冒険者ギルドの受付嬢、今日も定時で帰ります
朝六時半。王都アステリア冒険者ギルド本部の裏口から、リリア・ノースウィンドは出勤した。
鍵を開け、受付カウンターの木製シャッターを上げる。カウンターの天板を乾いた布で拭き、羊皮紙の在庫を確認し、インク壺の蓋を開ける。依頼掲示板の期限切れクエストを外し、昨日の夜間に届いた新規依頼を等級ごとに仕分けて貼り出す。
赤がS級。青がA級。緑がB級以下。
今日の新規依頼は十二件。そのうち赤はなし。青が二件。あとは緑。平和な一日になりそうだった。
リリアは受付嬢としては中堅で、勤続五年目になる。特別な魔法は使えないし、剣も振れない。事務処理が正確で速い。それだけが取り柄だった。
「おはようございます」
同僚のメルが出勤してきた。リリアより二つ年下で、もう三年目になる。
「おはよう。今日は静かそうだよ」
「やったあ。定時で帰れますね」
「もちろん」
リリアにとって定時退勤は信条だった。冒険者ギルドの受付嬢は激務で知られる。深夜の緊急報告、酔った冒険者の対応、命がけの依頼を淡々と処理する精神力。離職率は高い。だからこそリリアは線を引く。朝七時から夕方五時。それ以外は自分の時間だ。
七時きっかりに正面扉を開けると、もう三人ほど並んでいた。
最初の一人はグレン・ハードロック。B級冒険者、三十八歳。ゴブリン退治の常連だ。
「リリアちゃん、いつもの」
「西の森のゴブリン討伐ですね。昨日新しく掲示が出ています。報酬は銀貨十五枚、頭数証明は耳で」
「耳ね。了解」
グレンは依頼書に署名し、出発届に日付を書き込んだ。リリアは受理印を押し、出発時刻を台帳に記入する。所要時間の目安を伝え、帰還届の提出期限を念押しする。
「三日以内に帰還届が出ない場合は捜索依頼を発行しますので、ご注意ください」
「五年間一度も遅れたことないだろ」
「規則ですので」
グレンは笑って出ていった。リリアは次の受付に移る。
二人目は新人だった。登録して一週間のエリス・ファーレン、十七歳。E級。
「あの、薬草採取の依頼を受けたいんですけど……」
「こちらですね。南の丘陵地帯のヒールリーフ採取。E級対応で、報酬は銀貨三枚」
「あの、南の丘って、魔物は出ますか」
「低級スライムの報告が月に二、三件あります。E級装備で対処可能ですが、不安でしたら同行者を掲示板で募ることもできます」
エリスは少し迷った顔をして、それからまっすぐリリアを見た。
「一人で行きます」
「承知しました。では依頼書にご署名を。帰還届の期限は二日以内です」
リリアは新人が緊張している手元を見ながら、余計なことは言わなかった。励ましも忠告もしない。受付嬢の仕事は情報を正確に伝えることであって、冒険者の選択に口を挟むことではない。
三人目。
「すみません、調査依頼の申請を」
地味な男だった。年齢は三十代半ばか。革鎧は手入れされているが年季が入っていて、目立つ装飾は何もない。C級冒険者、登録名レイン・グラスフィールド。
「依頼内容は」
「北部山岳地帯の竜の巣、生態調査です」
リリアはペンを止めた。竜の巣の調査依頼は通常A級以上が対象になる。C級冒険者が個人で申請するのは珍しい。
「北部山岳の竜の巣は危険度A指定区域です。C級冒険者の単独調査は規定上……」
「戦闘目的ではないので。観察と記録だけです。危険度A区域への立ち入り自体はC級以上で申請可能なはずです」
その通りだった。戦闘を伴わない調査・観察目的であれば、C級以上の冒険者が自己責任で申請できる。ただし、竜に遭遇した場合の保証はギルド側にはない。
「自己責任条項への署名が必要です」
「はい」
リリアは書類一式を用意した。調査依頼申請書、危険区域立ち入り許可書、自己責任誓約書、緊急連絡先届出書。レインは慣れた手つきで全てに署名した。筆跡は丁寧で、読みやすかった。
「帰還届の提出期限は五日以内です。超過した場合は——」
「捜索依頼の発行。承知しています」
レインは軽く頭を下げて、静かに出ていった。
午前中の受付が一段落した昼頃、メルがカウンターの奥でリリアに話しかけてきた。
「さっきの人、またあの依頼ですか」
