ーーEP29ーー
男性は正座のまま、視線を落とし続けている。
「私は元々、先代の女将さんの時代に、こちらの宿で料理人の見習いとしてお世話になっていました」
ざわ、と小さな波が広がる。
女将がわずかに目を見開く。
「私が働いていた頃は、娘さん……今の女将さんは海外に留学されていましたね」
女将は一歩前へ出る。
「母の時代に、ですか……。今はその頃を知るスタッフはおりません」
後ろのスタッフたちは顔を見合わせる。
誰も記憶にない名前。
男性は静かに続ける。
「私はこの集落の出身です。先月、たまたま実家に戻りました。父が高齢でして……寄り合いに代わりに出席してほしいと言われ、代わりに出たんです」
女性客のひとりが小さく息を呑む。
「その席で、刀の話を耳にしました」
星兄は腕を組んだまま、表情を崩さない。
「今の生活が苦しいわけではありません。ただ……」
男性の指先が、膝の上でわずかに震える。
「そんなお宝を売ったら、宝くじに当たったようなものだと、思ってしまったんです」
ロビーがしんとする。
ケンジが視線を落とす。
三沢は男性の手元を観察している。
「宿のホームページを拝見しました。私が勤めていた当時、宿の改装がありましたが私以外それを知る人間はいないようでしたし……改装前の造りを知っているのも、私だけだと思いました」
女将の喉が、小さく動く。
「だから……」
男性はゆっくり顔を上げる。
その表情に凶暴さはない。
ただ、後悔がある。
「出来心でした」
雨音が、屋根を叩く。
スタッフのひとりが、思わず女将の袖を握る。
女性客は不安そうに後ずさる。
星兄は腕を組んだまま、静かに問う。
「あなたは、20時15分以降に……どうやって刀を?」
責める調子ではない。
事実だけを拾いにいく声。
男性はわずかに目を伏せる。
ロビーの全員が、次の一言を待っている。
男性は両手を膝の上で握り直す。
指先が白くなる。
「たまたまの連続でして……」
ロビーの視線が一斉に集まる。
「たまたま寄り合いで刀の話を聞きました。女将さんもスタッフの方々も、私のことをご存じない。改装前と後の構造も、私だけが知っている」
星兄は瞬きをひとつだけする。否定も肯定もしない。
「そして、この雨でしょう」
屋根を打つ音が、少し強まる。




