く、温かな声が響いた。


振り返ると、父アルベルト・オルランド公爵が立っていた。


王国屈指の名門公爵家の当主にして、かつては戦場で名を馳せた騎士。


堂々たる体躯と鋭い碧眼を持つ父は、普段なら近寄りがたいほどの威厳を放っている。


だが、今その瞳に浮かんでいるのは、怒りではなく深い悲しみだった。


「お父様……」


「もう待たなくていい」


「ですが、ルーファス様は……」


「来ないのだよ、セリア」


父の声は静かだった。


「今日も、あの男は来ない」


セリアの胸が、きゅっと締めつけられた。


「……どうして、そう言い切れるのですか?」


アルベルトは答える代わりに、分厚い革張りの書類をテーブルに置いた。


「お前に、見せなければならないものがある」


「これは……?」


「王室警察と、我が家の調査員に調べさせた」


セリアは震える手で書類を開いた。


そこには、王都郊外の別邸で若い男爵令嬢と寄り添うルーファスの姿があった。


別の記録には、王立劇団の歌姫へ贈られた高価な宝石。


さらに、王家の資金を私的に流用した証拠や、公爵家の名を無断で使った不正な融資契約まで記されていた。


「……そんな」


紙をめくる指が止まった。


「嘘……ですよね?」


アルベルトは娘の隣に腰を下ろした。


「残念だが、すべて事実だ」


「だって……ルーファス様は、私と結婚すると……」


「セリア」


父の大きな手が、娘の肩を抱き寄せた。


「お前は、あの男を愛していたのか?」


セリアは答えられなかった。


愛していた。


そう信じていた。


けれど、思い返してみれば、彼女はいつもルーファスの機嫌をうかがっていた。


彼の好きな色を着て、彼の好む話題を選び、彼が遅れてきても笑顔で迎えた。


一度だけ、約束を守ってほしいと頼んだことがある。


そのときルーファスは、面倒そうに言ったのだ。


『王族には王族の事情がある。お前は黙って待っていればいい』


あの言葉を聞いた夜、セリアは一人で泣いた。


それでも、嫌われたくなくて謝った。


「私……」


涙が、ぽろりと落ちた。


「私が、もっと素敵な女性だったら……」


「違う!」


アルベルトの声が、テラスに響いた。


セリアは驚いて顔を上げる。


父は娘の両肩をそっとつかみ、真っ直ぐに見つめた。


「お前が足りなかったのではない。あの男に、人を愛する心が足りなかったのだ」


「お父様……」


「セリア。お前は私の大切な娘だ。家柄のために、誰かの顔色をうかがいながら一生を過ごさせるために育てたのではない」


アルベルトの声が震えた。


「私は、お前に笑っていてほしいのだ」


その言葉に、セリアはとうとう堪えきれなくなった。


「お父様……っ!」


父の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。


アルベルトは何も言わず、その背中を優しく撫で続けた。


やがて涙が落ち着いた頃、父は静かに告げた。


「婚約は破棄する」


「……はい」


「そして、あの男には自らの罪を償わせる」


アルベルトは冷え切った紅茶を見つめた。


「お前を三時間も待たせたことは、法では裁けんかもしれん。だが、お前の心を踏みにじったことまで、父は忘れぬ」


セリアは父の手を握った。


「……ありがとうございます、お父様」


その夜、セリアは初めて、ルーファスの好みではないドレスを選んだ。


淡い薔薇色のドレスだった。


鏡の前で袖を整えると、エマが嬉しそうに微笑んだ。


「お嬢様には、やはりそのお色がよくお似合いです」


「そうかしら?」


「ええ。お嬢様ご自身がお好きな色ですもの」


セリアは鏡の中の自分を見つめた。


そして、ほんの少しだけ笑った。


三日後。


王宮の謁見の間には、国王と王妃、王室の重臣たちが集められていた。


ルーファスは不機嫌そうに腕を組んでいた。


「父上、いったい何の騒ぎですか。私はこれから人と会う約束があるのですが」


「黙れ、ルーファス!」


国王の怒声が響いた。


ルーファスは目を見開く。


「ち、父上?」


「お前の不正について、説明してもらおう」


アルベルト公爵が一歩進み出た。


その手には、調査書が握られている。


「ルーファス殿下。我が娘セリアとの婚約を、正式に破棄いたします」


「はあ!?」


ルーファスは信じられないという顔で叫んだ。


「何を馬鹿なことを! 私を婿に迎える栄誉を捨てるつもりか!」


