第37話 これからも
放課後。
茜色に染まる廊下を、俺は一人で歩いていた。
ことねは職員室に呼ばれている(前回のテスト結果が良すぎて、進路指導の先生に褒められているらしい)。昇降口で待ち合わせる手筈になっていた。
「……柏木」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには愛川リナが立っていた。
黒髪のボブカットが夕陽に透けている。その表情は、以前のような威圧感も、媚びるような甘さもなく、ただ真っ直ぐなものだった。
「……愛川か。48位、おめでとう」
「ふん。……見てたのね」
リナは少し照れくさそうに視線を逸らし、腕を組んだ。
「ま、当然よ。私だってやればできるんだから」
「ああ。知ってるよ」
「……ねえ、柏木」
リナは一度言葉を切り、俺の目をしっかりと見据えた。
「感謝はしないわよ」
「え?」
「あんたに捨てられたせいで、私は地獄を見たんだから。恥かいて、惨めな思いして……一生恨んでやるわ」
憎まれ口だ。そもそも捨ててない。まぁいいか。
だが、その声にはトゲがない。むしろ、悪友に軽口を叩くような響きがあった。
「でも……あんたがいなかったら、私は一生、自分の足で立てなかった。ゆいみたいな友達もできなかった」
リナは小さく息を吐き、口角を上げた。
「だから、『見返してやって良かった』って思ってる。……今の私は、あんたの道具だった頃より、ずっとイケてるでしょ?」
「……ああ。間違いないな」
俺は素直に頷いた。
今の彼女は、俺が付き合っていた頃よりもずっと綺麗に見えた。それは外見の問題ではなく、内側から滲み出る自信のせいだろう。
「リナちゃーん! まだですかー?」
昇降口の方から、橘さんの呼ぶ声が聞こえた。
リナの顔がパッと明るくなる。
「あ、今行く! ……じゃあね、柏木。次はもっと上に行くから、精々あの如月さんと仲良く首洗って待ってなさいよ!」
リナはヒラリと手を振ると、軽やかな足取りで駆けていった。
その背中に、もう未練の影はない。
彼女は彼女の物語の主人公として、新しい道を歩き始めたのだ。
***
昇降口を出ると、秋の冷たい風が頬を撫でた。
時計塔の下。
マフラーを巻いた如月ことねが、ちょこんと立っていた。
俺の姿を見つけると、彼女は花が咲いたように笑い、小走りで駆け寄ってくる。
「先生っ!」
当然のように俺の腕に飛びつき、ギュッと抱きしめる。
温かい。
この温もりが、今の俺の帰る場所だ。
「遅くなってごめん。……寒くなかったか?」
「ううん。先生のこと考えてたから、心はぽかぽかだよ」
「お前なぁ……」
「それに、見て」
ことねは自分の左手を俺の目の前にかざした。
薬指には、シンプルなシルバーリングが光っている。
前回のテストのご褒美デートで、俺がプレゼントしたペアリングだ(俺も恥ずかしながら、右手の薬指にはめている)。
「これが『先生の予約済み』の印だもん。見てるだけで無敵になれるの」
「……俺もだ」
俺たちは顔を見合わせ、照れくさそうに笑った。
帰り道。
俺たちは手を繋いで、いつもの並木道を歩いた。
枯葉を踏む音が心地よいリズムを刻む。
「ねえ、先生」
「ん?」
「私ね、先生に出会えて本当によかった」
ことねが不意に真面目なトーンで言った。
彼女は足を止め、俺を見上げた。
「あの時、暗い部屋で一人ぼっちだった私に、先生が『魔法』をかけてくれた。……勉強だけじゃなくて、生きる楽しさも、愛される喜びも、全部先生が教えてくれた」
彼女の瞳が、夕陽を受けて潤んでいる。
「私、先生がいなかったら、今頃どうなっていたかわからない。……ありがとう、先生。私を見つけてくれて」
「……よせよ」
俺は目頭が熱くなるのを誤魔化すように、彼女の手を強く握り返した。
「救われたのは俺の方だ。……『勉強しかできないつまらない男』だと言われて、空っぽだった俺に、『先生が必要だ』って縋り付いてくれた」
「ふふ、縋り付いたねぇ。必死だったもん」
「そのおかげで、俺は自分の価値を信じられたんだ。……お前がいたから、俺は強くなれた」
互いに欠けていたピースが、カチリと嵌まったあの日。
俺たちは共依存から始まり、ライバルになり、そして今、かけがえのないパートナーになった。
「……大好きだよ、湊くん」
ことねが、初めて名前で呼んだ。
「先生」という役割を脱ぎ捨てて、一人の男として呼ばれた気がした。
「ああ。俺も好きだよことね」
俺は彼女の肩を引き寄せ、夕暮れの路地裏の中で唇を重ねた。
優しいキス。
それは、これまでの感謝と、これからの未来への誓いのキスだった。
唇が離れると、ことねはへにゃりとだらしなく笑った。
「……んふふ。でもやっぱり、勉強してる時の『先生』も捨てがたいなぁ」
「どっちなんだよ」
「どっちも! 家に着いたら、また『先生』になって? ……期末テストに向けて、夜までみっちり指導してほしいな♡」
彼女は悪戯っぽく囁き、俺の腕にさらに強くしがみついた。
「望むところだ。……スパルタでいくからな」
「はーい! 覚悟完了です!」
俺たちは笑い合いながら、家路を急いだ。
空には一番星が輝いている。
俺たちの物語は、ここで一旦の区切りを迎える。
だが、この手と手の温もりがある限り、俺たちの毎日はこれからも、甘くて、少しだけ騒がしい幸せで満たされ続けるだろう。
さあ、次の季節へ。
俺たちの勉強は、まだ始まったばかりだ。
本編的な位置づけの話はこれにて終了です!
あと一話エピローグ的なお話挟んで終了となります!!