「竜の巣の調査。先月も出してたね」
「毎月ですよね。いつも一人で。他の受付の子たちも不思議がってて。何が楽しいんだろうって」
メルは声をひそめた。
「三番窓口のカレンなんて、『あの人、実はどこかの国のスパイなんじゃないか』って言ってましたよ。竜の巣に毎月通うなんて普通じゃないって」
「スパイが冒険者ギルドの窓口に毎月顔を出すかな」
「それもそうですね」
メルは笑った。リリアも少しだけ口の端を上げた。
「人の趣味だからね」
リリアはそれ以上興味を持たなかった。冒険者にはいろいろな人がいる。名声を求める者、金を求める者、単純に戦いが好きな者。そして稀に、誰にも理解されない目的を静かに追い続ける者。受付嬢はその全員に等しく対応する。それだけだ。
午後は報告書の整理に充てた。帰還した冒険者の報告を聞き取り、依頼の完了を確認し、報酬を支払い、台帳を更新する。
グレンが昼過ぎに帰還した。ゴブリン八体分の耳を袋に入れてカウンターに置く。リリアは数を確認し、帰還届に印を押し、報酬の銀貨を数えて渡した。
「今日は早かったですね」
「巣が近くに移動しててな。ラッキーだった」
「巣の移動は報告書に記載をお願いします。他の冒険者への情報共有に使いますので」
「了解、了解」
グレンは報告書の巣の位置を書き足して出ていった。リリアはその情報を掲示板の地図に反映させた。小さな赤いピンを一つ、西に動かす。こうした地味な作業の積み重ねが、冒険者の生存率を上げる。
三時過ぎにはエリスも戻ってきた。ヒールリーフの束を抱えて、少し日に焼けた顔で。
「初回依頼完了おめでとうございます。薬草の品質確認をしますね」
リリアは葉の状態を確認した。採取から時間が経つと薬効が落ちるが、このヒールリーフは新鮮だった。適切な時間に適切な方法で採っている。
「品質良好です。報酬は銀貨三枚になります」
エリスは銀貨を受け取り、少しだけ誇らしそうな顔をした。それから思い出したように言った。
「あの、スライムに一匹だけ遭遇しました。倒せました」
「報告ありがとうございます。出現位置を報告書に記入してください」
エリスが書き込む報告書の字は、朝の署名よりも少しだけしっかりしていた。
四時半。あと三十分で定時だった。
通信石が鳴った。
ギルドの奥にある通信室から、当直のベテラン職員が駆けてきた。顔が青い。
「北部山岳から緊急連絡。A級パーティ『蒼穹の剣』が竜の巣付近で飛竜の群れと遭遇。壊滅状態。重傷者三名、軽傷二名」
受付ホールが一瞬で静まり返った。蒼穹の剣は王都でも指折りのA級パーティだ。五人編成で、竜種の討伐依頼を何度もこなしてきた精鋭たちが壊滅。
ギルドマスターが二階から降りてきた。救援隊の編成が始まる。リリアは通信記録を書き起こし、負傷者の登録情報を引き出し、救護班への連絡手配を進めた。定時が過ぎたが、緊急時は別だ。
続報が入った。
「蒼穹の剣、五名全員の生存を確認。——現場にいたC級冒険者が飛竜の群れの注意を引きつけ、パーティの撤退を援護した模様」
ギルドマスターが眉を上げた。
「C級が飛竜の群れを? 名前は」
通信士が読み上げた。
「レイン・グラスフィールド。北部山岳の調査依頼で入域中だった、と」
ざわめきが広がった。C級冒険者が飛竜の群れに単独で対峙し、A級パーティ五人を生還させた。そんなことが可能な人間は——。
「怪我は? そのC級冒険者は」
ギルドマスターが通信士に詰め寄った。
「軽傷のみ、と。本人は治療を断り、自力で下山中だそうです」
飛竜の群れを相手にして軽傷。それも、五人を守りながら。
ホールにいた冒険者たちがざわついた。「化け物か」「C級のくせに」「いや、C級なわけがないだろう」。声が飛び交う中、リリアは黙って仕事を続けた。
救援隊の出発手続き。蒼穹の剣の家族への連絡。治療院への搬送手配書。一つ一つ、正確に。
手が空いた瞬間、リリアはカウンターの下の台帳を引き出した。レイン・グラスフィールドの登録情報。五年前に登録。C級昇格試験以降、昇格申請なし。定期的に調査依頼を申請。戦闘依頼の受託歴はゼロ。