「栄誉、ですか」


アルベルトは冷ややかに微笑んだ。


「我が娘を蔑ろにし、他の女性たちに現を抜かし、公金を横領した挙げ句、公爵家の名を騙って私腹を肥やす。そのような方を婿に迎えることが、栄誉だと?」


調査書が広げられた。


密会の記録。


不正な資金移動。


偽造された契約書。


そして、関係者たちの証言。


ルーファスの顔から、見る見る血の気が引いていく。


「こ、これは……!」


「すべて裏付けを取っております」


「で、でたらめだ! 私は嵌められたのだ!」


国王は苦々しい表情で目を閉じた。


「ルーファス。お前には何度も機会を与えた」


「父上……?」


「王族としての責任を果たすよう、何度も諭した。だが、お前は聞く耳を持たなかった」


国王の声には、怒りだけでなく深い失望が滲んでいた。


「王家の資金を横領し、民を欺き、婚約者の家名まで利用した。その罪を、王子という身分で隠すことは許されぬ」


重臣たちの審議を経て、ルーファスの王族籍剥奪と、横領金の返還、北方の監督地での労役が決定された。


「そ、そんな……!」


衛兵に取り囲まれたルーファスが叫ぶ。


「セリアは!? セリアを呼べ! あいつが許せば済む話だろう!」


アルベルトの眼光が鋭くなった。


「最後まで分からぬ男だな」


「な、何がだ!」


「セリアは、お前を許すために生きているのではない」


ルーファスは言葉を失った。


「娘はもう、お前を待ってはいない」


その言葉を最後に、ルーファスは衛兵たちに連れられていった。


王宮の重い扉が閉まる。


アルベルトは深く息を吐いた。


そして、窓の向こうの青空を見つめた。


「……セリア」


彼は小さく呟いた。


「今度こそ、お前にふさわしい幸せを見つけよう」


それから、ひと月が過ぎた。


セリアは少しずつ、穏やかな日々を取り戻していた。


けれど、心の傷が完全に癒えたわけではない。


ある春の日、父が彼女を庭園へ呼んだ。


「セリア。紹介したい青年がいる」


「……お見合い、ですか?」


セリアの表情が曇る。


アルベルトは慌てて首を振った。


「いやいや、違うぞ! まずは友人として会ってみてほしいだけだ。気が進まなければ、断って構わん」


「お父様ったら……」


思わず苦笑した、そのとき。


「初めまして、セリア様」


柔らかな声が聞こえた。


振り返ると、一人の青年が立っていた。


黒髪に、穏やかな灰色の瞳。


華美な装飾のない騎士服を身につけ、少し緊張した様子で背筋を伸ばしている。


「テオドール・アシュフォードと申します。男爵家の三男で、現在は王都騎士団に所属しております」


青年は丁寧に一礼した。


「お目にかかれて光栄です」


「セリア・オルランドです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


彼女も礼を返す。


するとテオドールは、胸元から小さな白い花を取り出した。


「その……庭園に入る前に、花壇のそばで咲いているのを見つけまして」


「まあ」


「勝手に摘んだわけではありません。庭師の方に許可をいただきました」


真剣な顔で付け加える青年に、セリアは思わず笑ってしまった。


「あら、そんなことまで説明なさらなくても」


「いえ! 公爵家のお花を無断で摘んだと思われては大変ですので!」


テオドールはますます緊張した様子で背筋を伸ばした。


その姿があまりにも真面目で、セリアはくすくすと笑った。


「ありがとうございます。とても可愛らしいお花ですね」


「……よかった」


青年の表情が、ほっと和らいだ。


その笑顔を見たとき、セリアの胸の奥に、小さな温もりが灯った。


初めてのお茶会は、少しぎこちなかった。


テオドールは緊張のあまり、紅茶に砂糖を三杯も入れてしまった。


「あっ……!」


「どうなさいました?」


「い、いえ、その……少し甘くしすぎまして」


セリアは目を丸くした。


「三杯も?」


「はい……」


「ふふっ!」


思わず笑い声が漏れる。


テオドールは耳まで赤くなった。


「申し訳ありません。騎士団では剣を握っても緊張しないのですが、今日はどうにも……」


「どうしてですの?」


問いかけると、青年はしばらく迷ったあと、小さく答えた。


「……あなたに、嫌われたくないからです」


セリアの頬が熱くなった。


それは、あまりにも率直な言葉だった。


