どこ、たべますか ――東京怪異怪談――
――東京怪異怪談シリーズ三本目のお話です――
その店はいつも、異国の賑やかな音楽を響かせていた。
私の住む家の近く――最寄りのバス停から団地までの間にあるその店は、カレー屋である。
住宅街の中にぽつんとたつ店は、インドかネパールあたりの方がやっている店のようで、常に開け放たれた扉から中を見ると、異国の装飾が店内を華やかに彩っていた。
だが場所が悪いのか、店に客がいるのを見たことがない。
そして店員の姿もいつも見えず、ただただ明るい音楽だけが店の外へと流れてくる。
カレー好きな私はいつも気になっていたけれど、人気のない店内に臆していつも入ることが出来なかった。
◇◇◇ ◇◇◇
だが八月のあの日、私はその店に珍しく入るつもりになっていた。
よりにもよって補習と酷暑日が重なり、更に私は兄が作ってくれたお弁当を家に忘れた。
空腹と暑さでヘロヘロになりながら家路を歩いていると、あの音楽が聞こえてきた。賑やかな旋律を聴いていると、暑い日にカレーというのも悪くないなと、不意に思ったのだ。
店の前まで行くと、不思議なことにあれほど誰もいなかった店が人でいっぱいだった。
「イラッシャイマセ」
店員も珍しくおり、声をかける間もなく奥の席にどうぞと案内された。
クーラーが効きすぎているのか、店の奥に進むたび外の暑さがウソのように消えていく。それどころか、身体がわずかに震えるほどの冷気を感じた。
汗で冷えたのだろうかと思いつつ、案内された四人掛けの席に着席し、鞄を横に置く。
そしてテーブルに置かれたメニューを開こうとしたとき、私は妙なことに気づいた。
メニューだと思っていたそれは、妙に分厚かったのだ。
革張の表紙を開くと、なぜだか中には子供の写真が並んでいる。
すずきたくや くん
はしもとすず ちゃん
はしもとゆめ ちゃん
なみきゆうと くん
写真にはそれぞれ名前が書かれていた。
どの子も満遍の笑顔だが、印刷がおかしいのか顔のどこかが欠けていた。
そうした写真と名前が6ページにもにわたって掲載されてるのを見て、私はようやく、自分がよくない場所に来たことを悟った。
「どこ、たべますか?」
突然聞こえてきた声に、私はビクリと肩を揺らす。
気がつけば、いつのまにか店員が戻ってきていた。
だが顔を見てはいけない気がして、私はうなだれたままギュッと制服のスカートを握った。
そのまま恐ろしくて顔を上げられずにいると、伝票が視界の端でゆらゆらと揺れている。
「どこ、たべますか?」
答えずにいると、店員は更に聞いてきた。
「どこ、たべますか?」
「どこ、たべますか?」
「どこ、たべますか?」
「どこ、たべますか?」
「どこ、たべますか?」
「どこ、たべますか?」
「どこ、たべますか?」
「どこ、たべますか?」
「どこ、たべますか?」
淡々と繰り返される声から逃げたいのに、まるで縫い付けられたかのように椅子から立ち上がることが出来ない。
そうしていると、今度は急にむせるほどの暑さが舞い戻り、額から大量の汗がふき出す。
熱で何もかもが溶けていくような感覚のなか、常に響いていたあの賑やかな音楽もぐにゃりと歪む。
「どこ、たべていいですか?」
そこで、もう一度問われた。
余りの暑さで怖いという感覚も溶けて、私はふっと顔を上げた。
「あた――」
「こたえるな」
私の声を遮ったのは、よく知る声だった。
顔を上げるよりはやく腕を掴まれ、そのまま強引に店の外まで連れ出される。
途端に歪んでいた旋律が元に戻り、私はハッと顔を上げる。
私は、あのカレー屋の前に立っていた。
相も変わらず賑やかな曲は流れていたが、店に人気はなく、薄暗い闇の中で異国の神様を模した飾りが、風もなく揺れている。
「小夜は本当によく、引き寄せられるな」
隣に立っていたのは、私の兄の友人であり、高校の担任でもある伊織だ。
私に補習を言いつけた元凶でもある。
「ねえ、いまのは」
「昼飯を食うときは、他の店にしろ」
伊織はそれだけしか言わなかったけれど、その注意は守るべきだと第六感が告げていた。
◇◇◇ ◇◇◇
「えっ、角のカレーや? あそこ2年くらい前に火事で焼けただろ」
家に帰り、置き忘れていた弁当に舌鼓を打っていた私に、そう言ったのは兄だった。そして兄の横でかき氷を食べていた伊織が、呆れたような目で私を見る。
「従業員と客が全員亡くなって、全国区のニュースにもなったぞ」
兄の言葉を聞いて、私は今更のように火事があったことを思い出す。
どうしてそれまで忘れていたのかと不思議だったが、深く考えてはいけない気がした。
この世には触れてはならないこともあると、最近身をもって知ることが増えている。
だから今日のことも、余り深く考えないほうがいい。
さもないとまた、あの店に招かれるという確信が、漠然とあった。
「カレーなら、ココイチにしろ」
「伊織、チェーン店よりああいう店の方が好きそうなのに」
ふとこぼれた言葉に、彼はふっと笑った。
「あそこの食材はよくない。俺ならもう少し、いいものを喰う」
笑顔と共に向け荒れた眼差しは、じっとりと湿度を含んでいる。
見つめていると心を絡め取られ、何か大事なものを奪われてしまいそうな、そんな眼だった。
「なあ、カレーが食べたいなら兄ちゃんが作るぞ」
見つめ合っていた私たちを、我に返らせたのは兄の言葉だった。
「うーん、じゃあチキンカレーで」
「おうっ、張り切って作ってやる!」
せっかくなら一晩寝かせて、美味しくしてやろうと兄は意気込む。
その顔を見ていると、昼間見たものは夢だったのではと思えてきたし、そう思うことにした。
◇◇◇ ◇◇◇
そして数日後、あのカレー屋の前に行くと店は跡形もなかった。
小さな空き地だけがぽつんと残り、雑草だけがのびのびと天を目指している。
でも、あの異国の音楽はまだ、私の耳の奥に残っている。
それがいつ消えるのかは、まだわからない――――。




