第32話 新学期 、そして元カノは
九月一日。
長い夏休みが終わり、二学期の始業式を迎えた朝。
通学路には、久しぶりに袖を通す制服姿の生徒たちが溢れ、気怠さと興奮が入り混じった独特の空気が漂っていた。
「……先生、ネクタイ曲がってる」
校門の手前で、隣を歩く如月ことねが足を止めた。
彼女は俺の前に立つと、慣れた手つきで俺のネクタイを直し始めた。
夏休み中に何度も見た、甲斐甲斐しい仕草。だが、制服姿でやられると、なんとも言えない背徳感というか、新婚夫婦のような甘い錯覚に陥る。
「……ありがとな。でも、ここ学校の前だぞ」
「いいの。……見せつけなきゃ」
ことねはネクタイをキュッと締め上げると、上目遣いで周囲を睨むように見渡した。
「夏休みの間に、先生を狙う悪い虫が湧いてるかもしれないから。……『柏木湊は如月ことねの所有物です』って、マーキングしておかないと」
「俺は電柱か」
「ううん。私の大事な旦那様(予定)」
悪戯っぽく笑うと、彼女は俺の腕にギュッと抱きついた。
周囲の男子生徒から「うわ、朝からあいつら飛ばしてるな……」「夏休み明けもバカップルかよ」という視線が刺さるが、もはや俺たちにとっては春のそよ風のようなものだ。
俺たちは腕を組んだまま、昇降口へと向かった。
二学期も、この甘い日常が続いていく。そう信じて疑わなかった。
――教室の扉を開ける、その瞬間までは。
***
二年A組の教室は、久しぶりに会う友人たちとの会話で賑わっていた。
俺たちが教室に入ると、一瞬だけ注目が集まるが、すぐに「はいはい、いつものね」といった感じでそれぞれの会話に戻っていく。
「よう、色男。夏休みはどうだったよ」
悪友の藤堂が、ニヤニヤしながら近寄ってきた。
「まあ、それなりにな」
「それなりって顔じゃねーぞ。……如月ちゃんの方を見りゃ一目瞭然だわ」
藤堂の視線の先で、ことねは自分の席に座り、俺の方を向いてニコニコと手を振っている。その全身からは、隠しきれない幸福オーラが湯気のように立ち上っていた。
「ま、平和で何よりだ。……そういえば、愛川の噂聞いたか?」
「愛川? リナのことか?」
元カノの名前が出て、俺は少し眉をひそめた。
花火大会の夜以来、彼女とは一度も連絡を取っていない。LIMEもブロックされたままだろうし、正直、どうしているのか気にする余裕もなかった。
「あいつ、夏休み中誰とも遊ばなかったらしいぞ。長谷川とも完全に切れて、家に引きこもってたとか」
「……へえ」
「まさか、ショックで不登校になんてなってねーよな」
藤堂がブラックジョークを言った、その時だった。
ガラッ――。
教室の後ろのドアが静かに開いた。
その場の空気が、水を打ったように静まり返る。
入ってきた女子生徒を見て、クラス全員が我が目を疑った。
誰かがポツリと、その疑問を口にした。
「……誰?」
そこに立っていたのは、見知らぬ少女だった。
いや、見知らぬ少女に見えた。
かつての派手な金髪は見る影もなく、濡れたような黒髪(正確には、限りなく黒に近いダークブラウン)に染め直されている。
髪は肩のあたりで切り揃えられ、清潔感のあるボブスタイルになっていた。
派手な付けまつ毛や濃いアイラインはなくなり、ナチュラルな薄化粧。
短く捲り上げていたスカートは膝丈まで戻され、着崩していたブラウスのボタンも一番上まで留められている。
まるで、更生した不良か、あるいは深窓の令嬢か。
あまりの変貌ぶりに、誰も声をかけられない。
だが、その顔立ちは間違いなく――。
「……愛川、さん?」
女子の一人が恐る恐る名前を呼ぶと、彼女は小さく頷いた。
「おはよう」
短く挨拶をし、彼女――愛川リナは、静かに自分の席へと歩き出した。
その足取りに、かつてのような「私はカースト上位よ」と誇示するような傲慢さはない。ただ淡々と、自分のテリトリーへ向かうだけの、静謐な歩調。
教室中がどよめきに包まれる。
「えっ、マジで愛川? 雰囲気変わりすぎだろ!」
「なんか……あっちの方が可愛くないか?」
「何があったんだよ……失恋のショックでおかしくなった?」
無遠慮なヒソヒソ話が飛び交う中、リナは誰とも目を合わせず、自分の席に座った。
そして、すぐに鞄から一冊の本を取り出した。
ファッション誌でも、スマホでもない。
使い込まれてボロボロになった、英単語帳だ。
「……!」
俺は息を呑んだ。
それは、俺が見たことのない彼女の姿だった。
俺と付き合っていた頃、彼女が自ら単語帳を開いている姿なんて一度も見たことがない。いつも「柏木ー、これ覚えておいてー」と投げていただけだったのに。
「リ、リナちゃん! 久しぶりー!」
空気を読まないかつての取り巻きグループが、興味本位でリナの席に集まってきた。
「何その髪! イメチェン? ウケるんだけど!」
「ねえねえ、今日学校終わったらカラオケ行かない? 長谷川くんの愚痴聞いてあげるよー」
ニヤニヤと笑いながら誘う彼女たちに対し、リナは顔を上げ、静かに告げた。
「ごめん。行かない」
「は? なんでよ。付き合い悪いじゃん」
「勉強があるから。……邪魔しないでくれる?」
冷徹な拒絶。
取り巻きたちは「なによあいつ」「調子乗ってんの?」と腹を立てて散っていったが、リナは意に介さず、再び単語帳に視線を落とした。
その一連のやり取りを見て、俺は悟った。
彼女は、パフォーマンスでやっているんじゃない。
本気だ。
あの、他人に依存することしか知らなかったリナが、たった一人で「孤独」を選び取っている。
ふと、リナが顔を上げた。
視線が交差する。
俺と、その隣にいることね。
以前の彼女なら、ここで睨みつけたり、泣きそうな顔を見せたりしていただろう。
だが、今の彼女の瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。
ただ事実を確認するように、スッと視線を逸らし、また手元の単語帳へと戻っていった。
(……俺たちのことも、もう眼中にないってことか)
それは寂しさではなく、清々しいほどの決別だった。
彼女はもう、俺を見ていない。俺のいない世界で、自分の足で歩き始めているのだ。
「……先生」
隣で、ことねが俺の袖を引いた。
彼女の表情は真剣そのものだった。
「……油断できないね」
「え?」
「あの子の目……私たちが不登校から復帰した時と、同じ目をしてる」
ことねには分かるのだろう。
どん底を見て、そこから這い上がろうとする人間の、飢えた目の色が。
「……そうだな」
ガララッ、と扉が開き、冴島先生が入ってきた。
先生は教室を見渡し、黒髪になったリナの姿を見つけると、一瞬だけ驚いたように目を見開き、そしてニヤリと笑った。
「席につけー。……フン、二学期は面白いことになりそうだな」
先生の嬉しそうな声が、教室に響く。
新学期。
最強のカップルとなった俺たちの前に現れたのは、嫉妬に狂う元カノではなく、全てを捨てて生まれ変わった、未知数のライバルだった。
愛川リナの逆襲――いや、「再生」の物語が、ここから静かに幕を開ける。