「そんな……」


「すみません。初対面で失礼なことを」


「いいえ」


セリアは首を振った。


「嬉しいです」


その一言に、テオドールは目を見開いた。


そして、少年のように嬉しそうに笑った。


その日、二人は一時間ほど話した。


好きな本のこと。


庭園の花のこと。


騎士団での失敗談。


セリアが幼い頃、薔薇の棘に引っかかって泣いた話。


どれも他愛のない話だった。


けれど、不思議と会話は途切れなかった。


帰り際、テオドールは深々と頭を下げた。


「本日はありがとうございました」


「こちらこそ」


「……また、お会いしてもよろしいでしょうか?」


セリアは一瞬、答えに迷った。


再び誰かを信じることが、怖かった。


けれど、目の前の青年は、返事を急かさなかった。


ただ静かに、彼女の言葉を待っていた。


「……はい」


セリアは微笑んだ。


「また、お茶をご一緒しましょう」


テオドールの顔が、ぱっと明るくなった。


「ありがとうございます!」


その喜びように、セリアはまた笑ってしまった。


次のお茶会の日。


テオドールは、約束の三十分前に到着した。


「まあ、ずいぶんお早いのですね」


「遅れてはいけないと思いまして」


「三十分も前ですのに?」


「……少し、楽しみにしすぎました」


照れくさそうに笑う彼を見て、セリアの胸がきゅんと鳴った。


その日、テオドールは一輪の淡い桃色の薔薇を持ってきた。


「セリア様のお好きな色だと、エマさんに伺いました」


「私の……好きな色?」


「はい」


セリアは薔薇を見つめた。


ルーファスは、一度も彼女の好きな色を尋ねなかった。


けれど、テオドールは知ろうとしてくれた。


「……ありがとうございます」


声が少し震えた。


「大切にしますね」


「はい」


テオドールは嬉しそうに頷いた。


それから、二人は少しずつ親しくなっていった。


テオドールは騎士団の非番の日に公爵邸を訪れ、セリアと庭を散歩した。


雨の日には温室で本を読んだ。


晴れた日には、木陰で紅茶を飲んだ。


ある日、テオドールは一冊の小説を差し出した。


「セリア様。以前、お探しだと仰っていた続巻です」


「まあ!」


セリアの瞳が輝いた。


「どちらで見つけられたのですか? 王都の本屋では、どこも売り切れだったのに」


「三軒目で、ようやく」


「三軒も?」


「はい。あなたが楽しみにしていらしたので」


セリアは本を胸に抱いた。


「……そんなに、私のために?」


「もちろんです」


テオドールは穏やかに笑った。


「あなたが喜んでくださるなら、三軒でも十軒でも探します」


その言葉に、セリアは胸がいっぱいになった。


「テオドール様……」


「はい?」


「どうして、そんなに優しくしてくださるのですか?」


青年は少し驚いたように瞬きをした。


そして、静かに答えた。


「あなたが、大切だからです」


セリアの心臓が、大きく跳ねた。


「……私が?」


「はい」


彼は真っ直ぐに彼女を見つめた。


「最初は、公爵閣下に紹介されたご令嬢でした。でも、お話しするうちに、あなたの笑顔が好きになりました」


「……っ」


「本を読むときの真剣な横顔も、花を見つけたときの嬉しそうな声も、誰かのために心を配る優しさも」


テオドールの頬が赤く染まる。


「気がつけば、次にお会いできる日を、指折り数えている自分がいました」


セリアは言葉を失った。


こんなふうに、自分自身を見つめてもらったことがあっただろうか。


彼女の胸の奥で、長く閉ざされていた扉が、少しずつ開いていくようだった。


だが、幸せが近づくほど、怖くなることもあった。


ある雨の日。


温室のガラス屋根を、細かな雨粒が叩いていた。


セリアはテオドールと並んで、白薔薇を眺めていた。


「……テオドール様」


「はい」


「一つ、聞いてもよろしいですか?」


「何でしょう」


セリアは俯いた。


「もし……私が、公爵家の娘でなかったとしても」


声が震える。


「それでも、私に会いたいと思ってくださいますか?」


テオドールはすぐには答えなかった。


その沈黙に、セリアの胸が痛んだ。


やはり、身分があるから。


公爵家の財産があるから。


そんな考えが頭をよぎる。


「……申し訳ありません。変なことを――」


「セリア様」


テオドールが、そっと彼女の言葉を遮った。


