第36話 それぞれの物語
夏休み明けテストの結果発表日。
二学期の廊下は、前回とは違う種類の熱気に包まれていた。
まだ冷めない、夏の終わりを告げる最後の暑さと共鳴するかのような、生徒たちの興奮と緊張。
「……行くぞ、ことね」
「うん。……ドキドキする」
俺とことねは、人混みの後ろに立った。
繋いだ手から、彼女の緊張が伝わってくる。
今回の俺たちの勝負は、順位だけではない。「点差」だ。
生徒たちが道を開ける。
掲示板の最上段。そこには、不動の光景があった。
** 1位 柏木 湊 (498点)**
5教科500点満点中、498点。ほぼパーフェクトだ。
周囲から「うわ、柏木またバケモンだ」「人間じゃねえ」と畏怖の声が漏れる。
だが、今回の主役は俺ではない。
そのすぐ下だ。
** 2位 如月 ことね (490点)**
どよめきが走った。
前回18位からの、驚異的なジャンプアップ。
しかも点数だ。俺との差は、わずか8点。
ケアレスミス一つ二つでひっくり返る、完全な射程圏内だ。
「……8点差」
ことねがその数字を見つめ、震える声で呟いた。
「10点以内……クリア、だよね?」
「ああ。完敗だよ。まさかここまで詰められるとは思わなかった」
俺は素直に降参して、彼女の頭をポンポンと撫でた。
「すごいな、ことね。本当によく頑張った」
「……やった。やったぁ……!」
如月は感極まったように俺の腕に抱きついた。
周囲の目も気にせず、涙目で喜びを爆発させる。
「これで『一日デート券』ゲットだよね!?」
「ああ。どこへでも連れて行ってやるよ」
「えへへ……覚悟しててね、先生♡」
俺たちの勝利は確定した。
だが、この日のドラマはこれで終わりではなかった。
***
「……い、行こう、リナちゃん」
「う、うん……」
人混みを掻き分けて、二人の少女がやってきた。
ガチガチに緊張している愛川リナと、彼女の手を引く橘ゆいだ。
リナの顔色は悪い。
前回の「268位」というトラウマが、彼女の足を竦ませているのだろう。
だが、隣にいるゆいが、力強く頷いた。
「大丈夫です。あんなに頑張ったんですから」
「でも……もしまた圏外だったら……」
「私が保証します。リナちゃんは、すごいです」
ゆいの言葉に背中を押され、リナは恐る恐る掲示板を見上げた。
まず、ゆいの名前があった。
** 9位 橘 結衣**
安定のトップ10入りだ。「さすがゆい!」とリナが小さく声を上げる。
そして、リナは震える視線を、その下へと滑らせていく。
1枚目のリスト。上位50名が載る、選ばれし者たちの場所。
前回のリナなら、見るまでもなく諦めていた聖域。
30位……ない。
40位……ない。
やっぱりダメなのか。リナが目を伏せようとした、その時。
ゆいが、リストの一番下を指差して叫んだ。
「ああっ! ありました! リナちゃん、ここ!!」
リナが弾かれたように顔を上げる。
リストの最下段。ギリギリの場所に、その名前はあった。
** 48位 愛川 リナ**
時が止まった。
268位からの、220人抜き。
「そこそこ」だった頃の自己ベストすら更新する、奇跡のV字回復。
「……嘘」
リナが口元を押さえる。
周囲の生徒たちもざわめき始めた。
「おい、愛川が50位以内に入ってるぞ」「マジかよ、あいつ黒髪にしてからガチだったんだな」「すげぇ……」
嘲笑や陰口ではない。
純粋な驚きと、称賛の声。
それは、リナが初めて「自分の力」だけで勝ち取った評価だった。
「う……うぅ……っ!」
リナの目から、大粒の涙が溢れ出した。
悔し涙ではない。惨めな涙でもない。
達成感と、喜びの涙だ。
「やった……私、やったよぉ……!」
「はいっ! やりましたね、リナちゃん!」
リナはその場でゆいに抱きついた。
ゆいも泣きそうな顔で、リナの背中をさすっている。
かつての派手な取り巻きたちと群れていた時よりも、ずっと輝いて見える光景だった。
俺は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
「……やるじゃないか」
ボソリと呟く。
俺の手を離れ、どん底に落ちて、それでも這い上がってきた元カノ。
彼女はもう、「便利な道具にすがる寄生虫」ではない。立派な一人の「生徒」――いや、対等なクラスメイトだ。
「先生」
隣で、ことねが俺を見上げていた。
彼女もまた、リナたちの姿を静かに見つめていた。
「……ライバル認定、更新しなきゃね」
「ん?」
「あの子、もう『雑魚キャラ』じゃないもん。……油断してたら、いつか喰われるかも」
ことねは楽しそうに笑った。
その瞳に、以前のような冷たい敵意はない。あるのは、強敵を認める敬意のような光だった。
「まあ、先生の隣は絶対に譲らないけどね?」
「はいはい。……行こうか、ことね」
俺たちは掲示板を後にした。
背後からは、まだリナとゆいの喜びの声が聞こえてくる。
全員が勝者だ。
それぞれが、それぞれの場所で、最高の結果を掴み取った。
この秋の訪れを告げる日は、俺たちの高校生活の中で、最も美しい記憶の一つになるだろう。