備考欄には何も書かれていない。面談記録もない。五年間、一度もトラブルを起こさず、一度も期限を超過していない。完璧に地味な履歴だった。
リリアの指が、登録情報の一番下の欄で止まった。
「前所属ギルド」の欄。他のギルドから移籍してきた冒険者には、ここに前歴が記載される。たいていの冒険者はこの欄が空白だ。
小さな文字で記載がある。
——帝国ギルド本部。登録番号〇〇一。
リリアの指が止まった。
登録番号〇〇一。帝国冒険者ギルドの最初の登録者。それは二十年前、史上最年少の十五歳でS級に認定され、北の魔王軍を単騎で押し返したと伝えられる人物の番号だ。帝国では子供でもその名を知っている。
「雷霆のレイン」。
大陸最強と謳われた冒険者。十五年前に突然ギルドを脱退し、以降消息不明とされていた英雄の——本名。
リリアは台帳を閉じた。
周囲ではまだ救援の手配が続いている。蒼穹の剣の帰還準備、治療師の手配、報告書の作成。リリアはその全てを淡々とこなした。
六時半に最後の書類を片付け、七時前にギルドを出た。一時間半の残業。明日の勤務で調整すればいい。
帰り道、リリアは夕焼けの空を見上げた。
あの地味な革鎧。丁寧な筆跡。「戦闘目的ではないので」という静かな声。自己責任誓約書に慣れた手つきで署名する姿。毎月、一人で竜の巣に通う理由。
竜の生態を観察していたのだ。本当に。
最強の冒険者が剣を置き、C級を名乗り、誰にも気づかれずに竜を観察し続けている。戦うためではなく、知るために。そしていざ人が危険に晒されれば、黙って剣を取る。
リリアは何も特別なことを感じなかった——と自分に言い聞かせた。受付嬢は冒険者の事情に立ち入らない。個人情報を他言しない。これは業務上知り得た情報であり、それ以上でも以下でもない。
ただ、帰宅して夕食を済ませた後、少しだけ、本棚から古い冒険譚を引っ張り出した。『雷霆のレイン 北征録』。子供の頃に読んで、冒険者ギルドに就職しようと思ったきっかけの本だった。
翌朝。
六時半にいつも通り出勤し、カウンターを拭き、インク壺を開け、掲示板を整理した。昨日の竜の巣の件は王都中の話題になっていたが、ギルドの公式発表では「調査中のC級冒険者の協力により全員生還」とだけ記載されている。名前は伏せてある。ギルドマスターの判断だった。
七時に正面扉を開ける。
三番目に来たのは、地味な革鎧の男だった。
「すみません、調査依頼の申請を」
「依頼内容は」
「北部山岳地帯の竜の巣、生態調査です」
リリアはペンを取り、書類一式を用意した。調査依頼申請書、危険区域立ち入り許可書、自己責任誓約書、緊急連絡先届出書。昨日と同じ一式。
「自己責任条項への署名が必要です」
「はい」
レインは丁寧な筆跡で署名した。リリアは受理印を押し、台帳に記入した。
「帰還届の提出期限は五日以内です」
「承知しています」
レインは軽く頭を下げて、出ていこうとした。
「あ、レインさん」
呼び止めたのは、自分でも少し意外だった。レインが振り返る。
「……昨日はお疲れ様でした。帰還届、確かに受理しております」
それだけ言った。業務連絡。それ以上でも以下でもない。
レインは一瞬きょとんとして、それから「ああ、ありがとうございます」と小さく頭を下げた。何のてらいもない所作だった。
扉が閉まる。リリアは次の受付に移った。
「リリアさん、今日は定時で帰れそうですか」
メルが聞いた。
「もちろん」
五時ちょうどにカウンターを閉め、退勤の記録をつけた。メルに「お疲れ様」と言って裏口に向かい——少しだけ足を止めた。
カウンターの奥の書庫に入り、冒険者名簿の古い巻を一冊だけ引き出した。帝国ギルドとの共有台帳。普段は年に一度の監査でしか開かない資料だ。
十分だけ読んで、棚に戻した。
それから定時通り、ギルドを出た。
明日も七時に扉を開ける。依頼を受け付け、報告を処理し、五時にカウンターを閉める。冒険者の事情には立ち入らない。英雄も新人も等しく、受付番号順に対応する。
それがリリア・ノースウィンドの仕事だ。
春の夕風が街路を吹き抜けていく。リリアは少しだけ歩調を緩めて、茜色に染まる王都の空を見上げた。
明日も、定時で帰る。