「私が初めてあなたにお会いした日のことを、覚えていらっしゃいますか?」


「……はい」


「私は緊張して、砂糖を三杯も入れてしまいました」


セリアは小さく笑った。


「覚えています」


「あのとき、あなたは笑ってくださいました」


テオドールも微笑んだ。


「私を馬鹿にするのではなく、心から楽しそうに」


「……」


「その笑顔が、忘れられなかったのです」


彼は一歩、近づいた。


「公爵令嬢だからではありません」


その灰色の瞳が、真っ直ぐにセリアを見つめる。


「私は、セリアという一人の女性に惹かれたのです」


セリアの瞳が潤んだ。


「……本当に?」


「本当です」


「私、そんなに立派な女性ではありませんわ」


「知っています」


思いがけない答えに、セリアは目を丸くした。


テオドールは慌てて手を振った。


「あっ、いえ! そういう意味ではなくて!」


その必死な様子に、セリアは思わず笑ってしまった。


「ふふっ……!」


「私は、あなたが完璧でなくても構わないと言いたかったのです」


テオドールは真剣な表情に戻った。


「悲しいときは泣いてください。疲れたときは休んでください。無理に笑わなくてもいいのです」


彼はそっと手を差し出した。


「あなたが泣く日も、笑う日も、私は隣にいたい」


セリアは、その手を見つめた。


大きく、少し無骨な騎士の手。


けれど、そこには不思議な温かさがあった。


「……テオドール様」


彼女は、そっと自分の手を重ねた。


「私……怖かったのです」


「はい」


「また、誰かを信じて……傷つくのが」


「……はい」


「でも……」


涙が頬を伝った。


「あなたといると、怖くなくなるのです」


テオドールは、彼女の手を優しく包み込んだ。


「急がなくていいのです」


「……え?」


「あなたの心が安心できるまで、いくらでも待ちます」


その言葉を聞いた瞬間、セリアの涙が溢れた。


かつて、自分は冷たい紅茶の前で、来ない人を待ち続けていた。


けれど今、目の前の人は、自分の心が追いつくまで待つと言ってくれる。


同じ「待つ」という言葉なのに、こんなにも違う。


「……ありがとう、ございます」


セリアは泣きながら微笑んだ。


テオドールは、彼女の涙を拭いたい衝動を堪え、そっとハンカチを差し出した。


その不器用な優しさが、たまらなく愛おしかった。


季節は巡り、初夏になった。


オルランド公爵邸の庭園には、色とりどりの薔薇が咲き誇っていた。


セリアは、以前よりずっとよく笑うようになっていた。


そして、ある朝。


彼女はエマに尋ねた。


「ねえ、エマ。今日のテオドール様のお越しは、何時だったかしら?」


「午後二時でございます」


「そう……」


セリアは時計を見つめた。


まだ、午前十一時だった。


「……長いわね」


エマが目を丸くする。


「何がでございますか?」


「午後二時まで」


その言葉に、エマはにっこり笑った。


「お嬢様。もしかして、早くお会いしたいのですか?」


「えっ!?」


セリアの頬が真っ赤になった。


「そ、そんなこと……!」


「ふふふ」


「エマ!」


侍女は楽しそうに笑った。


「ようやく、お嬢様ご自身が、誰かに会いたいと思えるようになられたのですね」


その言葉に、セリアははっとした。


そうだ。


以前は、嫌われたくなくて待っていた。


けれど今は、会いたくて待っている。


テオドールの声が聞きたい。


彼の笑顔が見たい。


今日あったことを話したい。


彼が自分の名前を呼ぶ声を、もう一度聞きたい。


「……私」


セリアは胸に手を当てた。


「テオドール様が……好きなのね」


その言葉を口にした途端、胸の奥が温かくなった。


午後一時半。


テオドールは、いつものように三十分早く到着した。


だが、その日は少し様子が違っていた。


「セリア様」


「はい?」


「今日は……お話ししたいことがあります」


彼はいつになく真剣だった。


セリアの胸が高鳴る。


「何でしょう?」


「温室へ、ご一緒していただけませんか?」


二人は白薔薇の咲き誇る温室へ向かった。


ガラス屋根から、柔らかな木漏れ日が降り注いでいる。


甘い花の香りが、初夏の風に乗って漂っていた。


テオドールは、薔薇の前で足を止めた。


「セリア様」


「はい」


「私は、身分も財産も、あなたには到底及びません」


