14 カイの弟ルカ
「兄さんは、ここで一体何を教わったんだ」
カカポの森の入り口で、ルカは呆然と立ち尽くしていました。
高級な絹のコート、泥ひとつない靴。数字と効率こそが正義だと信じ、実家を継ぐべく英才教育を受けてきたルカにとって、目の前の光景は「異常」そのものでした。
カイが時々森の家で過ごすようになって、数年。
そこには、港で新進気鋭の商会を立ち上げた青年――自分の兄であるカイが、緑色の巨大な「毛玉」に押し潰されながら、ゲラゲラと笑っている姿があったからです。
「あ、ルカ! 本当に来たのかよ!」
カイは頭の上に乗ったカカポを器用に肩へ移すと、弟を招き入れました。
ルカが怯えながら家の中へ入ると、そこには柔らかな陽だまりのような女性、リーナが立っていました。
(この人が、兄を変えた「リーナ」……)
ルカは、彼女を厳しい目で観察しようとしました。
兄を「家業」から連れ出し、野性味溢れる粗野な男に変えてしまった張本人。
どんな狡猾な女かと思えば、そこにいたのは、ただただ穏やかにスープをかき混ぜる、不思議な透明感を持った母親のような女性でした。
「ようこそ、ルカ君。カイからお話は聞いていたわ。ちょうど、あなたが来ると思って、とっておきの蜂蜜レモンケーキ焼いたところなの」
「……あ、ありがとうございます。でも、僕は別に、食事をしに来たわけでは……」
ルカは精一杯の虚勢を張りました。
しかし、リーナがケーキを切り分けた瞬間、ふわりと漂った香りに、彼の「完璧な理論」が揺らぎます。
それは、屋敷の熟練シェフが作る完璧な菓子とは違う、食べる者の魂に直接語りかけてくるような、圧倒的な「肯定」の香りでした。
「さあ、召し上がれ。カカポたちが卵を割るのを『邪魔』しなかったから、今日はとっても綺麗に焼けたわ」
リーナが差し出した一皿を、ルカは恐る恐る口に運びました。
次の瞬間ルカの目から、自分でも驚いたことに、涙が溢れ出しました。
「……っ、なんだ、これ」
甘くて、少し酸っぱくて、温かい。
屋敷では、食事は「マナー」であり「外交」でした。
何を食べるかよりも、どう振る舞うかが重要な場。
期待に応えなければならない、間違えてはいけない。そんな張り詰めた毎日の中で、ルカが一番欲しかったもの。
それは、「ただ生きて、食べているだけでいい」という、無条件の受容でした。
「美味しいでしょう? あなたの分も、ずっと用意しておきたかったのよ」
リーナがそっとルカの肩を抱きました。その手は、記憶にないほど遠い昔、誰かに触れてほしかった温もりそのものでした。
ルカは、兄のカイを見ました。
カイはカカポたちにケーキの端切れを奪われながら、「こら! ルカの分まで食うな!」と叫んでいます。
(兄さんは、この温もりを知ったから、あんなに強くなれたんだ)
ルカの中にあった、兄への軽蔑は、いつの間にか激しい「憧れ」へと変わっていました。
数字で人を動かすのではなく、このリーナのように、あるいは今の兄のように、人の「空腹(孤独)」を満たすことで世界を動かす力。
「……兄さん。僕、うちの商会の帳簿、もう一度付け直すよ」
ルカは涙を拭い、ぶっきらぼうに言いました。
「今の計算には、『心』のコストが入ってなさすぎる。……あと、そのカカポっていう鳥。一羽貸してよ。屋敷の連中にも、この『重さ』を分からせてやりたい」
「ははっ! ルカ、お前、カカポを甘く見るなよ。明日の朝には屋敷のカーテンがズタズタだぞ!」
リーナは、笑い合う兄弟を見守りながら、胸の奥で小さく呟きました。
「よかったわね。あなたの分まで、この子たちがしっかり生きてくれているわ」
リーナの中に宿る「失われたはずの命」の意識。
それは今、カイという「盾」と、ルカという「知恵」を得て、カカポの森を守る大きな力になろうとしていました。
「リーナ、おかわり! ルカの分ももっと厚く切ってやってくれ!」
「ぐぽっ!」「 ぐぽー!」
「ねえ、きみ僕の家に来てくれる? しばらくの間でいいからさ。おいしいおやつ食べ放題だよ…」
どさくさ紛れにルカがカカポたちをスカウトしました。「おやつ食べ放題」の言葉に、カカポたちがルカに飛びつきます。
「あーっ待ってカカポ! 重い! 倒れる!!」
賑やかな声は、森の奥深くへと吸い込まれていきました。
かつて孤独だった少女が作った小さな居場所は、今や迷える少年たちの、かけがえのない「帰る場所」になったのでした。
数日後。下級貴族の屋敷の門を叩く音が響きました。
出迎えた執事は、馬車から降りてきた若主人の姿を見て、生まれて初めて銀のトレイを落としました。
「ル、ルカ様……? その、お肩に乗っていらっしゃる……動く苔玉のようなものは一体……?」
「……『重役』だ。今日から私の執務室に常駐させる。
……おい、突っつくな。ネクタイは餌じゃないと言っただろう」
ルカの肩に乗ったカカポ___一番重いことで皆から一目置かれる「ドン」は、屋敷の豪華な内装に一切気圧されることなく、「ぷえ!」と尊大に鳴きました。
ルカがデスクで真剣に帳簿をチェックしていると、肩の上のカカポが重たい身を乗り出しました。
「……ま、待て。インク瓶が――」
ガッシャーン!
「…………」
真っ白な書類の上に広がる、漆黒の海。
カカポは悪びれる様子もなく、そのインクの上をペタペタと歩き回り、ルカの最高級のデスクにカカポの足跡を刻みつけました。
いつもなら、ルカは激昂して使用人を呼びつけるところです。
しかし、彼の脳裏には、リーナが焼いてくれた蜂蜜レモンケーキの甘い香りと、「失敗しても、お腹は空くわよ」と笑った彼女の顔が浮かびました。
「……ふん。数字ばかりの退屈な紙に、少しは彩りが出たか」
ルカは自嘲気味に笑い、おもむろに引き出しから「リーナ特製のクッキー」を取り出しました。
カカポが目を輝かせて「ボフッ!」と羽を膨らませます。
ある日の夕食。
ルカは、父の前でいつもより堂々としていました。
「父上。今後の投資計画ですが、利益率だけでなく、現場の『食事の質』を予算に組み込むべきだと判断しました。……おい、父上のスープをのぞき込むな」
テーブルの向かい側まで首を伸ばしてくるカカポを除けながら、彼は言い放ちます。
父は呆気に取られていましたが、ルカの瞳に宿る、以前にはなかった「揺るぎない自信」に気圧され、思わず頷いてしまいました。
こうして、カイの商会だけでなく、実家の屋敷までもが少しずつ「カカポ(とリーナ)の魔法」に浸食されていくのでした。
リーナは森で、ときどき届く「ルカ様がまた書類を破られました」「カカポがシャンデリアに飛び乗りました」という報告の手紙を読みながら、幸せそうにオーブンを覗き込んでいます。手紙の主は、カイとルカの家の執事。カイの変化や、ルカが不思議な鳥を連れ帰ったことで、彼が慣れ親しんだ「常識」がどこかへ行ってしまったようです。
「ふふっ。あの子たち、次はどんな美味しいものを食べに帰ってくるかしら?」
カカポの森は、今日も平和で、とっても食いしん坊な愛に満ち溢れています。




