第33話 元ギャルとガリ勉優等生
放課後の図書室。
窓の外からは運動部の掛け声や、楽しげに下校する生徒たちの笑い声が聞こえてくる。
その喧騒から切り離された閲覧席の端で、愛川リナは一人、シャープペンシルを握りしめていた。
「……っ、意味わかんない」
小さな呻き声が漏れる。
目の前にあるのは、数学の基礎問題集。
夏休み中に中学レベルの復習は何とか終わらせた。だが、高校の範囲に入った途端、壁の高さが一気に跳ね上がった気がする。
(解説読んでも、その解説の言葉の意味がわかんないし……)
リナは苛立ち紛れに消しゴムをかけた。紙がぐしゃりと音を立てて破れる。
惨めだった。
かつては、こんな面倒な作業はすべて柏木がやってくれていた。「リナはここだけ覚えればいいよ」と、綺麗な要約ノートを渡してくれていた。
その「魔法の杖」を失った今、自分がいかに無力で、基礎がスカスカだったかを思い知らされる毎日だ。
(……柏木がいれば)
ふと、甘い誘惑が脳裏をよぎる。
チラリと視線を上げる。
図書室の反対側、窓際の特等席には、柏木と如月ことねの姿があった。
二人は身を寄せ合い、時折微笑み合いながら勉強している。夕陽に照らされたその光景は、映画のワンシーンのように美しく、そして残酷なほど遠い。
(……ダメ。見ちゃダメ)
リナは首を振り、再び問題集に視線を落とした。
あそこに戻る資格なんてない。縋っても惨めになるだけだ。
私は一人でやるって決めたんだから。
だが、決意だけで問題が解けるなら苦労はしない。
一時間経っても、たった一問すら進まない現実に、リナの目頭が熱くなってきた。
やっぱり、私には無理なのかな。
268位のバカが、いまさら足掻いたって――。
「……あの」
その時。
隣の席から、遠慮がちな声がかかった。
「え?」
リナが顔を上げると、そこにいたのは、分厚い眼鏡をかけた小柄な女子生徒だった。
髪は地味な三つ編みで、制服も着崩すことなくきっちりと着ている。
クラスメイトの橘結衣。
確か、学年順位一桁台の常連で、典型的な「ガリ勉」キャラだ。
以前のリナなら、「何? 陰キャが話しかけないでよ」と心の中で見下し、無視していただろう。
自分とは住む世界が違う。関わるメリットもない。そう決めつけていたはずだ。
「……なに?」
リナが少し警戒して答えると、橘はおずおずとリナのノートを指差した。
「そこ……公式の使い方が、違いますよ」
「え?」
「この問題の場合、定義域が移動するので、場合分けが必要なんです。……ずっとそこでペンが止まっていたので、気になってしまって」
橘は「余計なお世話でしたよね、すみません」と縮こまった。
リナは自分のノートを見た。
真っ黒になるまで書き殴って、結局答えが出なかった計算式。
それを、この子は見ていたのか。
恥ずかしさで顔が熱くなる。
バカにされたと思った。
「元カースト上位のくせに、こんな基本問題も解けないの?」と笑いに来たのかと思った。
だが。
橘の瞳には、嘲笑の色など微塵もなかった。
ただ純粋に、「解けない苦しさ」を知っている人間が向ける、心配そうな眼差しがあるだけだった。
(……あ)
リナは思い出した。
柏木も、最初はこんな目をしていた。
私がわからないと言うと、優しく、根気強く教えてくれた。
それを利用し、踏みにじったのは私だ。
また同じ過ちを繰り返すの? プライドを守るために、差し伸べられた手を払いのけるの?
リナは拳を握りしめ、深呼吸をした。
そして、今まで一度も下げたことのない頭を、深く下げた。
「……教えて」
「え?」
「私、バカだから……ここ、全然わかんないの。……お願い、教えてください」
震える声だった。
プライドもカーストもかなぐり捨てた、等身大の言葉。
橘は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにふわりと優しく微笑んだ。
「……はい。私でよければ」
橘は自分の椅子を引き寄せ、リナのノートにサラサラと図を描き始めた。
「難しく考えないでください。まずはグラフを描いて、ここが動くのをイメージするんです」
「……あ、柏木もそんなこと言ってたかも」
「柏木くんの解説は魔法みたいですからね。私はあそこまで上手くありませんけど……ほら、こうすると見えませんか?」
橘の説明は丁寧で、わかりやすかった。
何より、同じ目線で考えてくれているのが伝わってきた。
「……あ、解けた。……答え、3?」
「正解です! すごいです愛川さん、計算速いですね!」
橘が自分のことのように喜んでくれる。
その笑顔を見て、リナの胸の奥にあった冷たい塊が、少しだけ溶けた気がした。
「……橘さん、だっけ」
「はい。橘結衣です。……ゆいでいいですよ」
「じゃあ、ゆい。……私のことも、リナでいいから」
リナが不器用に言うと、橘――ゆいは、嬉しそうに頷いた。
「はい、リナちゃん。……ふふ、リナちゃんと話すの、実は初めてですよね」
「うん。……ごめんね。今まで、あんたのこと『真面目なガリ勉』って決めつけてた」
「あはは、事実ですから。でも、今のリナちゃんは……すごく真剣で、カッコいいですよ」
カッコいい。
その言葉に、リナはハッとした。
見た目を着飾っていた頃は「可愛い」と言われることはあっても、「カッコいい」なんて言われたことはなかった。
ボロボロの爪、黒髪、薄いメイク。
そんな今の自分を、この子は肯定してくれた。
「……ありがと」
リナは小さく呟き、ノートに向き直った。
図書室の向こう側では、まだ柏木と如月が二人だけの世界を作っている。
でも、もう羨ましくはなかった。
私には私の戦いがある。
そして今、その戦いを支えてくれる、新しい「戦友」ができたのだから。
交わるはずのなかった、派手なギャルと地味な優等生。
二つの線が図書室の片隅で交差した瞬間。
愛川リナの孤独な戦いは、終わりを告げたのだった。