「そんなこと……」


「ですが、これだけは誓えます」


彼はセリアの前に跪いた。


そして、小さな箱を取り出した。


中には、淡い桃色の宝石をあしらった指輪が収められていた。


「あなたを、決して一人で待たせません」


セリアの瞳が大きく見開かれる。


「悲しいときは、共に悲しみます。嬉しいときは、誰よりも先にあなたと喜びを分かち合いたい」


テオドールの声が、わずかに震えた。


「私の人生を、あなたと共に歩ませてください」


彼は深く息を吸った。


「セリア・オルランド様。どうか、私と結婚してください」


セリアの目から、涙がこぼれ落ちた。


けれど、それはもう悲しみの涙ではなかった。


「……テオドール様」


彼女は震える声で答えた。


「私、ずっと……誰かに愛されるためには、完璧でいなければならないと思っていました」


「……はい」


「相手の好きな色を着て、好きな話をして、どれほど寂しくても笑って……」


涙が頬を伝う。


「でも、あなたは違いました」


セリアは、そっと彼の手を取った。


「私の好きな花を覚えていてくださった。私の好きな本を探してくださった。そして、私が泣いても、そばにいてくださった」


テオドールの瞳も潤んでいた。


「セリア様……」


「私も、あなたと一緒にいたいです」


彼女は微笑んだ。


「朝、目が覚めたときも。夕暮れの庭を歩くときも。年を重ねて、髪が白くなっても……」


セリアは、はっきりと告げた。


「あなたの隣で、笑っていたい」


テオドールの顔が、喜びに輝いた。


「では……!」


「はい」


セリアは幸せそうに頷いた。


「喜んで、お受けいたします」


テオドールは、震える手で指輪を彼女の指にはめた。


ぴったりだった。


「……よかった」


彼は安堵の息を漏らした。


「実は、指輪の大きさが合わなかったらどうしようかと、昨夜から眠れなくて……」


「まあ!」


セリアは笑った。


「そんなに心配なさっていたのですか?」


「はい。騎士団の演習より、よほど緊張しました」


「ふふっ……!」


二人は顔を見合わせて笑った。


やがて、テオドールがそっと尋ねた。


「……セリア」


初めて、敬称をつけずに呼ばれた。


その響きに、彼女の胸が甘く震えた。


「はい……テオドール」


「抱きしめても、いいですか?」


セリアは頬を染め、静かに頷いた。


「……はい」


次の瞬間、彼女は温かな腕の中にいた。


テオドールの胸に頬を寄せると、力強い鼓動が聞こえた。


彼も緊張しているのだ。


そう思うと、たまらなく愛おしくなった。


「……テオドール」


「はい」


「私、あなたが大好きです」


彼の腕に、少しだけ力がこもった。


「私もです、セリア」


そして、彼は彼女の額に、そっと口づけた。


セリアは目を閉じた。


初夏の風が、白薔薇の花びらを揺らす。


そのときだった。


「うおおおおっ! よくやった、テオドール君!」


温室の入り口から、豪快な声が響いた。


「お、お父様!?」


振り返ると、アルベルト公爵が満面の笑みで立っていた。


その隣には、テオドールの両親と、笑いを堪えるエマの姿まである。


「お父様! まさか、ずっと見ていらしたのですか!?」


「いや、その……偶然だ!」


「絶対に嘘です!」


アルベルトは大きな咳払いをした。


「ともかく! テオドール君!」


「は、はい!」


「よくぞ、娘を幸せにすると誓ってくれた!」


テオドールは姿勢を正した。


「はい! 生涯をかけて、大切にいたします!」


アルベルトは満足そうに頷いた。


そして、ふと表情を和らげた。


「……セリア」


「はい、お父様」


「幸せか?」


その問いに、セリアは迷わず答えた。


「はい」


彼女はテオドールの腕に、そっと手を添えた。


「私は今、世界で一番幸せです」


アルベルトは目を細めた。


その瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。


「……そうか」


彼は娘の頭を優しく撫でた。


「よかったな、セリア」


「お父様……」


「もう、冷たい紅茶の前で、一人きりで待つ必要はないのだぞ」


その言葉に、セリアの瞳から再び涙がこぼれた。


「……はい!」


アルベルトは、そっと目元を拭った。


「いかんな。年を取ると、涙もろくなる」


「ふふっ……お父様ったら」


