第35話 それぞれの想い
夏休み明け最初の金曜日。
秀英高校は、テストを目前に控え、ピリピリとした緊張感に包まれていた。
迫るは夏休み明けテスト。うちの高校では夏休み明け10日後にテストを行う。
そこまで重いテストではないが一学期の復習を洗いざらい行う、というコンセプトのテストだ。
特にこれといった補習もないため、やる人はやるし、やらない人はやらない、そんなポジションのテストである。
放課後の教室。
俺、柏木湊は、いつものように窓際の席で、隣に座る恋人――如月ことねの勉強を見ていた。
「……よし。ここの微分の定義、完璧だな」
「えへへ。先生の教え方がいいからだよ」
ことねは俺の言葉に嬉しそうに微笑んだ。
夏休みの間、俺たちはとことん基礎を固め直した。その土台の上に、応用力が積み上がっている。今の彼女の実力は、前回の18位という順位がまぐれではないことを証明するレベルに達していた。
「先生。今回のテスト、私ね、目標があるの」
如月がシャーペンを置き、真剣な瞳で俺を見つめてきた。
「目標? 10位以内か?」
「ううん。……先生との点数差を、合計で10点以内に縮めること」
俺は少し驚いた。
10点以内。それは5教科合計で500点満点中、俺が満点近くとることを考えると、彼女も全教科98点平均を取らなければならない計算だ。
トップ層の争いにおいて、この「壁」はとてつもなく高い。
「大きく出たな」
「だって、いつまでも『教えてもらうだけ』の生徒じゃ嫌だもん。……先生の隣に立っても恥ずかしくない、対等なパートナーになりたいの」
彼女の瞳には、恋心だけでなく、健全なライバル心のような炎が宿っていた。
それが俺には眩しく、そして誇らしかった。
「……わかった。受けて立つ。俺も手加減はしないぞ」
「望むところだよ。……あ、もし達成できたら、ご褒美ね?」
「なんだ? またキスか?」
「んー、それもいいけど……次は、『一日デート券』がいいな。行き先もやることも、全部私が決めるやつ」
如月は悪戯っぽく舌を出した。
何をさせられるかわからない恐怖はあるが、今の彼女の頑張りを見ていると断る気にはなれなかった。
「……よし、約束だ。その代わり、達成できなかったら『先生の言うこと何でも聞く券』だからな」
「うぇ!? す、スパルタ……でも、燃えてきた!」
俺たちは顔を見合わせ、笑い合った。
互いを高め合える関係。これが、俺たちが辿り着いた形だ。
***
ふと、教室の前方に視線を向ける。
そこには、もう一つの「戦い」があった。
「あーもう、ここの文法ややこしい!」
「落ち着いてください、リナちゃん。ここはこの熟語とセットで覚えると楽ですよ」
教室の最前列付近。
愛川リナと、学年一桁台の秀才・橘さんが、机をくっつけて勉強していた。
黒髪になり、地味になったリナの姿は、すっかりクラスに馴染んでいた。
以前のような派手さや、周囲を威圧するようなオーラはない。
だが、今の彼女は、俺が付き合っていた頃よりもずっと生き生きとして見えた。
「うぅ……ゆいは教えるの上手いなぁ。前の誰かさんとは大違い」
「え、そうですか? 柏木くんのノート、すごく分かりやすかったですけど」
「ふん、あいつは理屈っぽいのよ。……ま、感謝はしてないけどね」
リナが憎まれ口を叩きながら、チラリとこちらを見た。
目が合う。
以前なら、そこには未練や嫉妬、あるいは媚びへつらうような色が浮かんでいただろう。
だが今は、フイッと視線を逸らし、すぐに橘さんの方へ向き直ってしまった。
(……良い顔になったな)
俺は心の中で呟いた。
彼女はもう、俺を見ていない。
「便利な道具」としての俺も、「未練のある元カレ」としての俺も、必要としていないのだ。
隣には、対等に議論し、支え合える友人がいる。
それが、彼女が見つけた彼女なりの「正解」なのだろう。
「先生? ……またよそ見?」
ほっぺたをツンと突かれる。
如月が頬を膨らませていた。
「あの子のこと、気になる?」
「いや。……ただ、あいつも頑張ってるんだなと思って」
「……ふーん。まあ、今のリナさんなら、ライバルとして認めてあげてもいいけど」
如月は余裕たっぷりに微笑むと、俺の腕にギュッと抱きついた。
「でも、先生の一番弟子は私だもんね?」
「ああ。一番弟子で、世界一可愛い彼女だ」
「ふふっ、言ったね! 言質とったよ!」
嬉しそうにはしゃぐ如月の頭を撫でながら、俺は窓の外を見た。
秋の高い空。
かつてはドロドロとした感情が渦巻いていたこの教室も、今はそれぞれの目標に向かう熱気だけが満ちている。
全員が、自分の足で立っている。
「……さあ、ラストスパートだ」
俺はペンを握り直した。
絶対王者(1位)として、彼女たちの壁であり続けるために。
そして、最高の景色を如月と見るために。
それぞれの想いを乗せて、運命の夏休み明けテストが始まろうとしていた。