テオドールの父が、笑いながら声をかけた。


「公爵閣下。本当に、うちの不器用な息子でよろしいのですか?」


アルベルトは胸を張った。


「もちろんだ!」


そして、テオドールの肩を力強く叩いた。


「この青年の誠実さは、百万の金貨にも勝る!」


「こ、公爵閣下……!」


「ただし!」


アルベルトは、ぐっと顔を近づけた。


「娘を泣かせたら、私が相手だぞ!」


「は、はいっ!」


その勢いに、皆が笑った。


セリアも、テオドールも、声を上げて笑った。


温室には、幸せな笑い声が満ちていた。


やがて、家族たちが祝宴の準備へ向かうと、二人は再び白薔薇の前に並んだ。


「……セリア」


「はい?」


「これからも、毎日あなたに花を贈ってもいいですか?」


セリアは微笑んだ。


「毎日では、温室がいっぱいになってしまいますわ」


「では、一週間に一度で」


「ふふっ」


彼女は彼の手を握った。


「お花がなくても、いいのです」


「……え?」


「あなたが、そばにいてくだされば」


テオドールはしばらく彼女を見つめた。


そして、照れくさそうに笑った。


「……それでは、毎日会いに来なければなりませんね」


「ええ」


セリアは頷いた。


「毎日、会いに来てください」


「約束します」


「……本当に?」


「はい。必ず」


彼女は少しだけ背伸びをした。


そして、テオドールの頬に、そっと口づけた。


「……っ!」


青年の顔が、耳まで真っ赤になった。


「セ、セリア!?」


「ふふっ!」


セリアは楽しそうに笑った。


「お返しです」


テオドールは困ったように笑い、やがて彼女の手を優しく握り直した。


「……では、もう一つだけ、お願いしてもいいですか?」


「何でしょう?」


「今度は、私から……」


その先の言葉を聞く前に、セリアはそっと目を閉じた。


二人の唇が、優しく重なった。


ほんの短い口づけだった。


けれど、セリアには、それが何よりも大切な宝物に思えた。


かつて、彼女は冷たい秋風の中で、来ない人を待ち続けていた。


自分がもっと美しければ。


もっと賢ければ。


もっと相手に尽くせば。


きっと、愛してもらえるのだと信じていた。


けれど、本当の愛は違った。


無理に笑わなくてもいい。


泣きたいときには泣いていい。


好きなものを好きだと言っていい。


そして、ただ隣にいるだけで、心が温かくなる。


そんな人と出会えたのだ。


「……テオドール」


「はい、セリア」


「私、もう一つ、お願いがあります」


「何でも言ってください」


セリアは、彼の肩にそっと頭を寄せた。


「これから先、どんなに忙しい日があっても……」


彼女は微笑んだ。


「一緒に、お茶を飲む時間を作ってくださいね」


テオドールは、優しく頷いた。


「もちろんです」


「約束ですよ?」


「はい」


彼は彼女の手の甲に口づけた。


「たとえ仕事が長引いても、必ず知らせます。あなたを一人で待たせたりしません」


セリアは目を潤ませながら笑った。


「……ありがとう」


ガラス屋根から、柔らかな木漏れ日が降り注ぐ。


白薔薇が風に揺れ、甘い香りが二人を包んだ。


テーブルには、淹れたての紅茶。


温かな湯気が、ゆっくりと立ち上っていた。


もう、冷え切った紅茶を前に、一人で待つ少女はいない。


そこにいるのは、愛する人と未来を語り合う、幸せな女性だった。


セリアはテオドールの手を握り、そっと微笑んだ。


「……ねえ、テオドール」


「何ですか?」


「私、あなたに出会えて、本当によかった」


テオドールも、優しく微笑んだ。


「私もです、セリア」


二人は寄り添いながら、温かな紅茶を口にした。


初夏の光が、二人の指輪をきらきらと輝かせている。


冷たい雨の季節は、もう終わった。


これから先、嵐の日も、雪の日もあるだろう。


けれど、二人なら大丈夫。


どんな季節にも、互いの手を取り合って歩いていける。


なぜなら、本当の幸せとは、豪華な宝石でも、立派な爵位でもなく――。


愛する人と、何気ない一日を笑い合えることなのだから。


白薔薇の温室に、あたたかな木漏れ日が降り注いでいた。


そして、二人の幸せな物語は、ここから始まるのだった。


――完――



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。